電池が起こすエネルギー革命

著者吉野彰
シリーズNHK カルチャーラジオ 科学と人間 2017 年 10~12月
発行所NHK 出版
刊行2017/10/01(発売:2017/09/25)
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読了2017/12/29

講師は、リチウムイオン電池の発明者ということで、巷ではノーベル化学賞候補といわれている。 そこで興味が湧いて、番組を聴いてみることにした。主な内容は、講師自身によるリチウムイオン電池の開発の歴史である。 放送では、講師は必ずしもテキストに沿わずに、むしろテキストよりも詳しく話していた。

内容的に特筆すべきことは、リチウムイオン電池の話もさることながら、最後の3回で、近未来社会の姿として 自動運転電気自動車が作る社会の話をしていたことだ。すぐれた技術者というのは、こういう近未来社会の姿を常に想像しているものなのだろう。 実際にその通りになるかどうかはわからないが、自動運転自動車は、運転が下手な私にとっては朗報である。 あと 10~20年すれば、私も高齢者になるので運転がますます危うくなるだろう。ちょうどそんなタイミングで 自動運転自動車が普及すれば都合の良い話である。

リチウムイオン電池の話に戻って、リチウムイオン電池の発明に関わったとして、チャールズ・スターク・ドレイパー賞を受賞したのは、 ジョン・グッドイナフ、西美緒、ラシド・ヤザミ、吉野彰(本番組講師)の4人である。 本番組では、吉野氏の開発研究の話が語られており、グッドイナフの名前は出てくるが、 西とヤザミが何をしたのか良く分からないのが少し気になった。西はソニーで開発に携わったようで、 第9回の話では、吉野氏から見ると、ソニーがリチウムイオン電池を事業化したというのは寝耳に水のニュースだったようだ。

以下関連情報が書いてあるサイトである。以下の西の記事によると、ソニーでは全く独立に開発されていたようである。 以下のいろいろ情報によると、それ以外にもいろいろな人物が関わっているようである。 ただし、実用的な電池を作ったという意味では、吉野の旭化成グループと西のソニーグループの功績が大きいことは確かなようである。

放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 携帯電話から自動車まで

リチウムイオン電池
リチウムイオン電池は、非水系水溶液を用いた二次電池(充電可能)
小型民生用 (1) 携帯電話用の平たい角型 (2) ノートパソコン用の円筒型 (3) スマートフォン用のラミネート型;薄くてフィルムでパッケージしてある
自動車用大型
リチウムイオン電池の構成
正極(金属酸化物粉末;コバルト酸リチウムなど)、負極(カーボン粉末)、電解液、セパレータ
充電すると、リチウムイオンがカーボン材料の中に入る。放電するときにはリチウムイオンがカーボンの外へ出てゆく。
化学反応を使っていないので、寿命が長い。
リチウムイオン電池の特徴
小型軽量;体積エネルギー密度、重量エネルギー密度が従来の電池の3倍 (600 Wh/L、200 Wh/kg)
起電力は 4 V 以上
大電流で放電できる(消費電力が大きくても良い)
繰り返し充電放電が出来る
安全
リチウムイオン電池の使用法
メモリ効果は無いので、放電しきらなくても充電してよい。
電池を長く使わないときは、放電した状態で保管しておいたほうが良い。
リチウムイオン電池の用途
(1) 携帯電池やスマートフォン (2) ノートパソコン (3) 電動工具
携帯電話の歴史
1985 年、ショルダーフォン。
1990 年ころから現在の携帯電話の原型が出てきた(第1世代)。アナログ方式。ニッケル水素電池が使われていた。IC 駆動電圧が 5.5 V で電池を5本使う必要があった。
1995 年ころからデジタル化(第2世代)。このころから一般に普及してきた。IC 駆動電圧が 3 V になった。これだとリチウムイオン電池1本で駆動できるようになった。
2000 年ころ国際規格が統一(第3世代)。データ通信が主体になってきた。
現在のガラケーは第5世代と言われる。
電気自動車
電動車両には、ハイブリッド型 (HEV)、プラグイン型(PHEV;電池だけでも動かせる)、電気自動車 (BEV;エンジンなし) の3種類がある。
2011 年以降、電気自動車用にリチウムイオン電池が使われるようになってきた。
ヨーロッパでだんだんゼロエミッション規制が厳しくなって、電気自動車に移行せざるを得なくなってきている。

