明治政府の神仏分離がどのようにして廃仏毀釈につながったかを、著者が日本各地を取材して調べた成果である。
廃仏毀釈のような暴挙がどのような背景の下で起こったのかがよくわかる。廃仏毀釈は政府が命令したことではないので、
地域差があり、地域によって発生のしかたが異なった。著者は重要ないくつかの地域を回って、その違いを明らかにしている。
廃仏毀釈と上知令(寺院の土地を取り上げること)によって仏教は大打撃を受けた。
著者は浄土宗の僧侶でありながら冷静に事態を分析していて、廃仏毀釈の背景に僧侶の堕落があったことを指摘するとともに、
「一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ、規模が適正化するとともに、社会における仏教の
役割が明確化されたという「プラスの側面」」(結びにかえて, p.244) もあったと述べている。
それにしても廃仏毀釈は暴挙は暴挙であって、文化財や文化そのものが多く喪失してしまうこととなった。
維新などといったような過激な変革は、常にいろいろな問題を生むものであると痛感する。
内容のサマリー
本書の読みどころは、調査の結果わかった具体的な事例なのだが、そこは以下のサマリーにはあまり入れなかった。
第 1 章 廃仏毀釈の始まり―比叡山、水戸
- 1868 年、神仏分離令が出された。これは、廃仏毀釈を命じたものではない。
- 長らく日枝大社は比叡山の支配下にあった。そこで、神仏分離令を期に、神官は僧侶を追い出し、仏像仏具を毀した。
- 1872 年、明治政府は僧侶の肉食妻帯を許した。宗教的求心力を削ぐためであった。
- 1871 年と 1875 年の上知(あげち)令によって、政府は寺院の土地を没収した。これによって仏教は経済的に大打撃を受けた。
- 廃仏毀釈は 1876 年まで続いた。
- 江戸時代には、仏教の堕落が見られたせいもあって、4方向から仏教批判がなされた。それらは、儒学、吉田神道、国学、後期水戸学である。
- 水戸藩では、すでに第2代藩主光圀の時代に、寺院が多すぎるということで、ちゃんとしていない寺院を整理した。
- 水戸藩では、第9代藩主斉昭が本格的な仏教排斥を行った。1833 年、火葬が仏教的だということで禁止した。
- 水戸藩の廃仏毀釈の背景には、僧侶の堕落と大砲鋳造(寺院に金属を供出させる)があった。
- しかし、1844 年には、あまりの急進策のため斉昭は幕府に謹慎を命じられる。謹慎が解けた後は、水戸藩は急進派と保守派の間の泥沼の争いに突入する。
第 2 章 維新リーダー藩の明暗―薩摩、長州
- 薩摩藩の廃仏毀釈は全国で最も徹底的で、一時は寺院と僧侶が完全に無くなった。今でも鹿児島県には仏教寺院が少ない。
- 背景の一つは、藩主の合理主義で、金属の供出が一つの大きな目的であった。その金属は贋金作りにも使われた。
- 背景のもう一つは、薩摩藩では武士の権力が大きく、檀家制度があまり機能していないということもあった。つまり、寺を守ってくれる檀家があまりいなかった。
- さらに薩摩独特の郷中教育のため、寺子屋が少なく、人々は武士の命令に従順に従うことになった。
- 一方、長州藩では、寺院の整理は大規模に行われたものの、民衆による破壊行為はあまり無かった。
第 3 章 忖度による廃仏―宮崎
- 江戸時代の宮崎県は小藩が分立していた。
- 宮崎県は、薩摩の影響が強かったので、薩摩に配慮して上からの廃仏毀釈がかなり徹底的に実行された。
- 高鍋藩では、藩校の明倫堂で教えられた儒学や国学が廃仏毀釈への推進力になった。
- 佐土原藩では、1宗派に付き1寺を残すという大規模な寺院整理が行われた。
- 飫肥藩の鵜戸山仁王(にんのう)護国寺は「西の高野」とも呼ばれる大寺院だったが、鵜戸神宮になった。
- 宮崎県南部では、今でも葬式の半分が神式で行われている。
第 4 章 新政府への必死のアピール―松本、苗木
- 松本藩の廃仏毀釈は、知藩事の戸田光則が先頭に立って大規模に行われた。
- もともと戸田家は譜代なのに、逡巡の末新政府側に付いたという負い目があって、積極的に廃仏毀釈を行った。
- 大寺院の若澤寺(にゃくたくじ)は、僧侶が堕落しており、人々の怒りを買っていたこともあって、民衆による破壊も行われ、廃寺となった。
- 松本においては、真宗寺院は、佐々木了綱の激しい抵抗により残ったところも多い。
- 曹洞宗霊松寺の安達達淳も廃仏令の撤廃に向けて尽力するとともに、廃仏毀釈が収まってからは寺院の復興に心血を注いだ。
- 苗木藩においては、知藩事の遠山友禄(ともよし)が廃仏毀釈を主導した。旧幕臣で小藩だった負い目があったためと見られる。
第 5 章 閉鎖された島での狂乱―隠岐、佐渡
- 隠岐では、京都で儒学を学んだ中沼了三が廃仏毀釈の精神的リーダーとなり、激しい廃仏毀釈が行われた。
- 佐渡では、長州出身の奥平謙輔という役人が廃仏毀釈を推進した。
第 6 章 伊勢神宮と仏教の関係―伊勢
- 1869 年の明治天皇の伊勢神宮参拝を機に、廃仏毀釈が推進された。もともと伊勢は天皇が来る所ではなかった。
- 伊勢も、江戸時代までは神仏習合が行われていたが、その伝統は断絶した。それに関連して、御師(おんし)制度が廃止された。
第 7 章 新首都の神仏分離―東京
- 東京では、激しい廃仏毀釈はなかったが、神仏分離は行われ、仏教の力は削がれた。
- 増上寺はかなり小さくされた。高尾山は修験道の道場だったが、上知令により大部分が国有地となった。
第 8 章 破壊された古都―奈良、京都
- 興福寺の僧侶は、神仏分離令にたいした抵抗もせず、還俗して春日大社の神主になった。
そのため、興福寺は荒廃し、多くの文化財が散逸した。シカを保護する機運も失われ、一時絶滅の危機に瀕した。
- 京都では、1872 年、五山の送り火や、地蔵盆などが禁止され、1882 年まで続いた。
- 京都では、大参事の槇村正直が廃仏毀釈を推進した。槇村は、戊辰戦争や東京遷都で荒廃した京都の復興に尽くす一方、廃仏政策を推し進めた。
- 八坂神社も北野天満宮も、かつては神仏習合の寺院であったが、神社にされた。
- 島津製作所の島津家はもともと仏具の製造をしていたが、廃仏の時流を見て、理化学機器製造に転じた。
- 天皇家の菩提寺は泉涌寺であった。天皇の尊牌を祀るのは般舟院(はんじゅういん)であった。しかし、明治以降、天皇の葬儀は神式になり、埋葬法も土葬になり、
般舟院は消滅した。
- 天皇家は、仏教徒であった。明治天皇は、即位式を仏教式にできなかったことを後に悔やんでいる。