大衆の反逆

著者José Ortega y Gasset
訳者神吉 敬三
シリーズ角川文庫 2467
発行所角川書店
刊行1967/09/10、刷:1989/11/15
原題La rebelión de las masas
原著刊行1930
初出新聞 El Sol, 1929
入手(おそらく)東大生協で購入
読了2019/03/02

オルテガ 大衆の反逆

著者中島 岳志
シリーズNHK 100分de名著 2019 年 2 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2019/02/01(発売:2019/01/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2019/02/25

La rebelión de las masas

たぶん大学院生の頃買って、その頃一度読んだはずなのだが、あんまり覚えていないところからみて、当時は真価がよくわからなかったのだろう。 今回「100 分 de 名著」の助けを借りつつ改めて読んでみて、意味がよくわかった。 とはいえ、もともとが新聞連載だったせいか、それほどきっちり論理的に書かれているわけではない。 同じことの繰り返しも多いし、論理の飛躍も多い。それはそれとして、言いたいことの主旨は良く伝わる文章である。

『大衆への反逆』は、大衆の危険性について論じた本である。 これは今の日本にもよく当てはまる。それは、いわゆる劇場型政治の問題である。 マスコミと大衆受けする政治こそがここで批判されているものである。 やたらと改革だとか維新だとか言いながら中身が薄っぺらなものを支持するのがここで批判されている大衆に他ならない。

最初は新聞連載だったとのことだが、批判されているのは「みんな」なので、 今の日本の新聞だと載せてくれないんじゃないかと思う。民主主義を狭い意味で取れば、これは反民主主義だからだ。 スペインが日本より寛容という訳でもなく、オルテガの言論活動はやがて袋叩きにあって、 国外亡命を余儀なくされたとのことである。Wikipedia "El Sol"によると、 連載した新聞 El Sol も、スペイン内戦の中で 1939 年には廃刊になっている。

本書の議論の帰結の一つは、政治は、修練を積んだ政治家に任せるべきだということになる。 これは議会制民主主義の考え方でもある。しかし、世の中、住民投票を絶対のように思っている人が多いところからみて、これには反対する人も多いであろう。 とはいえ、よく考えていない人とかルールに則った議論ができない人が政治をやるとおかしなことになるのは明らかである。 昔から果てしなく続いている「パターナリズムvs民主主義」の間のバランスを適切に取る問題であるとも言える。

「100 分 de 名著」の中島氏の解説は、本を初めから順番に読んでいくというよりは、概念ごとに再構成してみせるというもので、本を一緒に読んでいくと、立体的にわかるようになっている。 第1回は「大衆」、第2回は「リベラル」、第3回は「死者」 すなわち過去の遺産という形でまとめてある。第4回はオルテガ後の保守思想の紹介である。

少なくとも「100 分 de 名著」ではオルテガは保守思想家として紹介されているわけだが、読んでみるとそれほど保守的でもない。 14 章では、ヨーロッパ統一国家の建設の方向性が語られ、それこそがヨーロッパがソ連共産主義に対抗して世界に君臨する唯一の道であると 説いている。この部分は西欧中心主義でありすぎるせいか、「100 分 de 名著」では紹介されていない。 オルテガは、反共産主義ではあるが、こういう未来を語るところは保守的ではない。 ヨーロッパ統合への動きは、今では欧州連合 (EU) という形になっているけれど、今でもユーロ問題やイギリスの Brexit 問題で いろいろごたごたしている。ヨーロッパ全体では、なかなか一体感が醸成されることはないようである。

本書で、国家が暴力的な危険物とみなされているところを読んで、以前、仙石由人が「暴力装置でもある自衛隊」と言って、 自民党議員から噛み付かれたのを思い出した。国家を暴力装置とみなすのは、日本では左翼用語なので、自民党議員が喜んで叩いたのだが、 英米的な伝統では保守の考え方である。これは、保守と呼ばれている人が、小さな政府を目指していることからもわかる。 それは、国家による干渉を危険とみなすのが、英米では伝統的な考え方だからである。 それは、米国憲法にも現れていて、憲法上、 アメリカ合衆国には常備軍としての陸軍は無いことになっているそうである。軍隊を危険とみなすのが米国の伝統である。 どっちにしても、国家を暴力装置とみなすという概念は、国家に対する伝統的なモデルの一つであって、適切な文脈で使えば有用な概念である。

