ブラタモリは好きでよく見ているテレビ番組なのだが、本を片手に行ってみようと思ったのは初めてである。 京都での研究会の帰りに、本を片手に伏見の丹波橋駅近くを少し散策してみた。
伏見はかつての秀吉の都だったのだが、行ってみるとそんな面影は無い。説明付きで地形や町割りを見て初めてそうなのだということがわかる。 丹波橋駅周辺は、住宅街で道が狭い。住宅が立て込んでいるので見通しが悪く、ここが大きな都だったとは言われないとわからない。 丹波橋のあたりから東に向かって伏見城跡までずっと上り坂である。京阪電鉄のあたりが桃山断層だそうで、 そこから東側は斜面が急である。緩斜面のところが町人の町で、急斜面のところが大名屋敷町である。 道は斜面の方向の東西方向とそれに直交する南北方向に走っている。これが秀吉が作った町割りの名残だそうだ。 あまり時間がなくて、丹波橋からほぼまっすぐ東に行って、伏見桃山城模擬天守のところまで行ったところで薄暗くなり、散策はおしまいとなった。 地図によると、城跡は広大なはずなのだが、見通しが利かずその広さは実感できなかった。
昔、大きな都市を作ろうとするとき、日本のような土地だと場所探しが結構大変である。平野の平らな場所は往々にして低湿地で 洪水の危険に常にさらされる。台地には水の確保の問題がある。伏見は丘陵地で、造成が大変なものの、宇治川が近くて水運があり、 交通の要衝にもなりうるということで選ばれたようである。
以下の web pages なども参考にしつつ秀吉の伏見の歴史をまとめてみると、以下の通り。 秀吉は最初景勝地である指月(本書では振り仮名は「しげつ」となっているが、ネット検索すると「しづき」と読んでいる例もある。 現在のJR奈良線桃山駅の南側。)に豪華別荘を作っていた。ここは巨椋池を見下ろす月見の名所として知られていた。 秀吉は、交通網を整備すれば伏見が交通の要衝となることに気付いて、 交通網を整備し、別荘を城(指月伏見城)に改修するとともに城下町を作り始めた。 この指月城跡付近からは、ごく最近金箔瓦などが発掘されたということで番組で紹介されている。 秀吉が整備した伏見街道は、現在の京阪本線にだいたい沿っており、京阪の駅で言えば清水五条から中書島にだいたい相当し、 京都では現在の東山区の本町通、伏見の丹波橋駅付近では京町通に相当するようである。 間もなく慶長伏見地震で城が潰れたのを機に、より高くて北方も見渡せる木幡山に城を移転した。 木幡山の上にある伏見城からは、京都、大阪、奈良を見渡せる。
伏見関連 web pages :
- Wikipedia 「伏見城」
- 伏見 in 「ぶらーり ひとーり まちあるき」
- 伏見街道を行く in 「ぼちぼちいこか」
- 伏見城 その1(山城国) in 「三日月の館 3」
- 伏見城(指月城)跡の発掘調査 現地説明会 in 「ランニング好きの研修トレーナーの日記」
- 指月の丘地図 in 梅林秀行 twitter
本書で取り上げられているところで、他に行ったことがあるのは、伊勢神宮の内宮と外宮である。だいぶん昔なので、そんなに憶えていない。 そもそも正殿は一般人は見られないので、なんか壁があったみたいな印象になってしまう。 御師(「おんし」と読む。下級の神職で、主な収入源は旅館業兼旅行会社業。)の話が取り上げられているが、 明治政府によって廃止させられてしまったとのこと。おかげでお伊勢参りの文化が途絶えてしまった。 やはり、明治政府の宗教政策は文化破壊行為だったと改めて思う。 ちょっと見ただけでは、町には江戸の面影はない。ブラタモリを見てから行けば見つけられたかもしれないけど。
そのほか本書で取り上げられているのは、嵐山と志摩。どちらも地質学的な側面が取り上げられているのが注目される。 嵐山はチャートと断層、志摩は付加体と海岸段丘がポイントである。