第2回 電池の仕組み

電池用語集
①電子;負の電荷を持った素粒子。電流とは、電子が流れること。
②イオン;電子の過剰か欠損により電荷を帯びた粒子。
③電解液;イオン性物質を極性溶媒に溶かした電気伝導性を有する溶液。
④イオン化傾向;イオンになり易さを表す指標。K, Ca, Na, Mg, Al, Zn, Fe, Ni, Sn, Pb, H, Cu, Hg, Ag, Pt, Au (貸そうかな、まああてにするな、ひどすぎる借金)。 イオン化傾向が大きいものが負極、イオン化傾向が小さいものが正極。イオン化傾向の差が起電力。
⑤正極;プラスの極。電位の高いほうの電極。
⑥負極;マイナスの極。電位の低いほうの電極。
ボルタ電池の仕組み
正極が銅、負極が亜鉛。電解液が希硫酸。
亜鉛は電解液に溶ける。電子が出てきて、正極の側に移動する。この電子が正極で水素イオンと結びついて水素ガスになる。
起電力は 1 V 程度。
起電力
マンガン乾電池は、負極が亜鉛、正極が二酸化マンガン。起電力は 1.5 V。
ニッケルカドミウム電池は、負極がカドミウム、正極が水酸化ニッケル。起電力は 1.2 V。
リチウムイオン電池は、負極はカーボンにリチウムが入った状態でイオン化傾向が大きい。正極は金属酸化物でイオン化傾向が小さい。 起電力は 4.2 V。
起電力の理論的限界は 6 V。
水系電解液と非水系電解液
水は 1.5 V 以上の電圧で電気分解する。したがって、水を電解液に使うと、起電力は最大で 1.5 V。
電池の分類軸としては、一次電池か二次電池か、電解液の種類がある。
これまでの電池の多くは電解液に水を使っている(水系電解液)。
従来の二次電池の電解液は水系だったので、起電力は 1.5 V 以下だった。
リチウムイオン電池では、電解液に有機溶媒を使っている。それで、起電力が上げられる。
非水系電解液を使った一次電池としては、カメラのストロボに使われているものがある。
非水系電解液を使った二次電池の開発は困難を極めたが、やがてリチウムイオン電池が成功した。
リチウムイオン電池
負極は、充電すると炭素の中にリチウムイオンが吸い込まれたもの。炭素は負に帯電している。 正極は、充電すると電子が足りない状態になっている。
放電するときは、リチウムイオンが電解液の中を正極のほうに動いて、電子が電線を通って正極のほうに動く。
化学反応ではないので、充電して何度も使える。
二次電池
ボルタ電池の電解液を硫酸銅に変える。すると、正極では銅イオンが析出するようになる。
充電すると逆の反応が起こる。正極では銅が溶けて、負極では亜鉛が析出する。
燃料電池
正極が空気(空気中の酸素分子)、負極は水素ガス。酸素と水素が結合して水が出来るときに起電力が生まれる。起電力は 1.2 V。
太陽電池
半導体に光が当たると電荷が分離するということが原理の物理電池。

