新版 歎異抄 現代語訳付き

訳注千葉乗隆
シリーズ角川ソフィア文庫
発行所KADOKAWA
電子書籍
刊行2013/12/15
電子書籍の元になった文庫2001/07/25、版:2012/12/25(8版)
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読了2016/04/25

歎異抄

著者釈徹宗
シリーズNHK 100分de名著 2016 年 4 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2016/04/01(発売:2016/03/25)
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読了2016/04/25

これまで『歎異抄』に触れる機会はなかったが、現代語訳と解説付きで読んでみると、短いしわかりやすくてすぐに読める。角川ソフィア文庫版の現代語訳は平易でわかりやすい。ただし、電子書籍で読むときは、原文と現代語訳と巻末解説が離れたところにあって、移動するときにいちいち目次に行かないといけないのが煩わしかった。もっと簡単に行き来できるように工夫して欲しい。

親鸞教は初期仏教と正反対みたいな宗教なので、ある種の堕落かと思っていたのが、これまで『歎異抄』を開いてみようとも思っていなかった理由の一つである。しかし、『歎異抄』に触れてみると、これはこれで清々しいし哲学的だということがわかった。神秘的な面を除いて一口で言えば、謙虚にありのままの自分を認めて生きよという思想だと思う。人間一人一人の考えたりやったりすることはどうせロクでもないと思っておれ、というわけである。

親鸞の教えから阿弥陀仏を取り除いて自然の摂理に置き換えると、これは決定論(自由意志否定論)から導かれる生き方の指針と見ることも出来る。決定論の倫理的な問題は、悪いことをしても責任はないのかということにある。『歎異抄』でも、第十三条では、悪人正機なら悪いことをわざとしても良いのかという問題が扱われる。これに対し『歎異抄』はこう答える。まず、この世の行いは宿業(宿善・悪業)のせいだと断ずる。これは、過去の因果がものごとを決めているとする意味で決定論である。本当を言えば、元々の仏教が解脱を目指していたインド思想的輪廻観が反映しているので、ちょっと変な感じもするが、ともかく宿業論を決定論とみなすことにしよう。そこで、善いことをするのも悪いことをするのも自分では決められないとする。とはいえ、わざと悪いことをするのは、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と戒める。しかし、そうはいっても、善悪の区別もそう簡単ではないので、阿弥陀仏に身をゆだねなさい、とする。今風に言えば、決定論なので、自由とか責任とかは無いし、凡夫には善悪の判断も難しいけれど、謙虚に自省を繰り返して生きましょう、という生き方案内になっている。

とはいえ、わざと悪いことをすることを戒める論理はこれではもちろん弱い。善悪の判断は凡夫には難しいというようなことを言ってしまうと、弱くなるのはやむを得ない。しかし、善悪の判断は難しいという一方で、仏教で元々悪いことということになっている十悪・五逆が悪であることを疑っているわけではないようである(第十四条)。この辺は倫理学ではないので、仏教の伝統と常識とを適宜組み合わせて判断するということだろうか。ともかく、まず謙虚でない人には『歎異抄』の論理はなじまない。

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり(後序より)

仏教というのは不思議なものである。元々の仏教は、けっこう理屈っぽかったし、宇宙観をも伴っていた。ところが、親鸞にまでなると、凡夫にはそんな難しいことはわかりませ〜ん、と正直に言う。凡夫には煩悩を滅するなんてできませ〜んと正直に言う。善悪もわかりませ~んということになってしまう。そこで、謙虚とか正直とかいった、もっと素朴なモラルに訴え、救済を約束する。

YouTube の 「原発危機と親鸞ルネッサンス」01(前半)安冨歩師 によれば、親鸞のすごいところは第九条にある。ここでは、唯円が、念仏をしても心が浮き立たないんですけどォ、と訴える。それに対して、親鸞は、実は俺もそうだ、と答える。つまり、ちゃんと信じられなくても良いのだ、凡夫にはそんなことはもともとできない、そのような自覚がある人にこそ阿弥陀仏の救いがあるはずなのだという論理になる。安冨氏によれば、こんなふうに、信心深くなくて構わないよ、なんていうことを言った教祖は空前絶後だろうということで、そこがすごいのだということである。

