ハンナ・アーレント 全体主義の起原

著者仲正 昌樹
シリーズNHK 100分de名著 2017 年 9 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2017/09/01(発売:2017/08/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2017/09/26

アーレントはいずれ読んでみようと思っていたけど、読むよりも先に「100分de名著」が来た。 国民国家と民主主義(大衆)が全体主義を生み、ふつうの人が巨悪を支えるという、 現代社会の背後にある危険性が明らかにされている。現代人が必ず知らなければならないことだ。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 異分子排除のメカニズム

ハンナ・アーレント
1906生まれ。
裕福なユダヤ人家庭に育つ。
ヒトラーが政権を掌握すると、パリに亡命し (1933 年)、その後アメリカに亡命 (1941 年)。
1951 年、『全体主義の起源』出版。
第1巻「反ユダヤ主義」
反ユダヤ主義は19世紀に現れた。それまでのユダヤ人憎悪とは異なる。
国民国家の時代になり、ユダヤ人にも人権が与えられた。一方で、国民国家は構成員の同質性を要求する。
そこで、同権になったため、かえってユダヤ人は消滅させられねばならなくなった。
ユダヤ人のイメージが、隠密の世界勢力というようなものになっていった。その一つの原因は、ユダヤ人に国際的金融財閥(ロスチャイルド家など)や、大学教授、医師、弁護士などの社会的エリートが多かったこと。
1894年、フランスでドレフュス事件が発生。ドレフュスがユダヤ人士官であったため、逮捕され流刑になった。のちに冤罪であったことがわかる。
このようにして、ユダヤ人は社会内部に潜む敵だとイメージされるようになっていった。

第2回 帝国主義が生んだ「人種思想」

第2巻「帝国主義」を読む。

帝国主義と国民国家
ローマ帝国は、法を基盤とし、法は他の民族にも等しく適用された。このような帝国主義は、国民国家と相容れない。国民国家は民族としての同一性を求める。
国民国家は、異質な住民を統合することはできない。そこで、異なる民族を圧迫することになる。
コンラッド『闇の奥』が多く引用されている。イギリス人クルツが原住民を従える物語。
人種思想=自分たちと違った種類の人間を支配できるという考え方。白人は優れていると考えた。
ドイツの帝国主義
1871年、ドイツ統一。ヨーロッパ内での支配地域を増やそうとする大陸帝国主義を取る。しかし、第一次世界大戦で敗北。
1919年、ワイマール共和国成立。民族的ナショナリズム=血の共同体として民族の統一を目指す。自分の民族は比類ないと考える。
民族Volkは、歴史性を強調した概念なので、解釈によっては範囲が広がる。→先祖が住んでいた土地(=神聖ローマ帝国)を支配したいということになる。
ワンダーフォーゲル運動は、かつてドイツ民族が住んでいた土地を訪れるという運動。
無国籍者の発生
ロシア革命と第一次世界大戦後の国境の移動で大量の難民が発生した。
無国籍者は法によって守られず、人権も持たない。人権は生まれながらの権利であるべきだが、実際には誰も守ってくれなくなる。普遍的人間性の理想の限界が見えてきた。
nation に属しない人々が、市民権を失った。

第3回 「世界観」が大衆を動員する

第3巻「全体主義」を読む。

大衆社会と全体主義
ワイマール憲法下で議会政治が行われる。
その下で政治を人任せにする「大衆」が生まれる。大衆は、都市の中でバラバラに生きている(アトム化)。 大衆は、ふつうは政治に無関心で中立である。大衆は、一定の生活に満足し、これ以上何を要求して良いかわからない。
ところが景気が悪化し社会が不穏になると話が変わる。ドイツの大戦後の現実は厳しかった。
厳しい現実の中で、大衆は世界全体がどうなっているかを示す「世界観」を求めた。 これをナチスの全体主義が与えた。ナチスが示す「世界観」に大衆がすがりついた。全体主義では嘘の世界が構築された。
この意味で、全体主義は大衆運動である。
ナチスの組織
ナチスの全体主義においては、世界観の奥義を知っている度合いによってヒエラルキーが組織された。 大衆はヒエラルキーを昇っていこうとして組織に引き寄せられた。組織を複雑に増殖させることで、組織の求心力が維持されていた。
ナチスは絶滅収容所・強制収容所を作る。そこでは、死すら意味を失った。
人間同士の連帯は、実は基盤が薄弱である。社会の状態が厳しいと、物語的世界観が大衆に急速に浸透する。

第4回 悪は「陳腐」である

『エルサレムのアイヒマン』を読む。

アドルフ・アイヒマン (1906-1962)
1966 年、ドイツ人の中産階級の家に生まれる。
ナチス親衛隊公安部に志願。ユダヤ人問題の専門家となる。
国家保安本部ユダヤ人課課長。ユダヤ人移送の実務責任者となる。
1960 年、アルゼンチンに潜伏していたアイヒマンをイスラエルの諜報機関が拘束。1961 年、エルサレムで公判開始。
1962 年、絞首刑に処せられた。
悪の陳腐さ
アイヒマンは、法に従った、法を守る市民の義務を果たした、と主張。
アイヒマンは義務に忠実に従っていた。アイヒマンは殺害には関わっていない。
彼は愚かではなかった。全くの無思想性―これは愚かさとは決して同じではない―、それゆえ彼はあの時代の最大の犯罪者の一人になるべくしてなったのだ。
アーレントの判断
アーレントはアイヒマンを断罪している。それは「複数性」を抹殺することに加担したからだ。
君が大量虐殺の政策を実行し、それ故に積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治は子供の遊び場ではないからだ。 政治においては服従と支持は同じだ。
誰もがアイヒマンになりうる
1962 年、「ミルグラム実験」が行われた。普通の人でも一定の条件下では権威者の命令に服従し、残虐なことでもやることがわかった。
大事なことは、自分と異なる意見の論理を理解すること。