第3回 電池の歴史

バグダット電池
紀元前 250 年あたりに、電池の原型ができていたようだ。そのような素焼きの壺が見つかっている。
アスファルトでシールしていた。電解液が何だったかはわからない。
用途はわかっていない。メッキに使っていたのかもしれない。
ガルバーニ電池
1771 年、カエルの解剖をしていたときに、2種類の金属をカエルの脚につなぐと痙攣することを見つけた。
ボルタ電池
1800 年、現在の電池の原型を見出した。2種類の金属を電解液に漬けると電気が流れることを見つけた。
電圧がすぐに下がるという欠点がああった。水素が発生して正極の銅にくっついてしまうのが原因。
ダニエル電池
1836 年、正極と負極を別の電解液にすることで、ボルタ電池の欠点を克服した。
正極の銅は硫酸銅水溶液に漬け、負極の亜鉛は硫酸亜鉛水溶液に漬けることにした。
乾電池
1866 年、ルクランシェは、正極を二酸化マンガンにして、電解液に塩化アンモニウム溶液を使った。これがマンガン乾電池の原型。
乾電池は、電解液を固体にしみこませて、液漏れをしないようにした電池。
乾電池を初めて作ったのは、屋井先蔵(やいさきぞう)。しかし、特許を取ったのはカール・ガスナー (1887 年) なので、 世界ではガスナーが乾電池を初めて作ったとされている。屋井は資金不足で特許が遅れた。
マンガン乾電池は、正極が二酸化マンガン、負極が亜鉛、電解液が塩化アンモニウム。
アルカリ乾電池は、正極が二酸化マンガン、負極が亜鉛、電解液が水酸化カリウム(アルカリ性)。
マンガン乾電池は安価、アルカリ乾電池は長持ち。現在では、アルカリ乾電池が主流になっている。
リチウム電池
リチウム電池は、負極に金属リチウムを使った一次電池(リチウムイオン電池とは別のもの)。
リチウムはイオン化傾向が大きいので、電圧が高い(3V)。
二次電池(蓄電池)の歴史
1859 年、フランスのプランテが鉛蓄電池を発明。正極は酸化鉛、負極は鉛。
鉛蓄電池は、現在でも自動車用バッテリーとして広く使用されている。
1899 年、スウェーデンのユングナーがニッケルカドミウム蓄電池(ニッカド電池)を発明。正極は水酸化ニッケル、負極はカドミウム。電解液は水酸化カリウム。
1900 年、エジソンがエジソン電池を発明。正極は酸化ニッケル、負極は鉄。ニッカド電池の方が性能が良かったので、普及しなかった。
1980 年代に、ニッカド電池の負極を水素吸蔵合金に置き換えたニッケル水素電池が出現し、急速に普及した。

第4回 リチウムイオン電池開発秘話1 電気が流れるプラスチック

研究開発の3段階
①探索研究;シーズを見つける。新しい現象を見つける。2年くらいやってみる。
②開発研究;シーズとニーズをつなげる。技術をニーズに合致させる。コストも検討する。
③事業研究;マーケットを立ち上げる。
著者の研究のあゆみ
1972 年、旭化成入社。
最初に、ガラス接着性樹脂の研究をしたが、新しい材料は出来なかった。
次に、不燃性無機材料を開発をしようとしたが、失敗。
次に、可視光型光触媒の開発をしようとしたが、失敗。
その後、リチウムイオン電池の開発を始めた (1981 年)。1991 年から 1992 年くらいまでに開発研究が終わった。 1995 年にマーケットが立ち上がった。結局、探索研究 5 年、開発研究 5 年、事業研究 5 年の計 15 年かかった。
1995 年は、ちょうど IT 革命(携帯電話、ラップトップコンピュータ)が起こった時で、タイミングが合った。
リチウムイオン電池
負極はカーボン、正極はコバルト酸リチウムのような金属酸化物。充電によって、リチウムイオンが正極から負極に移動する。
なぜ、負極にカーボンを使うようになったのか?なぜ、正極にリチウムイオンを含む金属酸化物を使うようになったのか?
ポリアセチレン
今回は、負極にカーボンを使うようになったいきさつを説明する。
1981 年に研究をスタートしたときは、導電性プラスチックのポリアセチレンの研究であった。
ポリアセチレンは、レジ袋で使われるポリエチレンと比べると水素が少ない。そのために二重結合が一つおきに並ぶ。それが導電性につながる。
ポリアセチレンの原点には、福井謙一のフロンティア電子論(1981 年ノーベル賞)と白川英樹の導電性プラスチック(2000 年ノーベル賞)がある。 導電性プラスチックは、フロンティア電子論によって予測され、白川英樹が実際に 1980 年頃発見した。
白川英樹がポリアセチレンの合成を試みていたとき、研究員が間違えて濃い触媒を使ったら、銀ぴかの膜が出来た。これが導電性プラスチックの発見。
ポリアセチレンには、金属の性質、半導体の性質、光起電力、イオンと電子の出し入れが出来るという性質がある。
このイオンと電子を出し入れできるという性質が、二次電池が持っているべき性質である。
電池の小型化のためには、起電力を上げねばならず、そのためには非水系の電解液が必要。 これまで、負極の材料が難しくて、非水系電解液の二次電池の開発が難航していた。著者は、ポリアセチレンが負極に使えるのではないかと考えた。

