La rebelión de las masas
たぶん大学院生の頃買って、その頃一度読んだはずなのだが、あんまり覚えていないところからみて、当時は真価がよくわからなかったのだろう。
今回「100 分 de 名著」の助けを借りつつ改めて読んでみて、意味がよくわかった。
とはいえ、もともとが新聞連載だったせいか、それほどきっちり論理的に書かれているわけではない。
同じことの繰り返しも多いし、論理の飛躍も多い。それはそれとして、言いたいことの主旨は良く伝わる文章である。
『大衆への反逆』は、大衆の危険性について論じた本である。
これは今の日本にもよく当てはまる。それは、いわゆる劇場型政治の問題である。
マスコミと大衆受けする政治こそがここで批判されているものである。
やたらと改革だとか維新だとか言いながら中身が薄っぺらなものを支持するのがここで批判されている大衆に他ならない。
最初は新聞連載だったとのことだが、批判されているのは「みんな」なので、
今の日本の新聞だと載せてくれないんじゃないかと思う。民主主義を狭い意味で取れば、これは反民主主義だからだ。
スペインが日本より寛容という訳でもなく、オルテガの言論活動はやがて袋叩きにあって、
国外亡命を余儀なくされたとのことである。Wikipedia "El Sol"によると、
連載した新聞 El Sol も、スペイン内戦の中で 1939 年には廃刊になっている。
本書の議論の帰結の一つは、政治は、修練を積んだ政治家に任せるべきだということになる。
これは議会制民主主義の考え方でもある。しかし、世の中、住民投票を絶対のように思っている人が多いところからみて、これには反対する人も多いであろう。
とはいえ、よく考えていない人とかルールに則った議論ができない人が政治をやるとおかしなことになるのは明らかである。
昔から果てしなく続いている「パターナリズムvs民主主義」の間のバランスを適切に取る問題であるとも言える。
「100 分 de 名著」の中島氏の解説は、本を初めから順番に読んでいくというよりは、概念ごとに再構成してみせるというもので、本を一緒に読んでいくと、立体的にわかるようになっている。
第1回は「大衆」、第2回は「リベラル」、第3回は「死者」
すなわち過去の遺産という形でまとめてある。第4回はオルテガ後の保守思想の紹介である。
少なくとも「100 分 de 名著」ではオルテガは保守思想家として紹介されているわけだが、読んでみるとそれほど保守的でもない。
14 章では、ヨーロッパ統一国家の建設の方向性が語られ、それこそがヨーロッパがソ連共産主義に対抗して世界に君臨する唯一の道であると
説いている。この部分は西欧中心主義でありすぎるせいか、「100 分 de 名著」では紹介されていない。
オルテガは、反共産主義ではあるが、こういう未来を語るところは保守的ではない。
ヨーロッパ統合への動きは、今では欧州連合 (EU) という形になっているけれど、今でもユーロ問題やイギリスの Brexit 問題で
いろいろごたごたしている。ヨーロッパ全体では、なかなか一体感が醸成されることはないようである。
本書で、国家が暴力的な危険物とみなされているところを読んで、以前、仙石由人が「暴力装置でもある自衛隊」と言って、
自民党議員から噛み付かれたのを思い出した。国家を暴力装置とみなすのは、日本では左翼用語なので、自民党議員が喜んで叩いたのだが、
英米的な伝統では保守の考え方である。これは、保守と呼ばれている人が、小さな政府を目指していることからもわかる。
それは、国家による干渉を危険とみなすのが、英米では伝統的な考え方だからである。
それは、米国憲法にも現れていて、憲法上、
アメリカ合衆国には常備軍としての陸軍は無いことになっているそうである。軍隊を危険とみなすのが米国の伝統である。
どっちにしても、国家を暴力装置とみなすという概念は、国家に対する伝統的なモデルの一つであって、適切な文脈で使えば有用な概念である。
以前から、「100 分 de 名著」解説の中島岳志氏がリベラル保守を自認し、保守とリベラルが対立する概念ではないと論じられていることを知ってはいたのだが、
今回改めてオルテガの解説の中で理解した。日本でも、自由民主党 Liberal Democratic Party が保守ということになっていることでもはっきりわかる通り、