以前から、「100 分 de 名著」解説の中島岳志氏がリベラル保守を自認し、保守とリベラルが対立する概念ではないと論じられていることを知ってはいたのだが、 今回改めてオルテガの解説の中で理解した。日本でも、自由民主党 Liberal Democratic Party が保守ということになっていることでもはっきりわかる通り、 もともと保守とリベラルは同じものだったはずなのだが、世界一偏った国であるアメリカ合衆国の言葉遣いが最近表面的に取り入れられて、 「保守」と「リベラル」が対立する概念であるという混乱した言説がマスコミ等で続いている。この「100分de名著」では第2回で議論されている通り、 近代的な「リベラル」は「寛容」ということで、日本人が「和」を大事にするという手垢のついた言説が本当なら、日本の伝統でもあるはずだ。 最近の自称保守の非寛容は、要するに自称保守が実は保守的ではないことを自ら暴露しているにすぎない。

サマリー

サマリーをメモしながら読んでみた。メモを取ってみると、そんなに難しくはないことがわかる。 最初は新聞に書かれたものであるせいか、 同じことが繰り返し述べられている部分も多い。

1. 充満の事実
今の世の中、「大衆」が充満している。
大衆とは、「みんな」と同じ行動をし、同じ考え方をする人々である。
一方で、エリートとは、自ら進んで困難と義務を負おうとする人々である。
かつて政治は専門家に任せられていたが、今や大衆が凡俗であることの権利を主張し貫徹しようとしている。
2. 歴史的水準の向上
現在、大衆は物質的豊かさと社会的な権利を享受している。現在の平均人の生は、かつての最上層階級の生のレベルに達している。
西洋の没落という言い方は正しくない。世界は平均化されてきているのである。
3. 時代の高さ
19 世紀、人々は自分たちの生きている時代が過去のどの時代よりも高い頂点にいると感じていた。
現代を没落の時代だと嘆く人も多いが、よく考えてみると、今の時代、人々は過去を振り返ってはいない。 つまり、現代は過去が役に立たない時代なのである。 それは、現代が頂点にあるという意味ではない。現代は、過去が規範にならないような過去よりも高い時代だが、 今が上り坂か下り坂かさえもわからないという意味である。
4. 生の増大
世界は空間的・時間的に拡大した。すなわち、地球の裏側のニュースもすぐ伝わってくるし、過去に関するわれわれの知識も増大した。
我々が手に入れることができるものも、かつてなく豊富である。職業の種類も多い。スポーツの記録もどんどん伸びている。 科学も急速に発展している。
現代は、あまりの豊かさに自らを見失っている時代である。未来の予測が何も準備されていない。
5. 一つの統計的事実
かつての大衆は、政治的には、少数者の決定のいずれかに賛同することだけを行った。
今や大衆が権力を握っているが、政治は場当たり的で未来像が無い。
このようなことが起こった背景として、ヨーロッパの人口が急増したことがある。人々の数は増えたが、人々に精神は教育されなかった。
6. 大衆人の解剖の第一段階
19世紀より前、生とは障害だらけで苦しいものだった。
19世紀になって、人々の生活は、物質的・肉体的に安楽になり、社会的な障害もなくなった。
19世紀の新しい世界を生み出した根拠は、自由主義的デモクラシーと科学技術の発展である。ところが、大衆は、それを空気のようなものだと思い込み、それらを支えている仕組みに恩義を感じていない。
大衆は、環境に甘やかされているために、自分に優る者の存在を認めない。昔の人々には、周囲の者が自分より優っていると考える謙虚さがあったのに。
暴動において、一般大衆はパンを求めるためにパン屋を破壊する。これが大衆の行動様式の象徴である。
7. 高貴な生と凡俗な生―あるいは、努力と怠惰―
過去の平均人にとって、生は苦しくさまざまな制約や困難に満ちていた。しかし、現在の平均人にとって、生は安心で安楽である。
大衆は、自分が自分の生の主人であるような気分でおり、そのような環境が維持される仕組みに無関心である。権利を単に受動的に享受している。
貴族、すなわち優れた人間は、自らすすんで奉仕をする。権利が奪われそうになれば、自ら闘って奪い返す力がある。貴族は努力の人である。 もちろんここで言っている貴族は、世襲貴族のことではない。
19 世紀は、人々に経済的手段、肉体的手段、市民的手段、技術的手段を与えた。しかし、平均人は、それら文明の起源を知らないので、 もちろん文明を正しい方向に導く力が無い。
8. 大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的にのみ干渉するのか
大衆人は自分が完璧だと思っている。それに対して、優れた人は、自分は不完全だと考えている。
大衆人は馬鹿なわけではないが、自己完結してしまうために、知的能力を使うことがない。
かつて庶民は、自分が「思想」を持っていると思ったことはなかった。これに対して、今の平均人は、真の思想を持っていないにもかかわらず、 自分が「思想」を持っていると思っている。真の思想を持つためには、少なくとも議論のルールを知らなければならないのに、彼らはそれを知らない。
大衆は、討論をしようとせず、直接行動、すなわち暴力に訴える。かつて暴力は最後の手段であったが、今では唯一の手段となっている。
文明は、異なる考えの人々が共存するために、手続き、ルール、礼儀などを作ってきた。政治的には、それが、自由主義デモクラシーである。 自由主義とは、寛容である。それはか弱い敵との共存である。
ところが、現代の大衆は、反対派を抹殺する。
9. 原始性と技術
これからの社会は良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。しかし、悪くなることを予測させるような事実が多い。
問題は、文明の原理に関心をもっていない人々が社会を指導しているということである。
人々は、文明の利器を、あたかもそれが自然発生したものであるかのように見ている。つまり、大衆人は、文明世界に現れた原始人なのである。
技術は科学がなければ生き続けられないだろうし、その科学は科学そのものに対する興味がなくなれば絶えてしまうだろう。 人々は、このようなことを忘れている。実験科学は、19 世紀の英独仏というきわめて限られた領域で生まれたものである。 それが生み出される条件は限られたものなのだから、何もせずに安泰ということはない。
実験科学は今日の文明の基礎であるにもかかわらず、人々の関心は薄い。技術家大衆も科学に無関心である。
10. 原始性と歴史