第5回 リチウムイオン電池開発秘話2 小型・軽量化への挑戦

負極のポリアセチレンと組み合わせる正極の問題
ポリアセチレンを二次電池の負極に使おうと考えたて評価を行った。
しかし、ポリアセチレンには問題があった。組み合わせる正極材料がなかったのだ。
正極と負極の両方が充電状態もしくは放電状態で組み立てる必要がある。ふつうは両方とも充電状態で組み立てる。
ポリアセチレンは放電状態にある。そこで、放電状態の正極を探す必要があった。しかし、当時そのようなものがなかった。
ところが、ちょうど1980年代前半、テキサス大学のグッドイナフがコバルト酸リチウムが放電状態の正極になることを示した。そこで、これを負極のポリアセチレンと組み合わせてみた。それで、電池ができた。
この新しい電池は軽量だったが、小型にはできなかった。ニッケルカドミウム電池とほぼ同じ大きさだった。
この新しい電池をデジカメで利用してみた。しかし、体積が大きいのが困った点だった。
ポリアセチレンはプラスチックなので、密度が小さくて、軽量である一方、かさばる。
カーボンの二次電池負極としての利用
カーボンは密度が高くて二重結合もある。そこで、次にはカーボンを負極として試して見た。
当時のカーボン材料では、良いものがなかなかなかった。
その中で、VGCF (Vapour phase Grown Carbon Fiber) という材料があることを聞きつけた。同じ社内で開発していた新しい炭素繊維であった。
VGCFは水素と炭化水素から作る。通常の炭素繊維は、普通の合成繊維を熱処理して作る。これに対して、VGCFは気相から直接繊維を作るものであり、0.1ミクロンの非常に細い炭素繊維ができる。
これを負極にして電池を作ってみた。VGCF の特殊な構造が負極の材料として適していた。1985年のことであった。
VGCF のおかげで小型・軽量が実現された。これが探索研究の終点であった。
これ以降、開発研究のステージに移行した。探索研究の段階では良い点だけを追いかける。まだ、数多くの問題点が残っている。開発研究では、問題点を抽出して解決策を探る。

第6回 リチウムイオン電池開発秘話3 安全性を証明するために

開発研究ステージの始まり
リチウムイオン電池は起電力が大きいのが利点であった。
安全性があるかどうかをチェックすることが最も重要。1986 年に安全性の試験を行った。5 m の高さから電池に鉄の塊を落とした。
金属リチウムを負極にした一次電池を比較対象にした。リチウムを使った一次電池の方は発火したのに対し、 リチウムイオン電池の方は発火したりはしなかった。
コバルト酸リチウムの合成
コバルト酸リチウムは、酸化コバルトと炭酸リチウムを空気中で高温で焼成して作る。
問題は、リチウム化合物は高温で激しい腐食作用があり、焼成炉を何で作るかが問題。金を貼っていれば大丈夫であることはわかっていたが、 高価すぎて無理。その後、特殊はアルミナ材料が使えることが分かって問題が解決した。
負極のカーボン材料
VGCF はすぐれた材料だったが、あまり量が作れなかった。
そこで、VGCF に似た材料を探した。最終的には八重洲にあるメーカーで見つかった。それは黒光りしていた。 ニードルコークスという特殊な材料であった。これが使えた。
電極の構造
正極は、アルミ箔にコバルト酸リチウムを塗る。負極は銅箔にカーボン材料を塗る。
塗るときにバインダー樹脂を用いる。使える樹脂の種類は少なく、いろいろ試行錯誤して適切なものを見つけた。使えるものは、今までに2種類しか見つかっていない。
1986 年 11 月に第二の三億円事件があって、そのときの催涙スプレーに特殊なポリ酢酸ビニールが使われていた。 それと同じ種類の樹脂も集めていたので、警視庁の刑事から事情聴取を受けた。
特許
重要特許が生まれるチャンスは、2つある:(1) 探索研究の最終段階の基本特許 (2) 開発研究の初期段階で出てくる問題点の解決策。

