解説を聞いたことでわかったことは、『善の研究』は宗教書だと思ったほうが良いということだ。 『善の研究』というより、『禅の研究』である。難解な哲学書だとされているが、講師の若松氏の解説が上手なおかげか、 仏教書だと見ればいろいろ合点がいく。論理的な思索の深さがない(というよりそれを排除しようとしている)ので、哲学とは思えない。 禅寺で座禅をしていた人の思索と言われれば、それとしてわかる。大乗仏教の書だと思うと腑に落ちる。 大乗仏教的な考えにジェイムズの「純粋経験」だとかフッサールの「現象学」みたいなものを混ぜるとこんな感じになるのであろう (参考: 哲学・教養入門ブログ:西田幾多郎(2)純粋経験とは何か)。
分析的な見方を嫌い、いろんなものをぐちゃっと「ありのまま」で理解したいとする。純粋経験(主客未分化)にしても、 知識と実践の一致とか知と情の一致とか、すべてそういう感じである。 だから、読むときは、あんまり考えすぎず単なる直感だと思った方が良さそうだ。分かるのではなくて、感じるのだと思えば気楽に読めるし、宗教書っぽい感動が得られる。 いくら世の中が複雑だと言ったとしても、ものごとを分析的に考えないのなら、話はむしろ簡単である。考えるな、感じよ、といえば終わるからである。 それは禅の悟りに近いのである。 そう思ってみると、哲学者というよりむしろ詩人である若松氏が講師であるのにも合点が行く。実際、若松氏のように読んでいくと分かりやすい。 問題は頭ではなく心だと思って、宗教書のように読んでいくと、難解といわれる『善の研究』もやすやすと読めてしまうのである。
ただ、科学的に言えば、ものごとを「じかに見る」ということはありえない。たとえば、目は所詮3色のフィルターによる画像センサーなので、 そのような仕様のセンサーを使っている時点でものごとが「ありのまま」に見えるということはありえないからである。 センサーの能力以上のものが見えることはない。直接経験のようなことにあこがれるというのは、心情的には理解できても、 「直接」というのはそもそも体の構造上不可能なのである。