カント 純粋理性批判

著者西 研
シリーズNHK 100分de名著 2020 年 6 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2020/06/01(発売:2020/05/25)
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読了2020/06/28

『純粋理性批判』は読んでみようと思いつつも、なかなか手を出せない本だった。 それがここではかなりわかりやすく解説されていて、ありがたかった。

解説がわかりやすいので、カントが何をしたかったのかがわかった。一言でいえば、 自然科学(とくにニュートン力学)の基礎付けをしたかったのだ。ただ、今から見ると、科学が進歩してしまったので、 当然のことながらいろいろな議論がもはや成立しなくなっている。で、代わりにどうすればよいかというと、 たぶん今のところ答えがない(のだと思う)。カント以後、科学にはいくつかの革命が起きた。 進化論によって、人間も自然の中に位置づけざるを得なくなったので、人間vs外界のようにとらえることができなくなった。 相対論によって時空概念が変わってしまったので、時間や空間は悟性の側にあるような言い方は(たぶん)できなくなった。 量子論は自然法則の決定性を弱めた。人間の脳の理解がだいぶん深まって、感性や悟性に相当するもののごく一部は 解明されつつある。というわけなので、今カントが生きていたら、どういうふうに哲学を構築するのか興味深い。 科学を使って科学を基礎づけるみたいなことをしないといけないので、一見矛盾しているようではあるが、 カントの基礎づけは、科学の正しさを基礎づけるのではなく、人間が科学に対して合意と共通理解を得ることができることを 基礎づければよいので、脳の問題に帰着することで解決するはずである。とはいえ、科学を理解する脳の基盤など わかっているはずもないので、ある種の辻褄の合う哲学的な解を探さないといけないということになる。

テキストの最後のところで、放送では取り上げられていないが、カントの功績をまとめてあるのがわかりやすい。 とくに、自然科学と道徳の領域を両方見ながら哲学を作ったということが重要で、今となってはカントのやり方は通用しないが、 現代的なやり方を常に追求していかないといけない問題である。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 近代哲学の二大難問

「純粋理性」は、人間にもともと備わっている認識の力のこと。 『純粋理性批判』は、人間が知りうる限界がどこにあるかを吟味する本。

カントは、1724 年、ケーニヒスベルクに生まれた。若いころ、ニュートンに傾倒。 自然科学や哲学の幅広い知識を習得した。40 代後半から 10 年かけて『純粋理性批判』を書いた。 初版刊行は 1781 年(57歳の時)。

中世はキリスト教の時代だったが、自然科学が勃興してきて、自分たちが納得できるように考えるようになった。 すると、新たな問題が出てきた:

これに対して2つの立場が出た: カントは、これら2つの立場を仲裁した。

カントは、認識のしくみの解明に取り組んだ。「物自体」と「現象」とを区別した。私たちが直観するものは「現象」である。 われわれは外すことのできない眼鏡をかけている。なので、物自体を決して知ることはできない。 われわれが認識しうるのは、主観に像を結んだものだけである。

客観性というのは、他人と共有できるという意味であるととらえる。どんな人間の主観も共通規格を持っているはず。 そこでその眼鏡の共通性を調べると、客観性ということを明らかにできるはずだ。 この共通規格を「認識能力」という。この物差しとして2つの能力がある。それは「感性」と「悟性」である。 「感性」は、感覚を受け取る能力。これに対して「悟性」はものごとを判断する能力。 「感性」は目に与えられたものを受け取って、それを時空間の中に位置づけて像とする。 この際、カントによれば、時空間は現実世界にあるのではなく、感性が備えている枠組みである。 感性は、たとえば、赤い色が緑色の上にあるなどの感覚を得る。この感覚を「直観」と呼ぶ。 その後、「悟性」が直観を概念で整理する。たとえば、その受け取った直観が一輪の花だと判断する。 このように、主観のア・プリオリな枠組みが客観を作り出すという考えを出してきたことが、認識のコペルニクス的転回と称される。 ただし、本当のことを言えば、感性と悟性の境界線をどこに引くのかは難しい。

カントは、このように主観客観一致の問題を、主観の側にある認識装置に共通性があるという形で解決した。 そして、認識の枠組みがア・プリオリなものであるとした点で、経験論には与しなかった。

第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか

考える問い:なぜ自然科学や数学は誰もが共有できる知識なのか?自然科学や数学を客観的な知として基礎づけたい。

このような問いが浮上する原因はヒュームの考え方である。 ヒュームは、知識の元は感覚的印象であり、因果法則は習慣的信念にすぎないとした。 ヒュームは、イギリス経験論の流れで、人間は主観の外へは出られないとした。この考えがカントに衝撃を与えた。