第7回 事業化への道1 難航する試作品作り

世の中に通用するための3つの条件
Quality(品質)、Cost(価格)、Delivery(供給体制)
3条件にはトレードオフがある。適切な妥協点を見出す。
最近ではこれに加えて Environment(環境)という条件が入ってきている。
ユーザーワークのためのサンプル作り
開発研究ではユーザーのニーズを知る必要があり、それを行うのがユーザーワーク。
ユーザーワークのためには、ある程度の量の電池が必要になる(月数百個程度)。これをどう作るかが一つの関門。材料にして 100 kg くらい。
負極のカーボンは、「八重洲の黒ダイヤ」が確保できる。
電解液のリチウム塩と有機溶媒は市販品がある。
セパレーターについて。他の電池は不織布を使っていたが、それでは厚すぎる。現在では小さな穴のたくさん開いたポリエチレンが使われている。 この当時は、旭化成社内で一次電池用セパレーターを開発していたので、それを使った。
正極材のコバルト酸リチウムは、原料の入手は簡単だが、焼成炉が難しい。リチウム化合物の腐食性が高いのが問題。 そこで、焼き物の町の土岐市で炉が壊れても大丈夫な窯を探して、それを使わせてもらった。それがうまくいった。ガス炉だったので、ガスの対流のため炉の腐食が抑えられたようだ。
正極は、アルミ箔にコバルト酸リチウムを塗る。塗って、乾かして、巻き取る。これが難しい。とくに皺ができるのを防ぐのが難しかったが、 部下が体を張って原因を突き止めてくれて解決できた。

第8回 事業化への道2 ユーザーワークはデジカメから

ユーザーワーク
デジカメからユーザーワークを開始した。
デジカメは、1981年にソニーが「マビカ」の試作機を作ったのが始まりだが、これは商品化されなかった。1986年にキャノンが「RC701」(1セット500万円くらいした)を出したのが商品化の始まり。1994年のカシオの「QV10」から一般の人が買えるようなものになった(これは6万5千円、25万画素)。2002年にデジカメが従来型のカメラを逆転。
1985年頃にデジカメの開発を始めていた日野のカメラメーカーが小型二次電池を求めていた。当時はデジカメの画素数は少なかったので、連写機能をデジカメの売りにしようとしていた。連写に耐える電池が求められていた。これがユーザーワーク第1号になった。しかし、このデジカメの開発は中断した。
その後、ソニーが8ミリビデオ用の電池を求めてきた。ソニーは小型のビデオカメラの開発をしていた。1985年に第1号ができていたが、まだ2kgと重かった。コンパクト化には小型軽量の二次電池が必須だった。そこで、ソニーと本格的なユーザーワークを始めた。1989年の「パスポートサイズのハンディカム」CCD-TR55で軽量化が実現した。
電池の試作
ユーザーワークの本格化に伴い必要なサンプルの数が増えてきた。
アメリカのベンチャー電池メーカーに依頼することにした。結果は失敗だったが、電極とセパレータを捲く工程が課題だということが明確になった。捲く時に捲きずれを起こさないようにするのが難しい。
捲回工程は、草津市にある電解コンデンサー製造機のメーカーに製造マシンの製作を依頼し、それがうまくいった。