大衆人は、文明が自然発生的なものだと感じており、複雑なシステムに支えられていることを知らない。
歴史を知ることも文明の維持に不可欠である。それは過去の失敗を繰り返さないために必要である。
ボルシェビズムもファシズムも歴史を知らない人によって支えられている。したがって、ロシア革命は、今までの革命の繰り返しにしかならなかった。
反自由主義は、自由主義よりも新しく見えるかもしれないが、歴史を知らないから、自由主義の前の時代への後退へと堕してしまう。 19世紀的な自由主義を超克するには、自由主義の本質を保持しながら修正しなければならない。
11. 「慢心しきったお坊ちゃん」の時代
これまで分析してきた大衆人の特徴は以下の通り (1) 生は豊かで容易だと思っている (2) 自分は立派だと思っていて他人の言葉に耳を貸さない (3) 自分の意見を直接行動で押し通そうとする。一言で言えば、大衆人は「甘やかされて慢心しきったお坊ちゃん」である。
われわれには運命の真理がある。たとえば、現代ヨーロッパ人は自由主義的でなければならない。 コミュニストやファシストがいくらそれを否定しようとしても、彼らに自由主義は作用しているのである。 それを受け入れないのは不真面目である。真摯な人間は運命を受け入れる。
12. 「分科主義」の危険
19 世紀の西欧文明の基盤の一つは技術であり、その基盤に科学がある。かつて存在した科学なき技術はやがて後退した。
科学を支えている科学者も皮肉なことに大衆人である。科学者は専門化されており、ごく小さな領域のことしか知らない。 にもかかわらず、彼らは専門分野以外に関しても傲慢に、すなわち大衆人として振舞う。
13. 最大の危険物=国家
大衆は、優れた少数者に指導されなければならない。
大衆が自ら行動するときはリンチや暴力を用いる。
18 世紀に至るまで国家の力は弱かった。だからこそ、市民が力をつけてくると、革命が起こった。 革命によって市民が作った国家は強大になり、もはや革命が起こりえなくなった。
大衆人は、国家を自分のものだと思い込み、国家を動かして創造的な少数者を押し潰すだろう。 このようにして、国家は、自身を維持している者たちを滅ぼすことで、社会は国家に奉仕するだけになる(官僚化)。 やがて、国家は弱っていって死に絶えるだろう。
ファシズムはその例である。イタリアは自由主義デモクラシーによって作られたのに、ムッソリーニはその自由主義デモクラシーを攻撃して、 国家を無節操に使っている。国家主義において、大衆は国家を通じて暴力を振るうのである。
各国における警察権力の増大も危惧される徴候である。
14. 世界を支配しているのは誰か
14-1
16 世紀以降の世界は、ヨーロッパが支配している。
ここでいう支配は、世論に支えられた安定した関係のことである。支配とは、安座することである。
中世は、意見のない時代で、したがって支配も無く、混乱が多かった。それ以前の支配は、ローマによるものである。
14-2
概念とは、人間が生の中で自分自身の位置を明らかにするための道具である。それは、事物自体については何も語っておらず、 人間に対する有用性とか害とかを表現したものである。
これまでの 3 世紀の間、ヨーロッパが世界を支配してきたが、今後もそれを続けられるかどうか誰も自信を持っていない。
一方で、「大衆民族」にはヨーロッパの規範に代わる新しい規範を生み出す能力は無いので、単に子供のように飛び跳ねているだけである。
14-3
ヨーロッパの掟が効力を失ったとして、何かそれに代わるものがあれば良いのだが、そのようなものは無い。掟が無いと、生は空虚になる。
ロシアは、マルクシズムでカムフラージュした新しい民族である。アメリカは、技術でカムフラージュした若い民族である。 いずれもヨーロッパが生み出した文化でカムフラージュした歴史の浅い民族で、まだ世界支配を獲得することはできない。
14-4
人間は本質的に社会的であって、支配と服従を必要とする。服従は忍従ではなく、支配者を尊敬して命令に従うのである。 不正な支配には反抗しなければならない。
人間には献身が必要であって、自分だけのために生きるのではない。人間には、支配者による生の設計が必要である。
創造的な生には、節制や品格や刺戟が必要である。そのためには、支配するか服従するかのいずれかである。
14-5
ヨーロッパは、潜在能力は高いのに、国家という狭い領域の中でそれがはっきできないでいる。 それがヨーロッパの没落という印象を与えている。
14-6
ギリシャやローマの都市は広場(フォーラム、アゴラ)から始まった。広場は市民的空間であり、家よりも高度な集合体である。
国家も、小さな共同体が集まってできたものである。共同体が共存するには、それに適した形式を想像する力が必要である。
14-7
生の現実を直視する人は、自分が迷える者であることを知る。つまり、世の中はそれほど複雑である。
ローマが過度に膨張し、共和制がうまく機能しなくなる中で、シーザーは君主制の帝国の建設を目指した。 これは、近代国家(ステート)と言っても良い。
国家(ステート)は、出自の異なる集団が共同で何かをしようとすることによって生み出される。 血縁、言語、地理などが統一の基礎なのではない。近代国家は、複数の民族集団から成っている。 言語的統一性は、政治的統一の結果として生まれたもので、統一の要因ではない。 地理的な境界も、その当時の交通手段や軍事的に相対的な障害物であるというに過ぎない。
近代国家は、共同事業なので、国家に参加するものは皆政治的な主体である。 これに対して、古代人は、支配者と被支配者の単純な二元論を考えていた。
14-8
国家の基盤は、未来への計画を共有していることである。国民国家は、常に生成途上か崩壊の途上にある。
ヨーロッパにおいて、国民国家は、近隣民族を徐々に融合することによって形作られてきた。
この方向性で行けば、西欧全体が一つの巨大な国家へと発展してゆくであろう。
14-9
ヨーロッパ(西欧)は等質化してきている。
国民国家やナショナリズムは袋小路に来ている。ヨーロッパ全体が一大国民国家を作るという決断のみがヨーロッパをふたたび強化しうる。
ソヴィエトの五カ年計画に勝利するには、ヨーロッパに大国民国家を作るしかない。
15. 真の問題は何か
大衆人にはモラルがない。義務から逃げて、権利だけを振り回している。
本書では扱いきれない重大な問いとしては、近代ヨーロッパ文化の根本的な欠陥は何かということがある。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 大衆の時代