カントは、主観には認識を作る際の「共通規格」があり、その意味で客観性が担保できるものとした。 カントは、悟性が用いる概念には2種類あると考えた。ア・プリオリな純粋概念とア・ポステリオリな経験概念である。 悟性にア・プリオリな概念があることこそが科学の客観性の基礎になる。

判断には3つの種類がある。分析判断、経験的総合判断、ア・プリオリな総合判断である。 ア・プリオリな総合判断の例として、(1)2つの点を結ぶ直線はただ1つ(2)2+3=5(3)因果律、などがある。 こういったア・プリオリな総合判断は、人間共通の規格である。

ア・プリオリな総合判断は、感性の空間・時間、悟性のカテゴリーという枠組みが結びつくことで作られる。 悟性には、量・質・関係・様相の4種×3=12のカテゴリーがあるものとする。

たとえば、因果律は、空間・時間(感性)と原因と結果のカテゴリー(悟性)が結びつくことで得られる。

どんな認識もすべて「私がやっていること」としてまとめるはたらきを「純粋統覚」という。

第3回 宇宙は無限か、有限か

今回は、何を知りえないのかを論じる。答えの出ない問いを問うのをやめよう。

ここで「理性」の概念が出てくる。理性は推論する能力である。しかし、これが行き過ぎると答えのない問いに行き着く。 理性は、拒むことのできない問いに悩まされる。「なぜ」を問い始めると、際限なく問いが出てくる。 これは、いわば理性の暴走である。

合理的に答えられる問いは、時間・空間の中に位置づけられる問いであり、 そこから外れる推論には答えが出ないとカントは論じる。

答えの出ない問いの例:

カントはアンチノミー(「AがBである」と「AがBでない」が同時に証明できること)を用いて、 こういった問いに答えが出ないことを示した。 たとえば、宇宙に始まりがあるかどうかを考える。 まず、宇宙に始まりがないとすると、時間というレンガを積み上げられなくなる。したがって、宇宙には始まりがある。 一方、宇宙に始まりがあるとすると、その前には時間が流れていないことになる。そうすると、どうして宇宙が出現できるのか わからなくなる。したがって、宇宙には始まりがない。これは人間の理性の限界。

カントによれば、人間の理性には2つの関心の方向がある。一つは完全性。もう一つは真理の探究。 完全性を求めたい人には宇宙の有限説が都合が良い(世界が完結するので)。 真理の探究をしたい人には宇宙の無限説が都合が良い(限りなく問い続けられるので)。

人間に自由意思はあるのか?まず、この世界には自由がないとしよう。ものごとには原因があり、それにはまた原因がある。 これをたどると最後には神のような存在があるはず。神の自由意思を認めるなら、人間にもあってよい。 一方、自由があるとすると、自然科学が成り立たなくなる。自由はあるとも言えるし、ないとも言える(詳しくは次回)。

カントは、哲学の課題を生き方の問題にシフトする(次回)。

第4回 自由と道徳を基礎づける

カントは究極の生き方を追求する哲学を目指した。実践理性がそれを司る。

「眠いから眠る」「おなかがすいたから食べる」のは因果律。これは因果律に束縛された状態。 欲望の言いなりにならないのが自由な生き方。それが道徳的に生きるということにつながる。 道徳的に生きることが自由であり、それが最高の生き方。

カントは、自分の理性的な判断に基づいて選択するときに道徳的な価値があるという。 それまではヨーロッパではキリスト教が力を持っていたが、求心力が落ちてきていた。 カントは、単に与えられた規律に従ったのでは自由ではないとして、道徳を理性の働きから基礎づけようとした。 行動が、他人の幸福につながるか、自分の成長を導くかを自分で判断する。

自由は、叡智界に属する。叡智界は、「物自体」と同様認識できない。

悪事が環境のせいである場合、罪を問えるか?犯人が現象界のみに属すると思えば、因果律に従う。 しかし、犯人を行為の主体ととらえると、叡智界に属していて、自由はある。 人間には二重性がある。感性(欲望)と理性(道徳)の両方に引き裂かれている。

相手がかわいそうになって親切にすることには道徳的価値はない。自分の感情を鎮める行為だからだ。 相手の幸福を考えて、そうすることが正しいと判断するなら道徳的価値はある。 感情に流されずに、理性で考えて判断をするべき。

道徳法則 in 『実践理性批判』:汝の意志の採用するルールが常に同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ。

カントの功績:

カントの問題点:道徳の領域が議論不可能になった。