西田幾多郎 善の研究

著者若松 英輔
シリーズNHK 100分de名著 2019 年 10 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2019/10/01 (発売:2019/09/25)
入手電子書籍書店 honto で購入
読了2019/10/29

解説を聞いたことでわかったことは、『善の研究』は宗教書だと思ったほうが良いということだ。 『善の研究』というより、『禅の研究』である。難解な哲学書だとされているが、講師の若松氏の解説が上手なおかげか、 仏教書だと見ればいろいろ合点がいく。論理的な思索の深さがない(というよりそれを排除しようとしている)ので、哲学とは思えない。 禅寺で座禅をしていた人の思索と言われれば、それとしてわかる。大乗仏教の書だと思うと腑に落ちる。 大乗仏教的な考えにジェイムズの「純粋経験」だとかフッサールの「現象学」みたいなものを混ぜるとこんな感じになるのであろう (参考: 哲学・教養入門ブログ:西田幾多郎(2)純粋経験とは何か)。

分析的な見方を嫌い、いろんなものをぐちゃっと「ありのまま」で理解したいとする。純粋経験(主客未分化)にしても、 知識と実践の一致とか知と情の一致とか、すべてそういう感じである。 だから、読むときは、あんまり考えすぎず単なる直感だと思った方が良さそうだ。分かるのではなくて、感じるのだと思えば気楽に読めるし、宗教書っぽい感動が得られる。 いくら世の中が複雑だと言ったとしても、ものごとを分析的に考えないのなら、話はむしろ簡単である。考えるな、感じよ、といえば終わるからである。 それは禅の悟りに近いのである。 そう思ってみると、哲学者というよりむしろ詩人である若松氏が講師であるのにも合点が行く。実際、若松氏のように読んでいくと分かりやすい。 問題は頭ではなく心だと思って、宗教書のように読んでいくと、難解といわれる『善の研究』もやすやすと読めてしまうのである。

ただ、科学的に言えば、ものごとを「じかに見る」ということはありえない。たとえば、目は所詮3色のフィルターによる画像センサーなので、 そのような仕様のセンサーを使っている時点でものごとが「ありのまま」に見えるということはありえないからである。 センサーの能力以上のものが見えることはない。直接経験のようなことにあこがれるというのは、心情的には理解できても、 「直接」というのはそもそも体の構造上不可能なのである。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 生きることの「問い」

『善の研究』基本情報
明治44年 (1911 年) 刊行、西田幾多郎著
大正時代に倉田百三『愛と認識との出発』で言及されてベストセラーになった。
日本最初の哲学書とされる。
西田の哲学的態度
哲学は人生の問題だと考える。
知識においての真理と実践上の真理は一致しなければならない。
知識と情意とは一致させなければならない。
真の実在を突き止めようとする。この世の姿を明らかにしないと、人生の問題にも到達しない。
そして「純粋経験」という概念を提案する。
  • 色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない。
  • 主客が分離しない「あるがまま」の状態。
構成
  • 第1編 純粋経験
  • 第2編 実在
  • 第3編 善
  • 第4編 宗教
2→3→1→4の順序で書かれた。
本番組では4→3→2→1の順で読んでゆく。
宗教
宗教的要求は生そのものの要求。
知と愛が同一=知(ことば、理屈)と愛(理屈を超えたもの)は結びつかねばならない。
主客合一=他者と同一化するとき、愛が生じる。
西田の人生
明治3年、石川県生まれ。
西田家は没落、大学には選科生として入る。
卒業後は中学の教師となる。
禅寺で思索。
「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」
西田の哲学
西田は解決を与えていない。問いだけを残した。

第2回 「善」とは何か

哲学の目的
西田にとって、学問の目的は「いのち life」。
善と宗教
宗教とは、「大いなるはたらき」のこと。「神」は宇宙の根本。
自己が小さいことを自覚するとき、自我から自由になった「大なる自己」への道が開かれる。
宗教は大なる生命を要求することである。
大いなるものに畏怖を持って向き合う時、自己実現ができる。これが善である。
善とは、人格の実現である。自己実現とは、自己が円満なる発達を遂げることであり、利己ではなく自他の分別がなくなることである。
善とは、行為によって体現されるべきものである。
ユングは、普遍的無意識というものを考えている。これは他者とのつながりが組み込まれた無意識が人間の奥底にあるということ。西田も他者との関わりを重要視した。
人格的要求=他者の存在を尊ぶこと
善とは、普遍的無意識のために、すなわちみんなのために行うこと。
私を超えて、人類へ、あるいは宇宙へと広がる。そのような気持ちで善を考える。
善は、すでにあるものを発見していくこと。この場合の「善」は、「生きる意味」とでも言い換えた方がわかりやすい。
善とは、真の自己を知ること。すると、宇宙の本体と融合し神意と冥合する。

第3回 「純粋経験」と「実在」

純粋経験と実在
そもそも『善の研究』は、『純粋経験と実在』というタイトルで出そうと思っていた。
実在は、現実そのままで、日常の経験そのまま。
純粋経験は、言葉で表す前の経験そのもの。実在は、純粋経験を通じてのみ捉えられる。
実在は、世界の実相(世界をあらしめている働き)。
純粋経験は、思慮分別、思想、判断などを加える前の経験。純粋経験は、直接経験と同じ。主観と客観が合一している。
純粋経験は、自己の意識状態を直下(じか)に経験すること。
社会への影響
倉田百三は本書に大きな影響を受けた。経験があって個人が生まれる、という言葉に倉田は感動した。
私がどう生きるかではなく、経験の力が個人を変えていくことがある。こういう考えが若者を勇気付けた。
知的直観
知的直感は、無心の時にはたらく。芸術においてとくによく現れる。
私と対象が一体となる時、私と物との間に何も入れないで世界と向き合う時、知的直観がはたらく。
柳宗悦は、西田に影響を受けて、物そのものを見ることを重視した。思想、嗜好、習慣を入れないでものを見る。「習慣 」という意味は、昨日見たから今日は見なくて良いというような考えのこと。しかし、昨日の自分と今日の自分は違うはずだから、 「習慣」を入れずに見れば、違って見えるかもしれない。

第4回 「生」と「死」を超えて

『善の研究』後の西田幾多郎
明治43(1910)年から京都帝国大学助教授、大正2年から教授。
大正7年から14年の間に母、長男、妻を亡くす。「妻も病み子ら亦病みて我宿は夏草のみぞ生ひ繁りぬる」
昭和14年、絶対矛盾的自己同一という考えに達する。
西田の哲学の原点は「悲哀」。
絶対矛盾的自己同一
異なるものが異なるままで一つであること。
異なるものは本来不可分。大いなるものと万物は不可分。自分と他者は異なるけれども不可分。
仏教用語に「多即一」という言葉がある。
矛盾を孕んだ姿が世界の実体。
西田哲学その後
戦中は軍部に利用された。「一の多」は、国家と国民が一体というふうに読めるからだ。
戦後も西田哲学は批判される。
最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」
われわれは永遠の世界の中で生きる。
「我々の自己の根柢には、何処までも意識的自己を越えたものがあるのである。」