オルテガ・イ・ガセット (1883--1955)
ジャーナリズムの家系に生まれる。
マドリード大学で哲学の博士号を取得。
1931 年、政治結社「共和国奉仕集団」を結成。
1936 年、スペイン内戦が勃発。その中で、教授のポストを剥奪され、同年、国外亡命。
1945 年、帰国して、残りの 10 年はスペインで過ごす。
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』はおよそ1世紀前に書かれた(1930年刊)。
大衆が政治の主権者となる時代の到来を告げた書。
書かれた時代は、ファシズムがヨーロッパを席巻しつつあるころ。
大衆という概念
mass man:大量にいる人たち。
19世紀になると、人口が急増して、根無し草の人々が都市に集まる。彼らにはトポス(自分の居場所)が無い。
「大衆」とは、個性を失い、何者でもない群衆のこと。
人間の個性を失わせる「近代」。近代教育のポイントは、先生の話をじっと聞かせること。これが従順な工場労働者の体質を作る。
庶民と大衆は違う。庶民には自分の足場がある。コミュニティの中で生きる。
大衆は「平均人」。共通の型を自ら繰り返す。他人と同じであることを心地よさを感じる。平均人が権力を握ると、平等という名の下に優れた人々を抑圧する。
大衆は、時代の風になびく。
大衆は、自分の能力を過信し、慢心する。「慢心した坊ちゃん」は、やりたい放題。彼らは自分が多数派であるということにあぐらをかいている。彼らは、自分を超えている者に畏敬の念がない。
科学者をはじめとする専門家こそが大衆の原型である。専門家は広い知識がないという意味で智者ではなく、しかし専門には詳しいという意味で愚者でもない。専門家には複雑な社会を捉えるための総合的なビジョンがない。
「科学それ自体にたいする関心のなさがおそらくもっとも明白に認められるのは、技術屋という大衆である。」