もともと保守とリベラルは同じものだったはずなのだが、世界一偏った国であるアメリカ合衆国の言葉遣いが最近表面的に取り入れられて、
「保守」と「リベラル」が対立する概念であるという混乱した言説がマスコミ等で続いている。この「100分de名著」では第2回で議論されている通り、
近代的な「リベラル」は「寛容」ということで、日本人が「和」を大事にするという手垢のついた言説が本当なら、日本の伝統でもあるはずだ。
最近の自称保守の非寛容は、要するに自称保守が実は保守的ではないことを自ら暴露しているにすぎない。
翻訳について
今和訳は3種類ほど出ているようだが、どれも新しい訳ではない。私が読んだ神吉訳は、以前は角川文庫から出ていたものが、
最近ではちくま学芸文庫から出ている。神吉訳は、全体的にはそれほど読みにくいわけではないが、ときどき意味が分からないところがある。
以下、気づいた点について原文と英訳とを見ながらチェックしてみる。英訳は、ネット上に出回っているもので、翻訳者の名前は書いていない。
Wikipedia "The Revolt of the Masses"
によると、最初の英訳は 1932 年に出され、Ortega 自身によっても認められた。これは、もともと匿名らしく、ネット上にあるものはおそらくこれであろう。
さらに、「100 分 de 名著」で引用されているのは中公の寺田和夫訳らしいので、寺田訳も図書館で借りて参考にしてみた。
以下を見てみるとわかるとおり、神吉訳は原文にかなり忠実なのだが、忠実であろうとするあまり長くなって意味がとりづらくなっているところがあることがわかる。
寺田訳のほうがわかりやすいが、(意図的だと思うが)やや不正確なところもある。
寺田訳のほうがわかりやすいのは、神吉訳が 1967 年のもので、寺田訳が 1971 年のものなのだから、当然といえば当然である。
ただし、私が比較したのはきわめて部分的で、全体にわたって神吉訳と寺田訳の比較をしているわけではない。
大衆が平均人であるということ
(1. 充満の事実、角川文庫 p.9 より)
[神吉訳] 大衆とは「平均人」のことなのである。こう考えることによって、先にはまったく数量的であったもの、
つまり群衆が、質的なものにかわるのである。大衆は万人に共通な性質であり、社会においてこれといった特定の所有者を
持たぬものであり、他の人々と違わないというよりも、自己のうちに一つの普遍的な類型を繰り返すという限りにおいて人間なのである。
[寺田訳] 大衆とは《平均人》である。それゆえ、単に量的だったもの―群集―が、質的な特性をもったものに変わる。
すなわち、それは、質を共通にするものであり、社会の無宿者であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間である。
これは、寺田訳のほうが良さそうだが、それでも意味が通じないところが多い。そこで、元のスペイン語と英訳
[スペイン語] Masa es el <<hombre medio>>. De este modo se convierte lo que era meramente cantidad -la muchedumbre-
en una determinación cualitativa: es la cualidad común,
es lo mostrenco social, es el hombre en cuanto no se diferencia de otros hombres, sino que repite en sí un tipo genérico.
[英訳] The mass is the average man. In this way what was mere quantity — the multitude — is converted into
a qualitative determination: it becomes the common social quality, man as undifferentiated from other men,
but as repeating in himself a generic type.
