陳寿 三国志

著者渡邉 義浩
シリーズNHK 100 分 de 名著 2017 年 5 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2017/05/01(発売:2017/04/25)
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読了2017/05/22

正史『三国志』の解説。混沌とした時代の解説なので、盛りだくさんでぎゅうぎゅう詰め込んだという感じになっていた。 放送では、著者の熱い語りから、著者が『三国志』を心底好きであるのがよくわかって面白かった。

「三国志」の子ども版を子どものころ読んだ覚えがある。蜀を中心に書かれていたから、おそらく『三国志演義』に基づくものだろう。 その蜀が三国の中では一番不利そうな内陸にあって一番先に滅亡するのが不思議だったのだが、第1回のテキストの解説でその謎が解けた。 陳寿が蜀の出身だったので、蜀を大事にする書き方をしていて、それが蜀を漢の正統な後継者とする考えを生み、 それが『三国志演義』に引き継がれたのだそうな。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 動乱の時代を行き抜く知恵

三国志の時代
革新の魏と呉 vs 保守の蜀
小説『三国志演義』は後世のフィクション。ここでは正史『三国志』の方を扱う。
正史 三国志
正史=国家の「正当な歴史」のこと。「正しい歴史」ではない。
著者 陳寿
3世紀
全65巻
陳寿
蜀に生まれて蜀の官僚になる。蜀が滅びると晋の官僚になる。
晋では、建前上は、漢から魏へ、魏から晋へが正統な国家の引継ぎ。
そこで、立場上、晋の前身である魏を中心に書いているが、出身の蜀への思いも忍ばせてある。そもそも「魏書」ではなく「三国志」にしてあるのが陳寿の主張。
歴史
漢では、外戚・宦官による政治腐敗が進行。中央政府が衰退し、各地に群雄が出現する。
184 年、太平道の張角が黄巾の乱を起こすが、張角が死んで平定される。
189 年、少帝が即位し、外戚の何進が実験を握るが、暗殺される。董卓が少帝を保護し、洛陽付近の軍事権を掌握する。
董卓が政権を運営しようとするが、残忍だったため、人々が離れる。190 年、反董卓連合軍ができる。192 年、董卓は殺害される。
董卓が殺された後は、群雄割拠。
名士
名士=儒教的価値観を名声の基盤とした知識人たち。
混迷の時代にあってビジョンを提示することが求められた。
袁紹と袁術
袁紹は名門官僚の家柄で、文武両道。名士を集め一大勢力となった。
袁術は袁紹の弟だったが、正妻の子。皇帝を名乗って威張り、名士が離れた。袁術は零落の末、199 年、死去。
袁紹は性格は良かったが、優柔不断だった。部下の名士たちの意見の食い違いから、皇帝を擁立できなかった。
その一方で、曹操が皇帝を擁立した。

第2回 曹操 乱世のリーダーの条件

曹操
曹操は乱世の才人で、その後の中国の礎を築いた。
名士の許劭(きょしょう)から「治世の能臣、乱世の姦雄」と評された。
曹操は律令制度の基本を作り上げた。
反董卓連合軍
董卓は高官の家に生まれ、洛陽北部尉からキャリアをスタートする。
曹操は、地方の行政長官として猛政(法律に基づいた厳格な政治)を行った。後漢の政治は緩かったのに対して、曹操は綱紀粛正をした。
董卓が長安に逃げた時、曹操は無謀とも思えた董卓追討を行う。
董卓追討には失敗したが、名士の間の評判が高まる。戦うべき時には戦わねばならない。
兗州(えんしゅう)の曹操
曹操は袁紹から兗州の支配を任される。兗州は荒廃していた。
曹操は、黄巾の乱の残党を自らの支配下に入れる(青州兵)。
屯田制を実施して経済力を高めた。とくに荒廃した土地に一般農民を呼び寄せて、農地の再生をした(民屯)。これが、隋や唐の均田制の原型となる。
献帝を擁立し、漢の正当な継承者となる大義名分を得るとともに、官職の差配ができるようになった。曹操は、この前に徐州で人々を虐殺するという失敗をして評判を落としていたが、これで名声を回復した。
白馬の戦い、官渡の戦い
黄河を挟んで袁紹と戦う。1万対10万と数で劣っていたものの、優れた決断力と判断力で勝った。
これを機に袁紹の勢力は衰え、202年に病没。その後、曹操は旧袁紹領を制圧し、中原の覇者となる。
曹操と文学
儒教支配を壊すために、文学を称揚する。
曹操は文学的センスも優れていた。

第3回 孫権 「信」がピンチを救う

孫堅
弱小豪族の出身。孫権の父。武勇に優れ、袁術の下で反董卓連合軍に入る。
漢への忠義を尽くして、名士からの信頼を得た。「漢室匡輔」
劉表との戦いで戦死。
孫策
孫権の兄。袁術が皇帝を僭称したことから、袁術に反発。
厳しかったので、多くの恨みを買って暗殺される。
孫権
名士との信頼関係を前面に出して、力をつける。とくに名士の周瑜と張昭は高名。
赤壁の戦いに勝利した後、魯粛が「天下三分の計」を進言する。民を安心させるためのもの。一方、諸葛孔明の「天下三分の計」は、漢の再興を目指す手段。
漢の再興を目指す孫権は魯粛の考えを最初は受け入れなかったが、歴史はやがてその通りの三国鼎立へと動いてゆく。
229 年、呉を建国。
孫権は、老いてくると名士を弾圧し始め、呉の国力も衰える。
赤壁の戦い (208年)
曹操が孫権に降伏を求める。しかし、周瑜と魯粛のすすめに従って戦うことにする。劉備・諸葛孔明と結ぶ。
孫権の武将の黄蓋が降伏すると見せかけて、火攻めを仕掛け、曹操を撃退する。
名士や武将との信頼関係があったので、曹操の降伏工作が失敗したのが、勝因とも言える。

第4回 劉備の「仁」、諸葛亮の「智」

劉備
幽州の下層階級の出身で、高い戦闘能力で台頭。カリスマ性があった。情に厚い。
関羽と張飛は、劉備の義兄弟。「桃園の誓い」はフィクション。
大局的な戦略は無かったので、名士の諸葛亮を三顧の礼で迎える。三顧の礼は、双方にとってのパフォーマンスだった。劉備と諸葛亮との関係は常に微妙であった。
赤壁の戦いの後、劉備と孫権は対立。戦いの中で、関羽を失う。
221 年、蜀を建国。ただし、劉備が用いた国号は「漢」であって、「蜀」は便宜上の名称。
関羽の仇討ちをしようとして呉と戦うが、張飛を失った上、大敗(夷陵の戦い、 222 年)。
223 年、劉備死去。息子の劉禅が皇帝となり、諸葛亮が補佐する。劉備は死ぬとき、「劉禅がトップの器でなければ、諸葛亮が皇帝になってよい」と諸葛亮に言った。 これはむしろ諸葛亮がそんなことをできないことを知っていて釘を刺したともみられる。諸葛亮にとっては心外だったかもしれない。
諸葛亮
呉との関係を修復したうえで北伐に向かう。
漢への忠誠と北伐への決意を表現した名文「出師表」を残す。劉備への忠義もにじみ出ている。
五度の北伐に失敗。最後の五丈原の戦いのとき、陣中で病死 (234 年)。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」