第2回 リベラルであること

リベラル=自由主義
リベラルとは「寛容」であるということ。自由主義(リベラリズム)は、異なる価値観を受け入れる寛大な制度。
リベラルの起源は、三十年戦争。戦争の果てに、人々は、価値観の違いを受け入れなければならないことに気づいた。
「保守」対「リベラル」という扱いは、アメリカの悪影響。
リベラルは、多数派の自由ではない。
文明は、なによりもまず、共同生活への意志である。共同生活のためには、手続き、礼節、規範などが必要。面倒なことを大切にしないといけない。
敵とともに生きる!反対者とともに統治する。
貴族
「貴族」とは、努力の結果として卓越した人。自分とは異なる考え方の人と生きていける人。
思想とは、真理に対する王手である。真理を得るためには遊戯の規則がある。過去の経験知を大切にして、真理を探求する必要がある。
大衆の特性
大衆は、パンを求めて暴動を起こす時、パン屋を破壊する。
大衆は、自由を獲得しようとして、自由を支えてきたものを破壊する。
民主主義
古い民主主義には、自由主義と法に対する熱情があった。
大衆時代の民主主義(超民主主義)は危険だ。それは、多数派の欲望に振り回されて浮遊するだけだ。
大衆は、議論することなく多数派の意見を暴力的に押し付けようとする。
支配
支配とは、拳の問題ではなく尻の問題である。「まあ、坐れ。」ということである。

第3回 死者の民主主義

死者の民主主義
われわれは、死者の経験に縛られながら生きなければならない。
死者を無視するということは、過去からの知恵が得られなくなるということだ。そういうことが今起こっている。
今生きている人間の考えだけで、いろいろ変えようとするのは危険。頻発する革命は、「生きている死者」をないがしろにしている。
過去を無視する時代
過去を無視するから、人々は不安になっている。その結果、異論を受け付けず、暴力的になっている。
人々は、過去と向き合わず、ものごとを単純化している。
詩人ポール・ヴァレリーの言葉
湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく。
我々は未来に後退りして進んで行く。
講師の中島氏の論考
東日本大震災のあと、「死者と共に生きる」ということを書いた。
震災の1年ほど前、親しい友人が亡くなった。講師は、その死んだ友人に見られている気がした。彼との新しい関係が始まったのだと思った。
亡くなった人との対話は続く。死者の眼差しの下で恥ずかしくない生き方をするのが大切。
死者と政治学
チェスタトンは書いている。伝統とは、死者に投票権を与えること。民主主義と伝統は切っても切れない関係にある。死者には墓石で投票してもらわないといけない。
立憲主義は民主主義とぶつかる側面がある。民主主義は、今生きている人間の考え方でものごとを決める。立憲主義は過去の合意形成を覆してはいけないということ。立憲主義は死者の経験を生かすもの。
チェスタトンはこのようにも書いている。「平凡なことは非凡なことよりも価値がある。」平凡というのは、庶民の英知のことである。 これは大衆の凡庸と対置される。
社会学者バウマンによる現代社会の分析
クローク型共同体=劇場では一体化するけど、劇場から出ると散り散りバラバラ
カーニバル型共同体=一気に熱狂し、あっという間に忘れる「祭り」

