『野火』
大岡昇平は一度読んでおきたいと思って、古本の文学全集の大岡昇平の巻を持っていた。 「100分de名著」をきっかけに、放送と平行して文学全集の中の『野火』を読んでみた。
レトリックの問題、神の問題、生と死の問題を見てゆくことにする。
レトリック
『野火』を読みたいと思っていたのは、ひょっとすると丸谷才一が『文章読本』で取り上げていたせいかもしれない (あんまり覚えていない)。私は若いころこの『文章読本』が好きであった。 『野火』はレトリカルに極めて優れているということで、 『文章読本』の第九章「文体とレトリック」では、例がほとんど『野火』とシェイクスピアから取られている。 『野火』だけだと、芝居がかった感じのレトリックの例が無いことがあるので、シェイクスピアも使っているという感じになっている。 『野火』がレトリカルである理由を、丸谷はこう書いている。
孤独な敗兵はキリスト教の神を鋭く意識することによつて現代日本の知識人の代表となり、 その緊張した関係のせいで彼はレトリカルに表現するしかなくなるのだ。 彼は私的な個人ではなく極めて公的な登場人物になつたがゆゑに、公的な表現をおこなふことを強ひられたのである。
『野火』は、極限状態における殺し合いとか人肉食などといった問題が扱われているショッキングな小説だ。 この問題は普遍的な問題なのだが、一方で、知識人のモノローグという形で語られる。 これを劇的に、しかも陰惨にならずに、普遍的な問題として提示するには、様式性が必要になるということであろう。
神
神の考察を見てゆこう。小説を終える文章は
となっている。主人公の田村は、何かの力に止められて自ら人を殺して食べるということはできなかった。 その何かが最後には「神」という表現で語られる。もし彼がキリストの変身であるならば――
もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば――
神に栄えあれ。
解説の島田氏は、共食いは自然界では珍しいことではないが、人間には倫理があるからできないという見方をしている(第3回)。 私はその解釈には納得しない。共食いは自然界ではそれほど見られないことであり、むしろ本能によって止められていると思う。 田村が人を殺して食べるということを強く忌避するのは、まさにその本能のためであると思う。本能が「神」となって立ち現れるのだ。
題名にある「野火」は、小説の主題ではないにしろ、小説のいろいろなところで象徴的に登場する。 それもまた神の化身であるのかもしれない。小説の最後の方では、野火の映像が田村を導く。
一つの幅の広い野火の映像は、その下部に炎の舌を見せて、盛んに立ち騰(のぼ)っていた。別の細い野火は上が折れ釘のように曲って、 回転する磁石の針のように揺れていた。それはほとんど、意のままに変形し得るように思われた。
(中略)
このことは私が一つの煙を見、次にその煙の下に行ったことを示している。煙を見れば、必ずそこへ行ったのだ。
しかし何のために?―思い出せない。私の記憶はまた白紙である。ただこの「行った」という仮定から、一つの姿が浮び上る。
小説の中では、しばしばキリスト教からの引用がなされるところからみて、神としてひとつにはキリスト教の神が意識されているのは明らかである。 先の引用にも「キリスト」という言葉が出てくる。しかし、一方で、キリスト教の神を否定していると読める引用箇所が何箇所かある。 田村はキリスト教の神を意識しながらも、田村が見たものはキリスト教の神ではなかったのだ。
その一つは以下の場面である。田村が死んだ将校の肉に剣を右手で刺そうとしたとき、左手がそれを止める。そのとき聞こえた声はこういう。
これはマタイ伝6章3節の引用で、施しをするときは隠れたところでせよという意味だそうだ。しかし、小説では 右手がすることを左手が止めてくれたおかげで、人肉食を避けられたということなのだから、左手が知っていてくれて良かった ということになるはずである。この真逆の意味が意図的なものだとすれば、神はこの状況で人肉食を許したということになるのかもしれない。 ただ、ともかく左手は許さなかったのだ。私が解釈すると、右手にあった自己保存の本能を左手にあった種の存続の本能が止め、 そのいずれもが「神」なのだ。したがって、それはキリスト教の神ではない、ということになる。汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ。
他にももう一箇所、聖書からの不思議な引用がある。田村が、草花を食べるとき、 それも殺生なのだということにまざまざと気付いたとき、ふたたびマタイ伝6章28節以下の引用がある。
