NHK「100 分 de 名著」の『坂口安吾 堕落論』で、評論『堕落論』『続堕落論』『日本文化私観』と小説『白痴』が紹介されていたので、
それらも青空文庫で読んでみた。『堕落論』『続堕落論』は短いので、それぞれ30分もあれば読める。
『堕落論』を要約すると、人間の本性の汚い部分を中途半端に覆い隠すことをせずきちんと見極めましょう、ということだと思う。戦後の混乱の中で、格好を整えてもしょうがないじゃん、この際、本質的にいやらしい部分も正視しましょう―そういう宣言だ。
『白痴』は、『堕落論』と同じ年に書かれた短編小説で、『堕落論』と通底して人間の本性を見極めようとする姿勢が感じられる。そのために使われている道具立てが、空襲と白痴の女である。空襲の中を、主人公の伊沢と白痴の女が逃げ惑う姿が、人間の本性をカオス的にあぶり出している。白痴の女は、人間から理知を除いた生の肉欲とか恐怖だとかを表現するものである。
白痴の苦悶は、子供たちの大きな目とは似ても似つかぬものであった。それはただ本能的な死への恐怖と死への苦悶があるだけで、それは人間のものではなく、虫のものですらもなく、醜悪な一つの動きがあるのみだった。
不条理な死と隣り合わせにさせられる空襲という状況の中で、結局あぶりだされるものは、美しくもなければ醜悪でもなく、気力がみなぎるわけでも無気力なわけでもない。単純なものであれば小説にする必要もなく、小説家は読者を混沌とした世界に投げ込む。
女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。人が物を捨てるには、たとえば紙くずを捨てるにも捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだった。
『続堕落論』には、表面的な美徳が隠している欺瞞を具体的に暴いている部分があって面白い。曰く
- 農村文化を賛美している人がいるが、農村に文化など無い。あるのは、排他精神、他への不信、損得計算などだ。
- 耐乏を美徳としている人がいるが、不便に耐えず必要を求めるところから、発明が生まれ文化が起こるのである。
- 天皇制があるのは、権力者が天皇に号令させ、自らがその号令に従うことにより、号令をよく行き渡らせるためだ。天皇を冒涜する者が天皇を崇拝する。
という具合である。これだけバッサリ斬ってしまうと気持ちが良い。このようなうわべの衣をはがして人間の本性を見つめることが「堕落」であって、そこを出発点にするより無い、というのが著者の主張である。
こういった主張から終戦直後の若々しさが伝わってくる。今ならたぶん農村「文化」も天皇制ももっと多面的に議論していかないといけないであろう。しかし、上記のように喝破してみせること、これがやはり日本が生まれ変わるために必要だったのだろう。
戦中に書かれた『日本文化私観』も短い評論で、優れて個性的である。曰く、日本の伝統文化はどうでもよくて、形のあるものはさして意味がない。自然のまま何も無いのが一番良い。形あるものとしては、あえて言えば俗悪なものが良い。「俗悪を否定せんとして尚俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さがむしろ取柄だ。」さらに、美的に作られたものよりは、そんなことは考えずに機能だけで作られたものが良いとして、小菅刑務所やドライアイスの工場や軍艦が例として挙げられている。
こういった考え方も時代の産物であるともいえる。機能美を謳ったモダニズム建築も、20 世紀前半の潮流であった。が、ここでのポイントは、安吾が反発しているブルーノ・タウトがまさにモダニズム建築の建築家であったということである。タウトと安吾はある種同類なのだが、タウトでは不徹底だと安吾は怒っているのである。機能美は美を意識した途端にまがいものになってしまう。そんなことなら、いっそ無い方が良いとか、いっそ徹底的に絢爛豪華な方が良いとか、無茶苦茶言ってみせているのが安吾なのである。
今なら、文化とはもともと不健康なものだと開き直って、安吾に反論する議論もありうるだろう。そう考えると、文化など何でもありなので、議論してもしょうがないのかもしれない。しかし、そうはいっても、時代の潮流や価値観が反映されてできる何ものかが文化なのであろう。
放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 生きよ堕ちよ