第4回 「保守」とは何か

この回では保守思想の流れを振り返る。

エドマンド・バーク (1729-97)
保守思想の父。イギリスの政治家で、『フランス革命についての省察』を著し、フランス革命を批判。
フランス革命は混乱をもたらし、やがてナポレオン独裁を招いた。
啓蒙主義は、理性を信じすぎている。過去の中に英知は宿る。
復古や反動が良いわけでもない。人間は不完全なので、人間の作る社会は永遠の微調整(=漸進的な改革)を続けてゆく必要がある。
大切なものを守るためには、変わらなければならない。
アレクシス・ド・トクヴィル (1805-59)
フランスの貴族出身の政治思想家。
フランス革命後の民主制の崩壊に心を痛め、アメリカに渡って、アメリカ社会を観察した。そして、『アメリカの民主政治』を著す。
アメリカでは、大統領が優れているわけではないことを知る。ジャクソン大統領はひどい人だった。
アメリカの民主政治を支えているのは、共同体。国家と個人の間にある組織が分厚く存在している。その中でさまざまな合意形成が行われている。
未来には悲観的。マスメディア支配の時代がやってくると、多数者による専制の時代が来ると予期。
西部邁 (1939-2018)
オルテガを信頼した保守思想家。『大衆への反逆』を著す。
大衆社会を批判。その典型が自民族中心の考えだとした。
ヨーロッパの懐疑精神を高く評価する。オルテガは、懐疑する心性の系譜に位置する。
中島岳志 (1975-)
『「リベラル保守」宣言』を著す。リベラルと保守は、一体のもの。
ロバート・パットナム (1941-)
アメリカの政治学者。『哲学する民主主義』『孤独なボウリング』を著す。
国家と個人の間にある中間領域が厚い社会は、民主制がうまくいく。
昔ながらの町内会のような組織(ボンディング)は、重要だが村八分のような問題もある。 一人の人が複数の共同体に属するようなブリッジングが今のような時代には重要だろう。
終わりに
オルテガの言葉「私は、私と私の環境である。」;私は日本語を選んだわけでもないし、親を選べるわけでもない。そのような中で生きる。
熱狂を疑う。

翻訳について

今和訳は3種類ほど出ているようだが、どれも新しい訳ではない。私が読んだ神吉訳は、以前は角川文庫から出ていたものが、 最近ではちくま学芸文庫から出ている。神吉訳は、全体的にはそれほど読みにくいわけではないが、ときどき意味が分からないところがある。 以下、気づいた点について原文と英訳とを見ながらチェックしてみる。英訳は、ネット上に出回っているもので、翻訳者の名前は書いていない。 Wikipedia "The Revolt of the Masses" によると、最初の英訳は 1932 年に出され、Ortega 自身によっても認められた。これは、もともと匿名らしく、ネット上にあるものはおそらくこれであろう。 さらに、「100 分 de 名著」で引用されているのは中公の寺田和夫訳らしいので、寺田訳も図書館で借りて参考にしてみた。 以下を見てみるとわかるとおり、神吉訳は原文にかなり忠実なのだが、忠実であろうとするあまり長くなって意味がとりづらくなっているところがあることがわかる。 寺田訳のほうがわかりやすいが、(意図的だと思うが)やや不正確なところもある。 寺田訳のほうがわかりやすいのは、神吉訳が 1967 年のもので、寺田訳が 1971 年のものなのだから、当然といえば当然である。 ただし、私が比較したのはきわめて部分的で、全体にわたって神吉訳と寺田訳の比較をしているわけではない。

大衆が平均人であるということ

(1. 充満の事実、角川文庫 p.9 より)

[神吉訳] 大衆とは「平均人」のことなのである。こう考えることによって、先にはまったく数量的であったもの、 つまり群衆が、質的なものにかわるのである。大衆は万人に共通な性質であり、社会においてこれといった特定の所有者を 持たぬものであり、他の人々と違わないというよりも、自己のうちに一つの普遍的な類型を繰り返すという限りにおいて人間なのである。

[寺田訳] 大衆とは《平均人》である。それゆえ、単に量的だったもの―群集―が、質的な特性をもったものに変わる。 すなわち、それは、質を共通にするものであり、社会の無宿者であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間である。

これは、寺田訳のほうが良さそうだが、それでも意味が通じないところが多い。そこで、元のスペイン語と英訳

[スペイン語] Masa es el <<hombre medio>>. De este modo se convierte lo que era meramente cantidad -la muchedumbre- en una determinación cualitativa: es la cualidad común, es lo mostrenco social, es el hombre en cuanto no se diferencia de otros hombres, sino que repite en sí un tipo genérico.

[英訳] The mass is the average man. In this way what was mere quantity — the multitude — is converted into a qualitative determination: it becomes the common social quality, man as undifferentiated from other men, but as repeating in himself a generic type.

