ジャーナリズム崩壊

著者上杉 隆
シリーズ幻冬舎新書 089
発行所幻冬舎
電子書籍
刊行2013/06
電子版の元になった新書2008/07/28
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2016/10/30

日本の大メディアがいかに腐敗しているかを告発している本。「記者クラブ」という閉鎖的なお仲間を作り、横並びで、政府の広報活動をしているという浅ましい姿が暴露されている。読みやすいのですぐ読めた。著者によると、記者クラブの記者は政治家からも舐められているようである。著者が政治家秘書をしていたときに先輩秘書から聞いた言葉が紹介されている(第4章「記者クラブとは何か」―第3節「英訳・キシャクラブ」―「なめられるエリート記者」)。

いいか、仮に、記者クラブ所属の新聞、通信、テレビなどの記者連中が来てもそれは放っておいて問題はない。あの連中は仲間だし、安全パイだ。まず、とんでもないことはしでかさんよ。問題は、雑誌とかフリーの記者がやってきたときだな。
道理で大新聞やテレビはいつも問題の本質を突かないわけである。

こんな話は 3.11 とか 9.11 以前だったら半信半疑で受け止めたかもしれないが、こういった事件の後のメディアの体たらくを見るに付け、まさに切実な現実だとわかるようになってきた。現に今でも TPP 法案が審議されているはずなのに、ほとんど報道されていない。メディア自身も TPP でグローバル資本に呑み込まれる可能性があるにもかかわらずだ。大メディアはすでに外資の支配下にあるらしい(フジテレビの株式の外国人保有比率は 30% 近い)ので、すでに批判能力を失っているようだ。さらに、ここに書かれているような横並び意識があるとすると、個々の記者が深刻に受け止めていない理由もよくわかる。他社も深刻に受け止めていないのだから自社もたぶん大丈夫だろう、一社員である自分たちが心配してもしょうがない、と思うのはごく自然な話ではある。ただまあ、実際にそうなって自分が解雇の憂き目に会った時、ジャーナリストであれば文句は言えないはずだ(大メディアは横並びで TPP に賛成だし)。

始めのほうで、著者は、新聞が引用に引用先(クレジット)を書かないということを批判している(第1章「日本にジャーナリズムは存在するか?」―第2節「メモ合わせ」)。 私もかねがね不思議なのは、新聞だけでなく、新書類などでもふつうあんまり引用文献をちゃんと書かないことである。 著者は、とくに盗用という意味で批判しているのだが、それもさることながら、読者として困るのは、書かれていることの根拠がよくわからないことが多いということである。単なる事実の記述には著作権はないので、そのソースを示さないのは盗用ではないが、根拠が不明確になる事には変わりが無い。 これに関連して不思議に思っていることは、教科書を書くときでもあんまり出版社は引用文献をたくさん載せたがらないということだ。大学初年次の物理学や数学のように書くことがもうほとんど確立されていてかつ論理だけでだいたい構成できる場合は、まあそれもありかなと思うけれども、地球科学のように基本的なことでもけっこう確立されていないことがあるような分野では、ある程度引用がないと根拠がよくわからなくなることが多い。

上記のクレジット問題に関連して、「わかった」報道が批判されている。これは、事件が起こってからしばらく経ってから「○○していたことがわかった」と各社横並びで一斉に報道する事態である。本書では、どういう理由で「わかった」のかが一切書かれないというクレジットなしを批判している。むろん、情報源を隠す必要がある場合もあるのだが、本書で書かれている例では、『週刊朝日』が報じた翌日に各社一斉に報道しているので、素直に受け取れば、『週刊朝日』によればとか、『週刊朝日』が報道したので驚いて警視庁に確認してみたら、とか書くべきところである。しかしまあ、実際は各社すでに知っていてそれまで隠していたということも考えられる。こういうことも日本の報道に多いと思う。つい最近話題になった豊洲市場地下空洞問題もそうである。今頃「わかった」などというのは報道機関としてどうかしていると思う。本当に今頃分かったなら、今までこの問題に関心が無かったことを恥じなければならないし(豊洲は昔から問題になっていたにも関わらずチェックしていなかったということになるから)、知っていて報道していなかったのなら不誠実である。もっとも、豊洲問題は、著者が語っているところによると、突っ込みすぎるとメディア利権に関わるので深く追求しないようにしているそうである。