から訳してみる。スペイン語は良く分からないので、英語の助けを大いに借りて訳してみると
(英訳には lo mostrenco social の訳が抜けているのでそれを補いつつ)、
[私訳] 大衆とは「平均人」である。このようにして、単に量に過ぎなかったもの(群衆)は、質的なある種の傾向性へと転換する。
大衆は、人々に共通の性質であり、社会的な愚者であり、他の者との区別が無く、一般的な型通りのことを自ら行う。
ということになる。determinación は「決意、決断」が普通の訳だが、英英辞典を見ると「傾向性」のような意味があるので
それを用いて訳した。lo mostrenco social の mostrenco は、西和辞典を見ると、形容詞としては「所有権者のいない」という意味があり、
神吉訳はそれを使って訳そうとしているものの、ここは名詞として使っているので、西和辞典に載っている名詞としての訳「間抜け、のろま」を素直に使うべきだと思う。
sino を神吉訳では逆接で訳しているが、ここは no ... sino (英語なら not ... but) というつながりなので、その前の「他の者と区別がない」の
言い換えである。これは英訳でも not の部分を undifferentiated のように un- にしてしまったので、よくわからなくなっている。
可能な世界に関して
(4. 生の増大、角川文庫 p.41 より)
[神吉訳] 換言すれば、われわれは、われわれが、なりうるものの最小部分にしかなれないのである。
だからこそ、世界はわれわれにとってかくも巨大なものに思えるとともに、われわれはその世界の中でかくも微小なものに思えるのである。
世界、すなわち、われわれの可能なる生は、つねにわれわれの運命、すなわち現実の生以上のものなのである。
[寺田訳] 別のことばでいえば、われわれは、なりうる可能性のあるもののほんの一部分にしかならないのである。
だからこそ、世界はわれわれにとってあんなに巨大に見え、そのなかにあるわれわれはこんなに微小に見えるのである。
世界もわれわれの可能な生も、つねに、われわれの運命やじっさいの生よりも大きい。
ここは、可能性としての世界と現実に実際に起こってしまった世界の比較である。神吉訳も寺田訳もあまり問題はない。
ただし、神吉訳では、最後に「生以上」と世界と運命の間に上下をつけているようにも読めてしまうが、そのような意味ではない。単なる大小関係である。
寺田訳は最後の文の対比のところがうまく訳せていないと思う。
[スペイン語] dicho de otra manera, llegamos a ser sólo una parte minima de lo que podemos ser.
De aquí que nos parezca el mundo una cosa tan enorme, y nosotros, dentro de él, una cosa tan menuda.
El mundo o nuestra vida posible es siempre mas que nuestro destino o vida efectiva.
[英訳] putting it another way, we become only a part of what it is possible for us to be.
Hence it is that the world seems to us something enormous, and ourselves a tiny object
within it. The world or our possible existence is always
greater than our destiny or actual existence.
[私訳] 言い換えれば、われわれは可能である世界の最小の部分にしかなれない。
であればこそ、世界は巨大に思えるのであり、我々自身はその世界の中できわめて小さなものに思えるのである。
世界、すなわちわれわれの可能な生は、運命、すなわちわれわれの現実の生よりも常に大きいのである。
われわれと世界の関係
(7. 高貴な生と凡俗な生―あるいは、努力と怠惰―、角川文庫 p.63 より)
[神吉訳] まずさしあたっていえることは、われわれは、われわれの世界がかくあれとわれわれを招くところのものであり、
われわれの魂の基本的な相貌は、型でうち抜かれてでもいるかのように、環境の輪郭にそって魂の中に刻み込まれているのだということである。
それは、生きるとは世界と接触すること以外のなにものでもないことを考えれば、当然のことである。世界がわれわれに見せている基本的な相貌は、
またわれわれの生の基本的な相貌でもあるといえよう。
[寺田訳] さしあたりわれわれは、世界にそうなりなさいといわれたとおりに、現在の姿になっているのだし、
われわれの心の主要な特徴は、まるで鋳型に入れてつくられたように、周囲の形どおりにできあがっている。それは当然のことである。
生きるとは、世界とかかわりをもつことにほかならないからである。
世界がわれわれに示す一般的様相は、われわれの生の一般的様相でもある。
ここは、全体的には世界がわれわれを形作るということを述べているところである。
最初読んだとき、神吉訳の意味がわからず、英訳を見て間違いかと思ったのだが、以下のスペイン語を見るとそうではなかった。
神吉訳は、原文の直訳としてはかなり正確であることがわかる。
単に正確を期すあまりやや長ったらしくなって意味が取りづらくなっているだけであった。
わかりやすさからいえば、寺田訳のほうが良い。
[スペイン語] Por lo pronto somos aquello que nuestro mundo nos invita a ser, y las
facciones fundamentales de nuestra alma son impresas en ella por el perfil
del contorno como por un molde. Naturalmente, vivir no es más que tratar
con el mundo. El cariz general que él nos presente será el cariz general de
nuestra vida.
[英訳] To start with, we are what our world invites us to be,
and the basic features of our soul are impressed upon it by the form of its surroundings as in a mould.
Naturally, for our life is no other than our relations with the world around.
