春に散る

著者沢木耕太郎
連載朝日新聞 2015/04/01--2016/08/31
読了2016/08/31

夏目漱石『それから』『門』『吾輩は猫である』の再連載と並行して載っていたので、読んでみることにした。 漱石よりもちろんだいぶん読みやすくて、素直に話に入ってゆける。

元プロボクサーの広岡仁一が主人公だ。主要登場人物としては、広岡を中心にして4人の組が2つあるという構図になっている。 一つ目の組は元ボクサー仲間で、真拳ジムの四天王と呼ばれた広岡仁一-藤原次郎-佐瀬健三-星弘の4人である。 いずれも世界チャンピオンにはなれなかった。二つ目の組は2人×2で、広岡仁一-真田令子と黒木翔吾-土井佳菜子のペア2組である。 広岡-令子は、かつてのボクサーとジムムオーナーの令嬢という組み合わせで、 翔吾-佳菜子は、今のボクサーと不思議な生い立ちの女性という組み合わせである。 広岡は世界チャンピオンにはなれなかったが、夢を託された翔吾は世界チャンピオンになる。 広岡と令子はお互いにそこはかとなく惹かれあっていたものの距離を置いていたが、 翔吾と佳菜子は将来手を取り合って生きてゆくであろうことが予感される。

物語の最初は、アメリカの風景で始まる。 広岡は、ボクシングをやめた後ずっとアメリカに住んで、ホテル業で成功している。 それが、ある日思い立って日本へ帰ってくる。 そこで出会う人間模様とか、昔の回想とかが織り交ざって話が進んでゆく。 佳菜子は日本で住むアパートを借りる手続きをした不動産屋の従業員として登場する。 広岡の人生に興味を持ったらしく、何かと広岡の世話をしてやったり話をしにきたりする。 やがて、四天王の他の三人は刑務所にいたり、極貧の暮らしをしていたり、妻が死んで飲んだくれていたりしていることがわかる。そこで、広岡は一緒に暮らすことを提案する。 そのうちひょんなきっかけから、ボクシングの才能ある若者の翔吾を四天王が鍛えることになる。

物語の最後では、翔吾が激闘の末世界チャンピオンになる。その直後、眼の網膜剥離の手術を行う。 眼をこれ以上傷めないためには引退をすることになるであろうが、翔吾はサバサバしている。 最後の試合で見るべきものは見たと言い、広岡のようにアメリカでホテル業でもしようかと言う。 翔吾は目を傷めて、世界チャンピオンになった直後に引退をせざるを得なくなるが、佳菜子と新しい人生を力強く生きていくであろうことが暗示される。

「この眼は、あの試合で、見たいものを見ましたから」

最後は、広岡が持病の心臓病の発作で死ぬ。死なない終わり方もありえたと思うけど、心臓病の話を時々出していたので、最初から著者は広岡を最後には死なせるつもりだったのだろう。最後の一節は以下の通り。

広岡は徐々に薄れていく意識の中で思っていた。そうか、自分は、ただ歩いていきたかっただけなのだな、と。何かを手に入れるためでもなければ、何かを成し遂げるためでもなく、ただその場に止(とど)まりたくないという思いだけで、ここまで歩きつづけてきたのだな、と。

この最後の一節で示される通り、元ボクサーと若いボクサーを配置して、何か運命の命ずるままに活動させてみたらこうなったという感じの小説であった。充実した人生というのは、結局状況に応じて動き続けるということであろう。

ブログ「羊と猫と私」にかなり詳しいあらすじがある。