後序に出てくる次の文句がまたすごい。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり

これは、独我論とも見られる。実際、YouTube の 「原発危機と親鸞ルネッサンス」02(後半)安冨歩師の解説では、親鸞は哲学的独我論者であったということだ。独我論には他者をどう理解するかという問題が伴う。親鸞においては、他者とは如来の本願を親鸞に伝える人である。これを方便という。こうなると、他者が自分と同じような存在かどうかは問題ではなくなる。親鸞の教えはややもすると受動的なものと受け取られがちだが、親鸞自身は決して受動的な人ではなかった。とくに、親鸞は弾圧に屈しなかった。親鸞にとって、方便は与えられたものではあるが、仏の教えは受動的には受け取ることができないものであり、積極的に受け止めなければならないものであった。

こういったことでわかる通り、親鸞は論理的に突き詰めて考えたい人だという意味で、哲学的思考をしたがる人物だったのだろう。それが、ものを深く考えない人でも救ってあげるという浄土真宗の開祖であったというのが面白い。

角川ソフィア文庫版のメモ

巻末解説より

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 人間の影を見つめて

『歎異抄』
1288 年頃、常陸国河和田の唯円が書いたとされる。
最古とされる写本は、西本願寺所蔵の蓮如本。
前半の「語録(師訓)篇」には、親鸞の教えや語録がまとめられており、後半の「歎異(異義)篇」では、唯円が正しい解釈を説いている。「歎異」は、親鸞と異なる解釈が広まったことを歎くということ。
親鸞
1173 年生まれ。9 歳で仏門に入り、29 歳で法然の門下となる。1207 年、承元の法難に遭って越後に流される。放免後は常陸国を中心に教化活動を続ける。60 歳を過ぎて京都に戻り、90 歳で亡くなる。
法然の教えは称名念仏という易行(いぎょう)。南無阿弥陀仏と称えれば、誰でも浄土に行ける。
非僧非俗の生活=妻帯もし肉食もした。
法然は、悟り型宗教から救い型宗教への転換を行った。
悟り型=難行=自力=聖道門
救い型=易行=他力=浄土門
第一条
阿弥陀仏の誓願=念仏を称えた人はみんな救う
阿弥陀=無量寿(命限りなし)=無量光(光限りなし)
南無=おまかせします
阿弥陀仏は救済原理の象徴
枠からこぼれる人を救うとともに、自力で成功したと思っている人の傲慢を突く。
第二条
念仏あるのみ
とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし =本当に救われるかどうかわからないけれども、私は行をしたとしてもうまくできずに地獄に落ちることになる身だから、後悔は無い。
第四条
普通の慈悲は不完全。そこで仏となって人々を救うことを目指す。
第五条
すべての生命は繋がっているから、念仏をただ亡き父母のためだけに称えることはない。
念仏は自分の力ではない。仏様の導きで称えさせていただいているもの。
第六条
仏様の前では師も弟子もない。皆等しく仏様におまかせしているのみ。

第2回 悪人こそが救われる!