第9回 事業化への道3 品質、価格、供給体制に合致しているか

今回の話の背景
今回は、主に 1989--1992 年頃の話。
1990 年から第一世代の携帯電話が出てきた。1995 年から第二世代の携帯電話(デジタル化)。
安全性問題の再燃
1987 年、NTT が携帯電話 TZ-802 を発売。
発売後間もなく、TZ-802 に搭載されていた新型二次電池に発火事故が起こった。正極が二硫化モリブデン、負極が金属リチウムの電池だった。 これはリチウムイオン電池にとっては、逆風でもあり(新型電池が事故を起こした)、追い風でもあった(事故を起こしたのはリチウムイオン電池ではない)。
事故の原因はショートだった。これは金属リチウムに関連した熱暴走だった。この原因究明は、リチウムイオン電池の開発にも役立った。
電池の安全性の試験としては、電気的な試験、機械的な試験、環境(温度など)に関係する試験に大別される。 機械的な試験としては、たとえば、釘を刺す試験がある。ショートしたときに発火しないかどうかが調べられる。
事業化の方向性
会社の中でいろいろな議論をした。旭化成単独でやるか、パートナーと合弁でやるか、ライセンス事業としてやるか。
1991 年、ソニーが新型二次電池(リチウムイオン電池)を商品化したというニュースが飛び込んだ。
これをきっかけにして、東芝との合弁事業の話がまとまった。1992 年、東芝との合弁で(株)エー・ティバッテリーを設立した。これで電池事業を行った。
ただし、電池の材料事業は旭化成単独で行うことにした。とくにセパレータ事業は現在でも世界トップシェアである。
旭化成は、ライセンス事業も行うことにした。
8 年後の 2000 年、電池事業は東芝に完全に譲り、旭化成は手を引いた。
電池事業の研究拠点と事業拠点の紹介
旭化成の研究開発拠点は、川崎市のコンビナート地区にある。 東芝との合弁で作った工場は、川崎駅の真裏の東芝の堀川町工場(現在のラゾーナ川崎プラザ)の一角。

第10回 新規事業を阻む、3つの関門

製品化への関門
探索研究5年→開発研究5年→マーケット構築5年
悪魔の川=基礎研究→→死の谷=開発研究→→ダーウィンの海=マーケット構築
ダーウィンの海 1990--1995 年
1990 年代初めは、アナログ携帯電話の時代。
リチウムイオン電池は、最初はどのメーカーも関心はあるが買わないという状況だった。 その時代、携帯電話の回路の駆動電圧は 5.5 V だった。リチウムイオン電池は、1本では 4 V しか取れない。 すると、ニッケルカドミウム電池 5 本がリチウムイオン電池 2 本になるということでは、インパクトが十分ではなかった。
1995 年ころになって、携帯電話がデジタルになるとともに、IC 回路の駆動電圧が 3 V になった(第2世代)。 そこで、リチウムイオン電池が 1 本で済むということになった。これを境にして一気に携帯電話が普及するとともに、 リチウムイオン電池が普及した。パソコンもこの時期一気に家庭に普及した。
リチウムイオン電池の特許の流れ
リチウムイオン電池関係の特許の数を見ると、2000--2002 年にピークがある。ということは、1995 年あたりから研究が盛んになっていたということ。
最近では、自動車会社やエネルギー関連会社の特許が増えてきている。

第11回 ITからETへ

1995 年の IT 革命
1995 年、Windows 95 が販売される。
1995 年には、モバイル機器とそれに伴ってリチウムイオン電池が急速に普及し始めた。
1985 年から 1990 年頃、あるユーザーが、これから重要になる基幹部品(「三種の神器」)は集積回路、ディスプレイ、二次電池だと言った。
IT 革命で消えていったもの(「三種の鈍器」)は、レコード、銀塩写真、ニッケルカドミウム電池。
銀塩写真がなくなったのは、2002 年。デジカメが出てきたときは、銀塩写真が無くなるとは思われていなかった。 それは、銀塩写真の画質が良く、コストも低く、供給体制も整備されていたからである。事実、しばらくは銀塩写真はビクともしなかった。 ところが、2001 年にカメラ付き携帯電話「写メール」が登場した。写メの登場で銀塩写真が消滅した。 それは、写真はプリントするものではなくなったからである。
ET 革命
これからは ET (Environment and Energy の Technology) 革命の時代であろう。

