石牟礼道子 苦海浄土

著者若松英輔
シリーズNHK 100分de名著 2016 年 9 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2016/09/01(発売:2016/08/25)
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読了2016/09/28

『苦海浄土』を読んではいないけれども、この「100分de名著」の紹介を読むだけで、描かれている魂の叫びに心が動かされる。石牟礼は、人々の声にならぬ声を代弁した。巫女のように祈りや呪詛の言葉を綴った。

その問いかけは、福島原発事故が起こってみると、まだ今でも生きていることがわかる。

『苦海浄土』は、池澤夏樹が戦後日本文学を代表する作品ということで、自らが編集する世界文学全集に日本からの唯一つの作品として入れていた。それで最近注目が集まり、ここに取り上げられたのだろう。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 小さきものに宿る魂の言葉

水俣は漁業が盛んな美しい土地であった。漁民は貧しいこともあって、自分で獲った魚をたくさん食べて生活していた。

水俣病は 1950 年代に起こり、1956 年に正式発表があった。今年はそれから 60 年。

『苦海浄土』は、第一部は 1969 年に発表、その後、第三部、第二部と発表された。『苦海浄土』は告発文学ではない。水俣病は言葉を奪う病である。石牟礼氏は、その言葉を奪われた人の心を汲み取っていった。石牟礼氏は、詩のつもりで書いていると言った。

石牟礼氏は、初めて患者に会いに行ったとき、患者が苦しくて壁をかきむしった跡を見た。この世に心を残しつつ死んでゆく患者を見た。石牟礼氏は、言葉を発することができない患者の心の口となった。

最初に書いたのは「ゆき女きき書き」であった。ゆきは、漁師の嫁であった。ゆきは、漁を幸福な経験として回想する。

坂本きよ子をめぐって:

私がちょっと留守をしとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面の這うとりましたですよ。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。曲がった指で地面ににじりつけて、肘から血ぃだして、『おかしゃん、はなば』ちゅうて、花びらば指すとですもんね。花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。(「花の文を―寄る辺なき魂の祈り」2013)

第2回 近代の闇、彼方の光源

水俣病の歴史:1959 年、熊本大学により有機水銀説が発表される。1968 年、国によって公式に認められる。

石牟礼は、近代への呪術師たらんとした。石牟礼は、新しい詩の形を示すというつもりで『苦海浄土』を書いた。詩は、叫びであったり、嘆きであったり、呪詛であったり、祈りであったりする。

魂の問題を国がすくい取ってくれない。患者が番号で呼ばれるという近代の闇。

釜鶴松:
このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。
ゆき:
自分の体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏んばって立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あをさをとりに行こうごたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺん―行こうごたる、海に。
ゆり:

ゆりはもうぬけがらじゃと、魂はもう残っとらん人間じゃと、新聞記者さんの書いとらすげな。大学の先生の診立てじゃろかいなあ。

そんならとうちゃん、ゆりが吐きよる息は何の息じゃろか――。草の吐きよる息じゃろか。

うちは不思議で、ようくゆりば嗅いでみる。やっぱりゆりの匂いのするもね。ゆりの汗じゃの、息の匂いのするもね。体ばきれいに拭いてやったときには、赤子のときとはまた違う肌のふくいくしたよか匂いのするもね。娘のこの匂いじゃとうちは思うがな。思うて悪かろか……。

ゆりが魂の無かはずはなか。そげんした話はきいたこともなか。木や草と同じになって生きとるならば、その木や草にあるほどの魂ならば、ゆりにも宿っておりそうなもんじゃ、なあとうちゃん。

第3回 いのちと歴史

水俣病は、猫などの動物にも被害を与えた。生類全体への罪であった。

江津野杢太郎少年は胎児性水俣病であった。聞くことはできるが、話すことは出来ない。沈黙の中で魂を見つめている。

あの石は、爺やんが網に、沖でかかってこらいた神さんぞ。あんまり人の姿に似とらいたで、爺やんが沖で拝んで、自分にもお前どんがためにも、護り神さんになってもらおうと思うて、この家に連れ申してきてすぐ焼酎(おみき)ばあげたけん、もう魂の入っとらす。あの石も神さんち思うて拝め。

爺やんが死ねば、爺やんち思うて拝め。わかるかい杢。お前やそのよな体して生まれてきたが、魂だけは、そこらわたりの子どもとくらぶれば、天と地のごつお前の魂のほうがずんと深かわい。泣くな杢。爺やんのほうが泣こうごたる。

杢よい。お前がひとくちでもものがいえれば、爺やんが胸も、ちっとは晴るって。いえんもんかのい―ひとくちでも。

杢太郎のモデルとなったのは、半永一光さんである。水俣病公式確認 60 周年を迎え、半永さんも還暦を迎えている。半永さんは、写真を撮ったり、書道をしたりしている。

水俣には、奥行きのある時間がある:

私どもが現世と見ている世界は、そんなふうに苔一本でも、石ころ一つでも、岩でも、木でも、草でも、風にさえも命や性格やがあって、雪にも雨にも全部そういう命があって、それを私どもの地方では、命とはいわないんですけれども、神さまというんです。(『花をたてまつる』)

歴史に学ぶということでは、足尾銅山鉱毒事件がある。石牟礼は、田中正造を思想上の師と仰いだ。近代の闇は辺境で顕在化する。足尾、水俣、福島と辺境で大きな事件が起こった。

わたくしは、おのれの水俣病事件から発して足尾鉱毒事件史の迷路、あるいは冥土のなかへたどりついた。これは逆世へむけての転生の予感である。もはや喪われた豊饒の世界がここにある。人も自然も渡良瀬川の魚たちも足尾の山沢の鹿たちも猿たちも。(「こころ燐にそまる日に」『新版 谷中村事件―ある野人の記録・田中正造伝』解題)

「逆世へむけての転生」とは、過去に立ち返ってやり直すということであろう。あるいは、公害のなかった過去に想いをめぐらせるということか。

第4回 終わりなき問い

ゲスト:緒方正人(水俣病患者) 今も漁師を続けている

緒方正人氏は、患者の代表として闘ってきた。補償がお金に換算されることに絶望し、31歳の時、患者団体を抜けて、一人で闘うことにする。木の船でチッソの正門前に行ってしばらく過ごした。それは一種の表現活動のつもりだった。「私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。」

杉本栄子氏は、水俣病を「のさり」(天からの恵み)だと思うことにした。苦しみも天から授かったものだと思って引き受ける。

緒方「不知火海では、春は陸よりも早く来る。海では、命のにぎわいの中に人が参加できる。」

水俣病を生きる人々の問いかけ:

患者さんの杉本栄子さんと緒方正人さんからいろいろうかがううちに、あるとき「私たちはもうチッソを許します」というお言葉が出てきました。私はハッとして「それはどういう意味でしょうか」と申し上げましたら、「いままで仇ばとらんばと思ってきたけれども、人を憎むということは、体にも心にもようない。私たちは助からない病人で、これまでいろいろいじわるをされたり、差別をされたり、さんざん辱められてきた。それで許しますというふうに考えれば、このうえ人を憎むという苦しみが少しでもとれるんじゃないか。それで全部引き受けます、私たちが」と。(『花の億土』へ)
ここ四十年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。(中略)時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかということが、大きな問いとしてあるように思います。(緒方正人『チッソは私であった』)
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