ロジェ・カイヨワ 戦争論

著者西谷 修
シリーズNHK 100分de名著 2019 年 8 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2019/08/01 (発売:2019/07/25)
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読了2019/08/27

著者の名前もここで取り上げられて初めて知ったのだが、ここでの紹介によると、戦争の本質に迫った名著のようだ。 西洋中心ではあるが、戦争の歴史的移り変わりを踏まえながら、現代の戦争(全体戦争)の性質を分析している。 著者は人類学者であるゆえに、人間の本性と戦争の関わりに鋭く切り込んでいることが特徴である。 解説では、さらに第2次世界大戦後の戦争の変容も整理している。兵器の進化とともに、第二次世界大戦のときにくらべて さらに戦争が非人間化していることがわかる。

カイヨワは、2度の世界大戦を踏まえて、戦争を「聖なるもの」であるととらえた。 戦争と「聖なるもの」の関係の分析が、日本における靖国神社のありかたと重なってよく理解できる。 総力戦の熱狂と信仰とは不可分であって、それはどの国でも多かれ少なかれ同じことなのだ。 日本に限ったものでもないことが、こういう西洋の視点から見るとよくわかる。全体戦争においては、人々は虫けらのように死ぬ。 それと表裏一体のものとして「洗礼的意義」や「祝福」が与えられなければならない。 世界大戦では、多くの国が総力戦の熱狂とその苛烈な帰結を味わった。 唯一違うとすればアメリカ合衆国で、アメリカは総力戦の悲惨さを十分に味合わなかったからこそ、 今でも熱狂と残虐を失っていない。

しかし、遠距離ミサイルが出たり、AI 兵器が出てきたりすると、戦争は熱狂ですらなく、単なる虐殺になりつつある。 最近、AI による自律型ロボット兵器を認めないという指針が国連で合意されたそうだ (2019 年 8 月 22 日、国連の 「自律型致死兵器システム」に関する政府専門家会合)。しかし、実効性があるものにできるかどうか怪しい。 自律型でなくて人間が判断するにせよ、兵士が戦場に赴かない戦いが起こるとすると、どっちにしたって非人間的だ。 空爆でも虐殺だと思うのに、空爆なら良くてロボット兵器ならダメと言われても、五十歩百歩だ。 それに自律型とそうでないものとの境界も曖昧だ。いっそのこと、非人道性を推し進めたほうが、戦争の抑止力に なるのではないかとさえ思う。核抑止力と同じ論理ではある。一つには、ロボット兵器でお互い殺しあえば、 政府が無くなっても戦争が続いて、お互いを殲滅するまで終わらないということになるかもしれないからだ。 もう一つには、あまりにも非人道的なので、使ってしまうと国際的な非難を免れないということだ。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 近代的戦争の誕生

『戦争論』基本情報
第2次世界大戦直後から執筆。
人間にとって戦争とは何かという問いに対して人類学から答える。
原題は『ベローナ、あるいは戦争への傾き』。ベローナは戦争の生々しい面を象徴する女神。
著者ロジェ・カイヨワ
1913年生まれ。第1次世界大戦後の混迷の時代に青年期を過ごす。
ジョルジュ・バタイユの許に集い、1937 年「社会学研究会」を創設。合理主義や物質主義に疑問を投げかける。 「遊び」や「祭り」の中に聖なるものを見出す。
第2次世界大戦のときは、戦争が終わるまでフランスに帰れなくなって、アルゼンチンにいた。
戦後『戦争論』を執筆し、人間が戦争に惹きつけられるしくみを考察した。
遊びや祭り
人間は合理性だけでは覆えない。
遊びや祭りが聖なるものとして社会を調整している。
戦争も「聖なるもの」。人間には戦争への傾きがある。
戦争
戦争は、破壊のための組織的な企てである。
喧嘩は戦争ではない。
戦争は、兵器の開発や軍の組織化と切り離せない。
戦争は、文明に付きまとい、文明とともに成長する。
文明は平和の中で発達するのだが、戦争は文明が発達するほど野蛮で破滅的になる。
戦争は文明を表出している。
戦争の形態の変化
(1) 未開の段階では、部族抗争が起きる。これが「原始的戦争」。
(2) 異民族を征服するための「帝国戦争」。
(3) 封建社会では、「貴族戦争」が起きる。騎士階級が戦争を行う。
(4) 国家同士の「国民戦争」が戦争の転機となる。このきっかけはフランス革命にある。 民衆から兵士を募る徴兵制が始まり、国民軍ができた。社会が民主化することと、戦争の担い手が増えることが表裏一体。
「国民戦争」の時代
マスケット銃が歩兵をつくり、歩兵が民主主義をつくった。[イギリスの軍人フーラーの言葉の引用]
17 世紀前半の「三十年戦争」の終結に伴ってウェストファリア講和会議が開かれた。このとき、戦争の主体は主権国家であるとされた。 このときから、戦争は宣戦布告によって始まり、第三国が設定する講和会議によって終わるというルールができた。
18 世紀後半のフランス革命で、徴兵制が布かれ、「国民軍」ができた。国民軍の士気は高かった。 このときから、戦争は「国民戦争」という形態をとるようになった。
19 世紀はじめ、クラウセヴィッツは戦争を政治の延長上に位置づけた。同時に、戦争の内在的な論理の存在も記していた。 2つの世界大戦によって、その内在的な論理が顕在化して、戦争は苛烈なものとなった。