『堕落論』を読んでゆく。
- 基本情報
- 昭和21年発表、安吾40歳の時の作品
- 『堕落論』の骨子
- 新しい生き方を自分で見つけよ。美に酔ってはいけない。道徳に従属してはいけない。
- 道徳観
- 道徳の能書き(たとえば「天皇のために」など)は上っ面なのだ。それをひっぺがしたところに人間の真実がある。
- 武士道や天皇制や貞節などといった道徳規範は、支配のために政治的に作られたもの。
- たとえば、女性の貞節は、女心の変わり易さを抑えるために作られた。武士道は、日本人を戦闘に駆り立てるために作られた。
- 堕落
- 空襲は美しかった。しかし、「敗戦後の表情はただの堕落に過ぎない。」
- 「生きているから堕ちるだけだ。」
- 「堕ちる」=生身の人間として生きる
- 「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。」=全部白紙に戻せ。
- 安吾の実生活
- 坂口安吾は闘う無頼派であった。
第2回 一人曠野を行け
『続堕落論』を読んでゆく。
- 堕落とは?
- 堕落とは、正直に赤裸々に生きること。
- 文章中、「堕落」という言葉が否定的な意味で使われているところと肯定的な意味で使われている部分があって、やや混乱している。
- 「堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義退廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。」
- 堕落することは、孤独である。自分の生きる道は、自分で拓かなければならない。「だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。」
- 同時代の人でサルトルも似たようなことを言っている。
- 坂口安吾の生い立ち
- 父親は子供に冷たく、両親の仲も良くなかった。
- 東京に出た安吾は、文学の世界に入った。薬と酒でトラブルを起こす。
- 求められる姿勢
- 常に思考停止に陥らず、自分の立ち位置を疑う。
第3回 法隆寺よりは停車場を
『日本文化私観』を読んでゆく。
- 『日本文化私観』
- ブルーノ・タウトの日本の伝統建築礼賛に対する反発。
- 桂離宮も龍安寺石庭もたいしたものではない。自然そのものには及ばない。
- 生活の必要が重要なので、日本人が健康であればそれで良い。
- 俗悪を極める
- 秀吉の俗悪を肯定する。太閤塀、智積院の屏風など。
- 格好をつけず欲望のままに作り上げたことがある意味で潔い。
- 生身の人間に還る。
- 美しいと感じたものは、小菅刑務所、ドライアイス工場、軍艦。必要なものが必要なところに置かれている。
- 健康な文化
- 「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい、我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。」
- 「我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。」
第4回 真実の人間へ
本日は、全体のまとめ。放送では、町田康がゲスト。『白痴』を読んでゆく。
- 『白痴』
- 町田康おすすめ。
- 主人公の伊沢は映画を志していたが、戦意高揚映画を作らされていた。住んでいる場末では、モラルが崩壊していた。
- 伊沢の家の押入れに、ある日白痴の女オサヨがいた。肉欲と空襲の恐怖の中で人間の姿を描く。
- 伊沢は不安を抱えていた。敗戦と会社の将来が心配だった。オサヨとの暮らしに夢を抱く一方、オサヨとの暮らしが周囲にバレることを怖れていた。
この問題は空襲によってクリアされる。
- 伊沢とオサヨは空襲の中を逃げ惑う。そして、猛火の中を何とか逃げ延びる。
- 逃げ延びた後は、幻影が消える。「今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。
あまりに今朝が寒すぎるからであった。」
- 『白痴』の終わりが『堕落論』のスタート地点。堕落するためには極限状況を生き延びるしかなかった。
- 岡本太郎の縄文文化論
- 岡本太郎は安吾の文化論の後継者であるとも言える。とくに縄文土器の美を発見し、その力強さを称揚した。
- まとめ
- ゼロベースで自ら考えることが重要。