これは聖書においては、野の花は人間よりはるかに劣っているのに神様は飾っているのだから、ましてや人間を神様が救ってくれることに間違いはない、 という意味である。つまりは野の花を貶めている部分である。ところが、田村は野の花に神を見たのである。野の百合はいかにして、育つかを思え、労せず紡がざるなり。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、 まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ
解説の島田氏も述べていたように、田村は自然のうちに神を見たのだ。それはキリスト教の神ではなくて、汎神論的なものであった。声はその花の上に漏斗状に立った、花に満たされた空間から来ると思われた。では、これが神であった。
生と死
生と死の考察を見てゆく。人肉食という重大問題に直面する前でも、彷徨する戦地で主人公の田村は正と死についてずっと考え続けている。 考え続けるということは、漫画では味わえないまさに小説の面白みであると思う。 レイテ島をあてもなくさまよい歩く田村に浮かぶ様々の奇妙な想念や映像が『野火』のひとつの軸である。 死と隣り合わせの中で、常に死の影が迫っている。それらの想念を引用していってみる。
奇怪な観念がすぎた。この道は私が生れて初めて通る道であるにもかかわらず、私は二度とこの道を通らないであろう、という観念である。(中略)
これほど当然なことはなかった。そして近く死ぬ私が、この比島の人知れぬ林中を再び通らないのも当然であった。 奇怪なのは、その確実な予定と、ここを初めて通るという事実が、一種の矛盾する聯関として、私に意識されたことである。 [2.道]
死はすでに観念ではなく、映像となって近づいていた。私はこの川岸に、手榴弾により腹を破って死んだ自分を想像した。私はやがて腐り、さまざまの元素に分解するであろう、三分の二は水から成るという我々の肉体は、大抵は流れ出し、この水と一緒に流れて行くであろう。 [8.川]
私は自分が生きているため、生命に執着していると思っているが、実は私はすでに死んでいるから、それに憧れるのではあるまいか。
この逆説的な結論は私を慰めた。私は微笑み、自分はすでにこの世の人ではない、従ってみずから殺すには当らない、と確信して眠りに落ちた。 [9.月]
私は再び私の顔を見た。いや、私は生きていた。唇が紅を塗ったように赤く、閉ざされた瞼は顫(ふる)えていた。私は目醒めているのである。眼を開けないのは、死を装っているだけなのである。唇には私のよく知っている、あの冷笑さえ浮かんでいる。
「デ・プロフンディス」と突然その唇がいった。
「われ深き淵より汝を呼べり」De profundis clamavit―この言葉が私の口から洩れたことは、事実私がなお深き淵にあり、聖者でない証拠である。[13.夢]
私が現在行うことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行いたいという願望の倒錯したものではあるまいか。未来に繰り返す希望のない状態におかれた生命が、その可能性を過去に投射するのではあるまいか。
「贋の追想」が疲労その他何らかの虚脱の時に現れるのは、生命が前進を止めたからではなく、ただその日常の関心を失ったため、かえって生命に内在する繰り返しの願望が、その機会に露呈するからではあるまいか。[14.降路]
上の4つ目の引用にある De Profundis「深き淵より」は旧約聖書詩篇第 130 編 (Psalm 130) からの引用である。 これはたいへん有名な詩らしく、いろいろな音楽にもなっている。 内容は、神様に罪を許してもらって救ってもらうことを求めるもので、日本で言えば阿弥陀信仰・浄土信仰ときわめてよく似ている。 『歎異抄』を思い出して、こういう思いは世の東西を問わず変わらないのだと思う。有名になるのもむべなるかなである。
では、なぜここに出てくるのは De Profundis であり、南無阿弥陀仏ではないのか?もちろん、フィリピンがキリスト教国であることと、大岡昇平がキリスト教に親しんできたのが主たる理由であろう。ただ、『野火』においては、キリスト教が血のイメージと強く結び付けられていることに注目したい。主人公の田村一等兵は、教会の前で日本兵の屍体を見、中では血まみれのイエスの絵を見、司祭館で女を銃殺した。その鮮烈さはキリスト教において強烈である。
ところで、本文には De profundis clamavit と書いてあるのだが、ネット検索してみると clamavit ではなくて clamavi が正しい。 大岡が間違えたのか、出版社の編集者が間違えたのかよくわからないが、正しいのは
De profundis clamavi ad te, Domine;である。clamavi は clamare (叫ぶ)の直説法完了形の一人称単数形である。clamavit だと三人称単数形になってしまう。 日本語が「われ」から始まっているところから見て、意図的に変えたとは思えないので、ちょっとした間違いであろう。 現代語で訳せば、「主よ、私は深いところからあなたに向かって叫びました。」である。
詩篇130 の解説サイトを見つけた。