野火

著者大岡 昇平
シリーズ日本の文学 70
発行所中央公論社
刊行1965/07/05(初版)
初出『展望』1951/01~08
初単行本1952/02 創元社刊
入手どこかで古本として入手したのだと思うが、忘れた
読了2017/08/28

大岡昇平 野火

著者島田 雅彦
シリーズNHK 100分de名著 2017 年 8 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2017/08/01(発売:2017/07/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2017/08/28

『野火』

大岡昇平は一度読んでおきたいと思って、古本の文学全集の大岡昇平の巻を持っていた。 「100分de名著」をきっかけに、放送と平行して文学全集の中の『野火』を読んでみた。

レトリックの問題、神の問題、生と死の問題を見てゆくことにする。

レトリック

『野火』を読みたいと思っていたのは、ひょっとすると丸谷才一が『文章読本』で取り上げていたせいかもしれない (あんまり覚えていない)。私は若いころこの『文章読本』が好きであった。 『野火』はレトリカルに極めて優れているということで、 『文章読本』の第九章「文体とレトリック」では、例がほとんど『野火』とシェイクスピアから取られている。 『野火』だけだと、芝居がかった感じのレトリックの例が無いことがあるので、シェイクスピアも使っているという感じになっている。 『野火』がレトリカルである理由を、丸谷はこう書いている。

孤独な敗兵はキリスト教の神を鋭く意識することによつて現代日本の知識人の代表となり、 その緊張した関係のせいで彼はレトリカルに表現するしかなくなるのだ。 彼は私的な個人ではなく極めて公的な登場人物になつたがゆゑに、公的な表現をおこなふことを強ひられたのである。

『野火』は、極限状態における殺し合いとか人肉食などといった問題が扱われているショッキングな小説だ。 この問題は普遍的な問題なのだが、一方で、知識人のモノローグという形で語られる。 これを劇的に、しかも陰惨にならずに、普遍的な問題として提示するには、様式性が必要になるということであろう。

神の考察を見てゆこう。小説を終える文章は

もし彼がキリストの変身であるならば――

もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば――

神に栄えあれ。

となっている。主人公の田村は、何かの力に止められて自ら人を殺して食べるということはできなかった。 その何かが最後には「神」という表現で語られる。

解説の島田氏は、共食いは自然界では珍しいことではないが、人間には倫理があるからできないという見方をしている(第3回)。 私はその解釈には納得しない。共食いは自然界ではそれほど見られないことであり、むしろ本能によって止められていると思う。 田村が人を殺して食べるということを強く忌避するのは、まさにその本能のためであると思う。本能が「神」となって立ち現れるのだ。

題名にある「野火」は、小説の主題ではないにしろ、小説のいろいろなところで象徴的に登場する。 それもまた神の化身であるのかもしれない。小説の最後の方では、野火の映像が田村を導く。

一つの幅の広い野火の映像は、その下部に炎の舌を見せて、盛んに立ち騰(のぼ)っていた。別の細い野火は上が折れ釘のように曲って、 回転する磁石の針のように揺れていた。それはほとんど、意のままに変形し得るように思われた。

(中略)

このことは私が一つの煙を見、次にその煙の下に行ったことを示している。煙を見れば、必ずそこへ行ったのだ。

しかし何のために?―思い出せない。私の記憶はまた白紙である。ただこの「行った」という仮定から、一つの姿が浮び上る。

小説の中では、しばしばキリスト教からの引用がなされるところからみて、神としてひとつにはキリスト教の神が意識されているのは明らかである。 先の引用にも「キリスト」という言葉が出てくる。しかし、一方で、キリスト教の神を否定していると読める引用箇所が何箇所かある。 田村はキリスト教の神を意識しながらも、田村が見たものはキリスト教の神ではなかったのだ。

その一つは以下の場面である。田村が死んだ将校の肉に剣を右手で刺そうとしたとき、左手がそれを止める。そのとき聞こえた声はこういう。

汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ。

これはマタイ伝6章3節の引用で、施しをするときは隠れたところでせよという意味だそうだ。しかし、小説では 右手がすることを左手が止めてくれたおかげで、人肉食を避けられたということなのだから、左手が知っていてくれて良かった ということになるはずである。この真逆の意味が意図的なものだとすれば、神はこの状況で人肉食を許したということになるのかもしれない。 ただ、ともかく左手は許さなかったのだ。私が解釈すると、右手にあった自己保存の本能を左手にあった種の存続の本能が止め、 そのいずれもが「神」なのだ。したがって、それはキリスト教の神ではない、ということになる。