から訳してみる。スペイン語は良く分からないので、英語の助けを大いに借りて訳してみると (英訳には lo mostrenco social の訳が抜けているのでそれを補いつつ)、

[私訳] 大衆とは「平均人」である。このようにして、単に量に過ぎなかったもの(群衆)は、質的なある種の傾向性へと転換する。 大衆は、人々に共通の性質であり、社会的な愚者であり、他の者との区別が無く、一般的な型通りのことを自ら行う。

ということになる。determinación は「決意、決断」が普通の訳だが、英英辞典を見ると「傾向性」のような意味があるので それを用いて訳した。lo mostrenco social の mostrenco は、西和辞典を見ると、形容詞としては「所有権者のいない」という意味があり、 神吉訳はそれを使って訳そうとしているものの、ここは名詞として使っているので、西和辞典に載っている名詞としての訳「間抜け、のろま」を素直に使うべきだと思う。 sino を神吉訳では逆接で訳しているが、ここは no ... sino (英語なら not ... but) というつながりなので、その前の「他の者と区別がない」の 言い換えである。これは英訳でも not の部分を undifferentiated のように un- にしてしまったので、よくわからなくなっている。

可能な世界に関して

(4. 生の増大、角川文庫 p.41 より)

[神吉訳] 換言すれば、われわれは、われわれが、なりうるものの最小部分にしかなれないのである。 だからこそ、世界はわれわれにとってかくも巨大なものに思えるとともに、われわれはその世界の中でかくも微小なものに思えるのである。 世界、すなわち、われわれの可能なる生は、つねにわれわれの運命、すなわち現実の生以上のものなのである。

[寺田訳] 別のことばでいえば、われわれは、なりうる可能性のあるもののほんの一部分にしかならないのである。 だからこそ、世界はわれわれにとってあんなに巨大に見え、そのなかにあるわれわれはこんなに微小に見えるのである。 世界もわれわれの可能な生も、つねに、われわれの運命やじっさいの生よりも大きい。

ここは、可能性としての世界と現実に実際に起こってしまった世界の比較である。神吉訳も寺田訳もあまり問題はない。 ただし、神吉訳では、最後に「生以上」と世界と運命の間に上下をつけているようにも読めてしまうが、そのような意味ではない。単なる大小関係である。 寺田訳は最後の文の対比のところがうまく訳せていないと思う。

[スペイン語] dicho de otra manera, llegamos a ser sólo una parte minima de lo que podemos ser. De aquí que nos parezca el mundo una cosa tan enorme, y nosotros, dentro de él, una cosa tan menuda. El mundo o nuestra vida posible es siempre mas que nuestro destino o vida efectiva.

[英訳] putting it another way, we become only a part of what it is possible for us to be. Hence it is that the world seems to us something enormous, and ourselves a tiny object within it. The world or our possible existence is always greater than our destiny or actual existence.

[私訳] 言い換えれば、われわれは可能である世界の最小の部分にしかなれない。 であればこそ、世界は巨大に思えるのであり、我々自身はその世界の中できわめて小さなものに思えるのである。 世界、すなわちわれわれの可能な生は、運命、すなわちわれわれの現実の生よりも常に大きいのである。

われわれと世界の関係

(7. 高貴な生と凡俗な生―あるいは、努力と怠惰―、角川文庫 p.63 より)

[神吉訳] まずさしあたっていえることは、われわれは、われわれの世界がかくあれとわれわれを招くところのものであり、 われわれの魂の基本的な相貌は、型でうち抜かれてでもいるかのように、環境の輪郭にそって魂の中に刻み込まれているのだということである。 それは、生きるとは世界と接触すること以外のなにものでもないことを考えれば、当然のことである。世界がわれわれに見せている基本的な相貌は、 またわれわれの生の基本的な相貌でもあるといえよう。

[寺田訳] さしあたりわれわれは、世界にそうなりなさいといわれたとおりに、現在の姿になっているのだし、 われわれの心の主要な特徴は、まるで鋳型に入れてつくられたように、周囲の形どおりにできあがっている。それは当然のことである。 生きるとは、世界とかかわりをもつことにほかならないからである。 世界がわれわれに示す一般的様相は、われわれの生の一般的様相でもある。

ここは、全体的には世界がわれわれを形作るということを述べているところである。 最初読んだとき、神吉訳の意味がわからず、英訳を見て間違いかと思ったのだが、以下のスペイン語を見るとそうではなかった。 神吉訳は、原文の直訳としてはかなり正確であることがわかる。 単に正確を期すあまりやや長ったらしくなって意味が取りづらくなっているだけであった。 わかりやすさからいえば、寺田訳のほうが良い。

[スペイン語] Por lo pronto somos aquello que nuestro mundo nos invita a ser, y las facciones fundamentales de nuestra alma son impresas en ella por el perfil del contorno como por un molde. Naturalmente, vivir no es más que tratar con el mundo. El cariz general que él nos presente será el cariz general de nuestra vida.