第2回 戦争の新たな次元「全体戦争」

近代戦争の歴史
19 世紀にはヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ内部での争いを避け、植民地支配を展開した。 その結果、戦争の舞台は、アメリカ、アフリカ、アジアになった。
植民地の利権をめぐって、ヨーロッパ諸国の対立が深まっていった。その結果、 1914 年に第一次世界大戦が始まった。これが「全体戦争」(ドイツの将軍のルーデンドルフは「総力戦」と呼んだ)の 始まりだった。死者は千六百万人を超えた。
第一次世界大戦の戦後処理はうまくいかず、1939 年に第二次世界大戦が始まった。死者は五千万人を超えた。
「全体戦争」の条件
産業革命による兵器の進化。
戦闘員の数が、動員可能な成年男子全体に近づく。
軍需品の量が、その国の工業力の最大限の生産量に等しくなる。
戦争をすると経済活動が促進される。大量生産のために大量破壊が行われる。
国家機構は、戦争から生まれ、戦争に育てられる。肥大した国家機構は戦争を巨大なものにする。
国民の意識の変化
産業革命によって、人々は都会民となった。
都会民のアイデンティティを作ったのは言語。それによってナショナリズムが形成される。
戦争で国民が犠牲になるほど、国家の力が強まる。国家による人々の統合支配が起こる。
国家のために死ぬことが、人が生きる証になる。こうして全体戦争が起こる。
全体戦争においては、命が大量に消費される。全体戦争の中で英雄とされるのは、無名戦士である。死しては単なる肉片となる。無名のまま死んでゆくことが栄光となる。
生死に意味を与えるのが、戦争。国家に命を捧げることが美徳となる。
メディアの役割
メディアによって国民意識が作られる。
ヒトラーは、映像によってナショナリズムの高揚を促した。
戦争は、国民にとって魅力的なものとなった。
全体戦争と全体主義
国家は、批判や反対を許さない。
「戦争がこのような洗礼的意義を持つようになったのは、戦争が非人間的なものとなったときであった。」
近代戦を特徴付けるものは、熱情と組織である。

第3回 内的体験としての戦争

聖なるもの
聖なるもの=不安を感じると同時に魅せられてしまうもの。
カイヨワは、全体戦争に「聖なるもの」を見出す。これは集団現象。
バタイユの「内的体験」=神なき神秘体験
戦争と祭りの共通性
どちらも単調さを打破する熱狂である。
どちらも非生産的で消費するだけ。浪費経済=在庫一掃。
どちらにおいても日常の規律が解除される。戦時においては人を殺さねばならない。
どちらも老朽化を防ぐための唯一の手段。
どちらも恍惚状態を与える。人は再びそれらを求める。
作家ユンガーの戦争体験
ユンガーはドイツ兵として西部戦線を戦った。
その体験を基に『内的体験としての戦争』を著す。
残酷な秩序の中で、人間は決められた地位を占める。
その中にユンガーは美を見出し、戦争信奉者となっていった。
戦争は、もはや神話の域に達した。ユンガーは、死を超えた高みに自分を持っていくことが崇高だと感じた。
戦争の魅惑とその方向
戦争の魅惑:破壊への喜び、殺すことが欲求解消になる、他人の人格を蹂躙する快感
戦争と祭りの相違点:祭りは人々の合体、戦争は人々の憎悪と衝突、戦争は他のグループをを壊し傷つける
戦争を回避するには、社会が消費の回路を持つことが必要。

第4回 戦争への傾きとストッパー

核兵器の登場
戦争が大量破壊になってしまった。
兵士の意味はなく、戦争から人間的意味がなくなった。「人間はもはやほとんど戦闘員ではない。彼は、機械の下僕となり被害者となる。」(「結び」より)
核兵器によって世界戦争ができなくなった。核兵器を双方が持てば、双方が殲滅されることになるから。
戦争の変容
カイヨワの考察の後、世界は核時代に入って冷戦状態に陥った。
その中で、各地で代理戦争が多発した。代表的なものは、ベトナム戦争であった。
世界経済の拡大の中で、アメリカでは 1973 年に徴兵制が廃止された。国家と軍との関係が弱くなり、軍を組織するのに 国民全体の合意が不必要になった。
1980年代後半、東側諸国が崩壊して、冷戦が消滅した。
これに代わって「テロとの戦争」が始まった。アメリカは、2011 年の 9.11 事件を受けて、 テロリスト殲滅を口実にアフガニスタンに侵攻した。
「テロとの戦争」には、宣戦布告もなければ、講和もない。どうやって戦争を終えたらよいかがわからない。
「テロとの戦争」のために、アメリカ国内では愛国者法ができて、常に戦時になった。監視国家ができた。国民が潜在的な敵になった。 戦争が変容しても、国家は戦争技術を高めている。
「テロとの戦争」においては、殺害が戦果となる。
現在の兵器は、戦場に兵士を送らなくてもよい。ハイテク兵器を持っていれば、味方の犠牲者を減らせる。
戦争を避けるために
戦争の人間的な側面を理解しないといけない。人間の教育が大切。
しかし、そんなことで間に合うかどうかわからない。
人権を大切にしなければならない。人権こそが戦争のストッパー。