第三条
善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
阿弥陀仏の本願の心にお任せすれば、浄土に往生させていただける。
善人=自ら修行して悟りを開ける人。悪人=それができない煩悩具足のわれら。
悪人正機、善人傍機
この悪人正機説は、もともとは法然の言葉であったと推測される。
どんな行為も偏ってはいけないというのが、仏教の教え。
第七条
念仏は、ただひとすじの道。
第八条
念仏は、行でも善でもない。これはひとえに阿弥陀仏のはたらきによる。
第九条
唯円は、念仏しても迷いが無くならない不安を訴えた。親鸞は自分もそうだと答えた。自分も唯円と同じく煩悩から逃れられていない。だからこそ往生は間違いないと親鸞は説いた。
苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養(あんにやう)浄土はこひしからずさふらふこと、まことに、よくよく、煩悩の興盛(ごうじやう)にさふらうにこそ。=生きていたい。どんなに素晴らしいと言われても、浄土が恋しくない。そう思うのは煩悩が盛んなせいだ。
第十条
念仏は理解を超越しているものだ。
社会の中の悪人
親鸞は普通の人と生活を共にした。
当時は、商人や猟師は蔑まれて「悪人」と呼ばれた。彼らこそ救われるべきだと親鸞は考えた。仏の目から見れば貴賎は無い。
宗教は、社会とは別の価値を持つ。悪人正機説はまさに宗教の論理である。
念仏は仏の呼び声
念仏は仏の名を称えることだが、親鸞によれば自分の称えた「南無阿弥陀仏」は仏の呼び声となって聞こえてくる。 称名は聞名(もんみょう)である。

第3回 迷いと救いの間で

『歎異抄』後半「歎異篇」(「異義篇」)
横行している間違った見解を正す。批判している対象は、専修賢善と造悪無礙とに大きく分けられる。
第十三条「専修賢善」
「良いことをしないと往生できない」(専修賢善)という見解を批判する。良いことをするか悪いことをするかは縁に依る。そもそも善悪の判断は自分の都合でしかない(第十一条も参照)。 同時に、「悪いことをしても構わない」(造悪無礙)という見解も批判する。薬があるからといって毒を好むのは誤り。
第十四条「念仏滅罪」
念仏すれば罪が消えるわけではない。これは自力の考え方。体調が悪かったりして念仏できないこともあるだろう。それで往生できないとすれば、阿弥陀仏の本願に反する。罪を抱えたまま浄土に行く。
唯円は、信心だけあれば念仏は要らないという考え方を展開する。親鸞自身はそこまでは言っていない。
「念仏には無義をもって義とす」(第十条)が親鸞の念仏観。
第十一条「誓名別信」
阿弥陀様の誓願を信じることと念仏の不思議なはたらきを信じることとを区別する意味はない。
第十二条「学解往生」
ちゃんと勉強しないと往生できるという人がいるが、それは誤り。
第十五条「即身成仏」
現世で悟りを開くというのは自力であって、きわめて難しく、他力の教えではない。
第十六条「回心滅罪」
回心は罪を犯して反省するたびにするものではなくて、阿弥陀仏にすがるという決心をするという人生ただ一度のできごとである。
回心(えしん)とは、心の向きを変えるということ。ここでは、自力の心を捨てて、他力の心になることを指す。
自然(じねん)とは、あるがままの存在のこと。はからいを捨てて、仏の導きによって、こうでしかなかったという状態になること。
第十七条「辺地堕獄」
自力の念仏だと、とりあえず浄土の隅っこ(辺地)に行くが、やがて最後には真実の浄土に行けるのであって、地獄に堕ちるのではない。
第十八条「施量別報」
お布施の多寡によって救いが変わるなどということはない。

第4回 人間にとって宗教とは何か

『歎異抄』「後序」
信心は如来から賜ったもの。すなわち、絶対他力。だから、法然聖人の信心も親鸞の信心も全く同じ。
阿弥陀仏は私を救うために存在する=宗教は、自分のための物語。
善悪は自分にはわからない、ただ念仏のみが真。
『歎異抄』の意義
他力の念仏は、聞名(もんみょう)=阿弥陀様の言うことを聞く。
浄土という「帰る世界」があればこそ、苦しい人生を生きることができる。
日本仏教はウエットで情緒的。一緒に寄り添って泣いてくれる。
宗教の意味を考える
現代人は、宗教をつまみ食いしようとする。しかし、それでは、リミッターが効かなくなることがある。