[英訳] To start with, we are what our world invites us to be, and the basic features of our soul are impressed upon it by the form of its surroundings as in a mould. Naturally, for our life is no other than our relations with the world around. The general aspect which it presents to us will form the general aspect of our own life.

英語を読むときに注意が必要なところがある。英語の are impressed upon it の it は、英語だけ読むと our world を指しているとも読めるが、 スペイン語は son impresas en ella と ella が女性形なので、nuestra alma (= our soul) を指しているのだとはっきりわかる。 それとともに神吉訳がスペイン語原文の直訳に近いということがわかる。 寺田訳では、最後の分の será の未来形の雰囲気を訳していない。そういったことを踏まえて簡潔に訳しなおしてみると以下の通り。

[私訳] まず、われわれのありかたは世界に導かれたものである。 われわれの魂の基本的な様相は、われわれを取り巻くものの輪郭を鋳型として魂の上に刻み付けられる。 生とは世界との関わりに他ならないということからすれば、それは自然なことである。 したがって、世界がわれわれに見せている一般的な様相は、われわれの生の一般的様相となるであろう。

思想とは

(8. 大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的にのみ干渉するのか、角川文庫 p.76 より)

[神吉訳] 思想とは真理に対する王手である。 [寺田訳も句読点と漢字以外は同じ]

これは格好良い文句なので、元のスペイン語と英訳をチェックしたくなった。すると、英訳に問題がありそうだということがわかった。 和訳は問題ない。

[スペイン語] La idea es un jaque a la verdad.

[英訳] An idea is a putting truth in checkmate.

英訳の問題点だが、先ず第一に、なぜここに a が付いているのかわからない。「真理をチェックメイトの状態に置くこと」なら a は要らないはずだ。 しかも a をつけると、truth が可算名詞で putting がそれについている形容詞のように見えてしまうので、ますます意味がわからない。 ついでに言えば最初の An もよくわからない。ここは個々の考えについて言っているのでも、考えというものはすべからくと 言っているのでもないと思うので The の方が良い気がする。まあこういった冠詞の問題は、私の英語能力不足による勘違いかもしれないけれど。 それはそれとして、はっきりわかる問題は、check ではなく checkmate になっていることだ。 王手 (check) と詰み (checkmate) では大違いである。スペイン語も王手 (jaque) であって詰み (mate) ではない。 王手ならば、「王手は追う手」という諺でもわかるとおり、多くの場合は追及の途中であって逃げられてしまうことが多い。 詰みならばゲームセットである。今の場合、真理というのはそう簡単につかまるものでもないので、なかなか詰まないものであろう。

国家と大衆

以下も、神吉訳は直訳として間違っていないが意味が通じない部分。寺田訳だと意味がわかるので、そちらを載せておくことにして、 スペイン語や英訳までは載せない。

(13. 最大の危険物=国家、角川文庫 p.130 より)

[神吉訳] 国家は、二人の人間がそのいずれもフワンという名前ではないという点でお互いに全く同じだという意味においてのみ、大衆なのである。 今日の国家と大衆は、ともに匿名であるという点においてのみ一致しているのである。

[寺田訳] 国家が大衆であるというのは、二人の男のどちらもフワンという名でないから、ふたりは同一人であるといいうるのと同じ意味でしかない。 今日の国家と大衆とは、匿名者であるという点だけで一致している。

国民国家

(14-8. 角川文庫 pp.194-195 より)

神吉訳だと「(国民)国家」と書いて「ネーション」という英語っぽくルビが振ってあるところがあって、元は何だろうと思って スペイン語原文を見てみたら una/la nación だった。同様に「ナショナル・ステート」というルビは el Estado nacional、 「ステート」は el Estado に対応している。しかし、英語で書くよりアルファベットでスペイン語を書いてしまったほうが良いような気もする。 というのも、スペイン語だと nación が nacer(生まれる)と関係していて、estado が estar(状態にある、いる)と関係していることが容易に想像されるからである。 とはいえ、日本人には英語で書いたほうがわかってもらえるので英語にしたということだそうだ(訳者解説による)。 使い分けとしては、estado は昔の国家も近代国家も含む概念で、estado nacional や nación は近代の国民国家を指すということのようである。 nación を「国民」と訳している箇所もある。

ちなみに、寺田訳では、ルビを振るなどということはせず、la nación は「国」、el Estado nacional は「国民国家」、 el Estado は「国家」として訳し分けているようである。