The general aspect which it presents to us will form the general aspect of our own life.
英語を読むときに注意が必要なところがある。英語の are impressed upon it の it は、英語だけ読むと our world を指しているとも読めるが、
スペイン語は son impresas en ella と ella が女性形なので、nuestra alma (= our soul) を指しているのだとはっきりわかる。
それとともに神吉訳がスペイン語原文の直訳に近いということがわかる。
寺田訳では、最後の分の será の未来形の雰囲気を訳していない。そういったことを踏まえて簡潔に訳しなおしてみると以下の通り。
[私訳] まず、われわれのありかたは世界に導かれたものである。
われわれの魂の基本的な様相は、われわれを取り巻くものの輪郭を鋳型として魂の上に刻み付けられる。
生とは世界との関わりに他ならないということからすれば、それは自然なことである。
したがって、世界がわれわれに見せている一般的な様相は、われわれの生の一般的様相となるであろう。
思想とは
(8. 大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的にのみ干渉するのか、角川文庫 p.76 より)
[神吉訳] 思想とは真理に対する王手である。 [寺田訳も句読点と漢字以外は同じ]
これは格好良い文句なので、元のスペイン語と英訳をチェックしたくなった。すると、英訳に問題がありそうだということがわかった。
和訳は問題ない。
[スペイン語] La idea es un jaque a la verdad.
[英訳] An idea is a putting truth in checkmate.
英訳の問題点だが、先ず第一に、なぜここに a が付いているのかわからない。「真理をチェックメイトの状態に置くこと」なら a は要らないはずだ。
しかも a をつけると、truth が可算名詞で putting がそれについている形容詞のように見えてしまうので、ますます意味がわからない。
ついでに言えば最初の An もよくわからない。ここは個々の考えについて言っているのでも、考えというものはすべからくと
言っているのでもないと思うので The の方が良い気がする。まあこういった冠詞の問題は、私の英語能力不足による勘違いかもしれないけれど。
それはそれとして、はっきりわかる問題は、check ではなく checkmate になっていることだ。
王手 (check) と詰み (checkmate) では大違いである。スペイン語も王手 (jaque) であって詰み (mate) ではない。
王手ならば、「王手は追う手」という諺でもわかるとおり、多くの場合は追及の途中であって逃げられてしまうことが多い。
詰みならばゲームセットである。今の場合、真理というのはそう簡単につかまるものでもないので、なかなか詰まないものであろう。
国家と大衆
以下も、神吉訳は直訳として間違っていないが意味が通じない部分。寺田訳だと意味がわかるので、そちらを載せておくことにして、
スペイン語や英訳までは載せない。
(13. 最大の危険物=国家、角川文庫 p.130 より)
[神吉訳] 国家は、二人の人間がそのいずれもフワンという名前ではないという点でお互いに全く同じだという意味においてのみ、大衆なのである。
今日の国家と大衆は、ともに匿名であるという点においてのみ一致しているのである。
[寺田訳] 国家が大衆であるというのは、二人の男のどちらもフワンという名でないから、ふたりは同一人であるといいうるのと同じ意味でしかない。
今日の国家と大衆とは、匿名者であるという点だけで一致している。
国民国家
(14-8. 角川文庫 pp.194-195 より)
神吉訳だと「(国民)国家」と書いて「ネーション」という英語っぽくルビが振ってあるところがあって、元は何だろうと思って
スペイン語原文を見てみたら una/la nación だった。同様に「ナショナル・ステート」というルビは el Estado nacional、
「ステート」は el Estado に対応している。しかし、英語で書くよりアルファベットでスペイン語を書いてしまったほうが良いような気もする。
というのも、スペイン語だと nación が nacer(生まれる)と関係していて、estado が estar(状態にある、いる)と関係していることが容易に想像されるからである。
とはいえ、日本人には英語で書いたほうがわかってもらえるので英語にしたということだそうだ(訳者解説による)。
使い分けとしては、estado は昔の国家も近代国家も含む概念で、estado nacional や nación は近代の国民国家を指すということのようである。
nación を「国民」と訳している箇所もある。
ちなみに、寺田訳では、ルビを振るなどということはせず、la nación は「国」、el Estado nacional は「国民国家」、
el Estado は「国家」として訳し分けているようである。