第12回 ET革命の先陣を切る自動車

自動車の革命
リチウムイオン電池のマーケットはこれまで IT 機器だった。
ところが、2010 年に三菱自動車の i-MiEV、日産自動車のリーフが出てきて少しずつ電気自動車用のリチウムイオン電池が売れるようになってきた。 2015 年頃から自動車用のリチウムイオン電池の販売が急増してきた。
技術の進歩と自動車に対する環境規制が相俟って、車の電動化が推し進められてきている。
カリフォルニア州では、Zero Emission Vehicle 規制で、電気自動車化が強制されてきている。 ドイツでは 2030 年以降、内燃機関 (ICE) 自動車は販売禁止にするといわれている。
2025 年にはリチウムイオン電池の自動車用途がモバイル IT 用途をはるかに上回るようになるだろう。
ET 革命で消える「三種の鈍器」
ET 革命で無くなるものを予想すると、内燃機関 (ICE) 自動車、白熱電球、交流送電ではないだろうか。
エジソンとテスラは、直流送電と交流送電で争った。結局、テスラ・ウェスティングハウスの交流送電が勝った。 交流は変圧が出来たので、送電ロスが少なかったからだ。しかし、最近では直流で変圧ができるようになった。 それができれば、直流の方が送電ロスが少なくなる。
自動車会社の人は、内燃機関自動車は無くならないと思っているが、著者はそんなことはないと考える。
白熱電球は現在実際に無くなりつつある。LED は今は値段が高いが、その理由の大きなものは交流を直流に変換しているため。 直流送電ならば安くなるはず。
2025 年以降を予想する
AI と IoT とリチウムイオン電池が重なると未来の自動車に革命が起きるであろう。

第13回 ET革命がもたらす未来の社会

ET革命における「三種の神器」
これから自動車革命で大事になるのは、「パワーIC」、「AI」、「二次電池」であろう。
パワーエレクトロニクスは、高電圧、大電流の世界。この世界の技術はあまり進歩していない。 電気自動車が重要になるとすると、パワーエレクトロニクスでこれから巨大なマーケットが生まれるはず。 直流送電でも必要。耐熱性が重要なので、シリコンではなく SiC などが材料になると考えられる。
未来の車にはAIが搭載されるはず。AI = Artificial Intelligence、人工知能。学習機能がある。 これによって、無人自動運転が実現される。2025 年頃に実現されると予想されている。 AIを搭載するには、電気自動車が良い。
AIEVの時代
OSが重要。たとえば、スマホでは Android と iOS が制覇している。Android は Google のOS。 Google は Android を無償で提供した。 無人自動運転のインターフェースはスマホになるはず。とすると、Android と iOS が使われるであろう。
現在、テスラ社のモデルSの自動運転能力は、幼稚園児程度。人間と同様、AIにも学習期間がけっこう長く必要。 15 年くらいかかるであろう。2010 年から勘定すると、2025 年くらいになるであろう。 AIには教育のための投資が必要。これにけっこうお金がかかる。
マイカーが不要になるであろう。無人タクシーのようなもの。
交通渋滞や交通事故も減るだろう。高齢者にも良い。
巨大な蓄電池が社会インフラとして必要になるだろう。
車にかかるコストが減るだろう。無人タクシーのようなものなので、人件費がなくなる分、きわめて安価になる。 車のコストは年間12万円くらいになる(価格的にもスマホみたいなものになる)。今の車にかかるコストは年間90万円。 安くなる理由は、早い話、車を10人くらいで共有するようなものだからと思えばよい。