他にももう一箇所、聖書からの不思議な引用がある。田村が、草花を食べるとき、 それも殺生なのだということにまざまざと気付いたとき、ふたたびマタイ伝6章28節以下の引用がある。

野の百合はいかにして、育つかを思え、労せず紡がざるなり。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、 まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ

これは聖書においては、野の花は人間よりはるかに劣っているのに神様は飾っているのだから、ましてや人間を神様が救ってくれることに間違いはない、 という意味である。つまりは野の花を貶めている部分である。ところが、田村は野の花に神を見たのである。

声はその花の上に漏斗状に立った、花に満たされた空間から来ると思われた。では、これが神であった。

解説の島田氏も述べていたように、田村は自然のうちに神を見たのだ。それはキリスト教の神ではなくて、汎神論的なものであった。

生と死

生と死の考察を見てゆく。人肉食という重大問題に直面する前でも、彷徨する戦地で主人公の田村は正と死についてずっと考え続けている。 考え続けるということは、漫画では味わえないまさに小説の面白みであると思う。 レイテ島をあてもなくさまよい歩く田村に浮かぶ様々の奇妙な想念や映像が『野火』のひとつの軸である。 死と隣り合わせの中で、常に死の影が迫っている。それらの想念を引用していってみる。

上の4つ目の引用にある De Profundis「深き淵より」は旧約聖書詩篇第 130 編 (Psalm 130) からの引用である。 これはたいへん有名な詩らしく、いろいろな音楽にもなっている。 内容は、神様に罪を許してもらって救ってもらうことを求めるもので、日本で言えば阿弥陀信仰・浄土信仰ときわめてよく似ている。 『歎異抄』を思い出して、こういう思いは世の東西を問わず変わらないのだと思う。有名になるのもむべなるかなである。

では、なぜここに出てくるのは De Profundis であり、南無阿弥陀仏ではないのか?もちろん、フィリピンがキリスト教国であることと、大岡昇平がキリスト教に親しんできたのが主たる理由であろう。ただ、『野火』においては、キリスト教が血のイメージと強く結び付けられていることに注目したい。主人公の田村一等兵は、教会の前で日本兵の屍体を見、中では血まみれのイエスの絵を見、司祭館で女を銃殺した。その鮮烈さはキリスト教において強烈である。

ところで、本文には De profundis clamavit と書いてあるのだが、ネット検索してみると clamavit ではなくて clamavi が正しい。 大岡が間違えたのか、出版社の編集者が間違えたのかよくわからないが、正しいのは

De profundis clamavi ad te, Domine;
である。clamavi は clamare (叫ぶ)の直説法完了形の一人称単数形である。clamavit だと三人称単数形になってしまう。 日本語が「われ」から始まっているところから見て、意図的に変えたとは思えないので、ちょっとした間違いであろう。 現代語で訳せば、「主よ、私は深いところからあなたに向かって叫びました。」である。

詩篇130 の解説サイトを見つけた。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 落伍者の自由

大岡昇平
1909-1988。戦前はスタンダールの研究者。戦後になってから作家になる。
徴兵されて、命からがら復員する。
大岡が軍務に就き、やがて捕虜になったのは、ミンドロ島。『野火』の舞台はレイテ島。大岡は、レイテ島には捕虜として収容されていた。
『野火』においては、異端の視点から、神の問題や道徳の問題が取り扱われている。
『野火』冒頭 [1.出発、2.道、3.野火]
舞台はフィリピンのレイテ島。
主人公の田村一等兵は、持病の肺病が悪化。病院からも中隊からも見放された。
田村一等兵はインテリ。
田村が感じた自由は、行く先がないという最後の自由であった。
行く先がないというはかない自由ではあるが、私はとにかく生涯の最後の幾日かを、軍人の思うままではなく、私自身の思うままにつかうことができるのである。
絶望的な状況の中で、田村は自然観察をしたりいろいろな想像をしたりする。
そんな中で田村は野火をたびたび見た。そこにいるのは味方なのか敵なのか。
暗い好奇心 [4.坐せる者など、5.紫、6.夜、7.砲声、8.川]
田村が病院に着くと、外には入れない人がたむろしていた。
翌朝、病院が砲撃された。田村を哄笑が襲った。
愚劣な作戦の犠牲となって、一方的な米軍の砲火の前を、虫けらのように逃げ惑う同胞の姿が、私にはこの上なく滑稽に映った。彼らは殺される瞬間にも、誰が自分の殺人者であるかを知らないのである。
田村は彷徨しながら自らの死を想像する。
行く手に死と惨禍のほか何もないのは、すでに明らかであったが、熱帯の野の人知れぬ一隅で死に絶えるまでも、最後の息を引き取るその瞬間まで、私自身の孤独と絶望を見究めようという、暗い好奇心かも知れなかった。

第2回 兵士たちの戦場経済

煙草本位制 [4.坐せる者など、5.紫、6.夜、22.行人]
病院に入れない兵士の中で、足に潰瘍を患う安田は、煙草を持っているおかげでうまいこと食糧を手に入れていた。
安田自身は煙草を吸わないのに、兵士は煙草を必要としているという確信を持っていた。
少し気の弱い永松は女中の子で、女中を孕ませた安田と擬似親子関係を結ぶ。永松は、安田と一緒にいれば何とかなると思ったのだろう。
射殺と銃 [12.象徴、13.夢、18.デ・プロフンディス、19.塩、20.銃]
田村はとある教会にやってくる。
田村はいつしか眠る。眼を覚ますと現地人の男女がやってくる。女が叫んだ拍子に、田村は女を撃ち殺してしまう。
田村の自己弁護:
銃は国家が私に持つことを強いたものである。こうして私は国家に有用であると同じ程度に、敵にとっては危険な人物になったが、 私は孤独な敗兵として、国家にとって無意味な存在となった後も、それを持ち続けたということに、あの無辜の人が死んだ原因がある。
田村は銃を捨てる。
塩本位制 [19.塩、20.銃、21.同胞]
男女が上げた床板の下に田村は塩を見つける。
塩は昔から重要なものである。salary も塩 (salt) が語源である。
田村は塩を持っていることで、他の兵隊に対して優位に振舞うことができるようになった。

第3回 人間を最後に支えるもの

さまよう田村 [21.同胞、22.行人、23.雨、24.三叉路、25.光、26.出発、27.火]
田村はパロンポンを目指した。
しかし、行く手を米軍に阻まれ、投降することもままらなず、孤独に島内をさまよう。
人肉食 [28.飢者と狂者、29.手、30.野の百合、31.空の鳥]
田村の持っていた塩が尽きる。
田村は、人肉が食べたくなる。しかし、誰かに見られていると感じる。誰かというのが「神」であろう。 神とは、自分に織り込まれた他者であり、倫理である。
死にかけた将校が、自分を食べてもよいと言う。ここは、キリスト教の聖体拝領(肉=パン、血=ワイン)を思わせる。
将校の死体を剣で切ろうとする。すると
その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。
生存本能を逡巡させる何かがある。それが人間らしさというものかもしれない。
さらに、花が田村に「あたし、喰べてもいいわよ」と語りかける。そのとき田村は気付く。
私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を喰べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも、喰べてはいけなかったのである。 生きているからである。
『俘虜記』には、若い米兵を撃たなかった主人公が描かれている。『野火』の人肉食を忌避した主人公と重なる。

第4回 異端者が見た神

ゲストに映画監督の塚本晋也を迎える。塚田氏は 2014-2015 年に『野火』を映画化している。

人肉食 [32.眼、33.肉、34.人類、35.猿、36.転身の頌]
朦朧とする田村は永松に再会し、「猿の」肉を食べさせてもらって体力を取り戻す。しかし、それは日本兵の肉であった。
田村は安田に手榴弾を奪われ、田村と永松は安田に殺されそうになる。永松は安田を撃ち殺す。
田村は永松に銃口を向ける。その後の記憶がなくなる。
精神病院 [37.狂人日記、38.再び野火に、39.死者の書]
田村は帰国後、精神病院でこの手記を書いている。
田村は独りで神を発見したのである。
この病院を囲む武蔵野の低い地平に、見えない野火が数限りなく立ち上っているのを感じる。
異端者の見た神
塚本版映画ではあまり描かれていない。代わりに自然の美しさを撮る。
田村にとっての神は自然と一体化している。極限状態の中で発見される神。
心の中の「火」[27.火]
パロンポンに行く道を断たれ、さまよう田村は火を見た。

私の方へ、どんどん迫って来るように思われた。私は身を固くした。すると火は突然横に逸れ、黒い丘の線をなぞって、 少しあがってから消えた。

私は何も理解することができなかった。ただ怖れ、そして怒っていた。

「火」の映像の中に戦争が凝縮されている。