オランダ商館長が克明に記録した日記から江戸時代の災害を読み解くというもの。
当時の日本人だと当たり前だと思って記録しないことまで記録しているから、現代日本人としては非常にありがたい記録である。
著者のクレインス氏は、ベルギー人で、オランダのハーグ国立文書館に眠っていたオランダ商館長の日記を
読み解く仕事をしておられるようである。
1章、2章、5章は火災の記録で、江戸時代の都会は本当に火災が多かったことが分かる。
とくに1章の明暦の大火は、商館長自身が被災し、記述に臨場感があるため、読んでいてもドキドキ感があって、非常に面白い。
外国人で不案内なところで災害に遭って、心細かったであろうことが読み取れる。
磯田氏の解説によれば、江戸では火災が多かったため、火災から復興する仕組みが発達し、
材木商が集まった深川では料亭文化が花開いた。
4章の長崎における群発地震の話は、そんな地震があったという話は聞いたことが無かったし、
日本の記録にはあまりないそうで、興味深かった。五島列島で大きな被害があったと書いてあることから、
福江火山群で火山性の地震があったのかとも思うが、よくわからない。
サマリー
第1章 明暦の大火を生き抜いた商館長ワーヘナール
- ワーヘナールは 1656 年 11 月に長崎オランダ商館の商館長になった(1年任期)。
- 1657 年 1 月 18 日、将軍家綱に謁見するために長崎を発って江戸に向かう。
- 2 月 16 日、江戸到着。着いた日にも江戸の東側で火災があったが、江戸の人々は火事に慣れていて気にする様子もなかった。
長崎屋(今の日本橋室町にあった)が定宿であったので、そこに滞在することになる。
- 2 月 17 日、いろいろな人が宿を訪ねてくる。夜、江戸の北側で火災があった。
- 2 月 19 日、将軍への献上品を大目付・井上政重の蔵に入れる。
- 2 月 27 日、将軍家綱に謁見、贈物献上。
- 3 月 2 日、井上政重邸(今の九段南にあった)を訪問する。午後 2 時ころ、現在の本郷5丁目あたりで出火。
火は強い北風に煽られ、南に向かって延焼。政重は消火活動に当たり、ワーヘナールは屋敷に取り残される。
ワーヘナールは、家老の食事への誘いを断り、急いで宿に戻った。荷物は防火土蔵に入れた。大事な書箪笥は、
長崎奉行・黒川与兵衛のところに運ばせた。ワーヘナールは自分が見た大火の様子をトロイの炎上になぞらえている。
それから逃げようとしたが、土蔵を持っていない人々が車長持(くるまながもち)で荷物を移動させているのが邪魔になって、
なかなか進めなかった。奉行所の役人がついていたおかげで、ワーヘナールたちは助かった。
一行は、黒川与兵衛の屋敷、平戸藩邸に行ってみるが追い返され、浅草あたりの貧民街で一夜を過ごした。ワーヘナールは、寒くて眠れなかった。
- 3 月 3 日、長崎屋の土蔵は焼けたが、書箪笥が無事であることが判明。早朝に小石川付近で出火、午後に麹町から出火、
前日の火災と合わせて、江戸の中心部はほとんどが焼け野原になった。江戸城も西ノ丸以外は焼け落ち、江戸城でも多くの犠牲者が出た。
ワーヘナールたちは東浅草で宿泊できるところを見つけた。日本人の従者のうち長兵衛という料理人が、はぐれて亡くなっていたことが分かった。
- 3 月 4 日、火が消えたので、ワーヘナールたちは長崎屋の焼け跡を見に行ったが、丸焼けで何も残っていなかった。
町には死体が散乱していた。とくに老人や子供の死体が多かった。浅草門では、番人が囚人が逃げてきたと勘違いをして門を閉じたので、
とくに多くの人が死んでいた。
- 3 月 5 日、長崎屋の宿泊料を払うとともに、再建のために銀や織物などを渡す。将軍家綱から食糧が与えられる。
- 3 月 6 日、幕府が行っていた粥施行を目にする。
- 3 月 7--8 日、暴風雨のため、動けず。
- 3 月 9 日、江戸を出発。途中、江戸城を通り、門や櫓が崩れているのを目にする。
- 4 月 7 日、長崎に戻る。
第2章 商館長ブヘリヨンがもたらした消火ポンプ
- ブへリヨンは、1657 年 10 月、ワーヘナールの後任として2度目の長崎オランダ商館の商館長になった。
- 大目付・井上政重が数年前にオランダ製の消火ポンプを1基注文しており、それがブヘリヨンの着任とともに日本に届けられた。
- 12 月 30 日、消火ポンプを携えて江戸に向けて出発。
- 1658 年 2 月 5 日、江戸到着。
- 助手のデ・ローイが、政重の前で消火ポンプの使い方を実演し、政重は満足した。
- 2 月 12 日、火災が発生し、泊っていた長崎屋がまた焼けた。土蔵は無事で荷物は助かった。ブヘリヨン一行は浅草に逃れ、
前年ワーヘナール一行が世話になった民家に泊まらせてもらった。
- 2 月 17 日、ブヘリヨンは将軍家綱に謁見。
- 3 月 6 日、江戸を出発。4 月 16 日、長崎に戻る。
- 明治時代まで日本で使われた消火ポンプの絵図を見ると、ブヘリヨンが持ってきた消火ポンプに似ている。
オランダでは、その後消化ホースが発明されたが、これは結局日本に伝わらなかったようである。
第3章 商館長タントが見た元禄地震
- 1703 年 10 月 30 日、ヒデオン・タントが長崎・出島オランダ商館長に就任。
- 12 月 8 日、唐人屋敷で火災。出島までは延焼せず。
- 担当通詞は横山又次右衛門だったが、神経質なタントとはうまが合わなかった。
- 12 月 31 日未明、元禄地震が相模トラフを震源として発生する。
- 1704 年 1 月 15 日、タントは、江戸から地震と火災の知らせを受ける。翌日以降も惨状が伝わり、江戸の半分以上が崩壊していることが分かる。
- 長崎奉行・永井直允(なおちか)の江戸屋敷も倒壊。新任の長崎奉行・石尾氏信は長崎に来られなくなる。
石尾氏信は 2 月末に長崎に到着し、入れ替わって永井直允は江戸に向かう。
- 2 月 19 日、タントは、将軍・綱吉に謁見するため、江戸に向けて出発。
- 3 月 28 日、箱根峠。ここで地震による家屋の焼失と倒壊を初めて目にする。人々は簡易な仮説家屋に住んでいる。
土砂崩れが起きていた場所では迂回路を通る必要があった。
- いつも宿泊している小田原が壊滅状態だったので、大磯まで進む。3 月 29 日、壊滅状態の街道を進んで、
比較的被害の少なかった神奈川で一夜を過ごす。
- 3 月 30 日、江戸に入る。江戸は地震と火災でひどい状態だったが、熱心に復興工事が行われていた。
定宿の長崎屋に入る。建物は損壊していたが、倒壊には至っていなかった。
- 4 月 1 日早朝、比較的大きな地震が起こる。
- 4 月 2 日、将軍・綱吉に謁見。江戸城の被害を見る。通常通る橋と門が潰れていたので、ふだんと違う経路を通る。
大手門からは通常通りの経路になる。石垣や大名屋敷で壊れているものも多かったが、本丸御殿は丈夫に造られていたらしく、
建物に損傷はなかった。
- 4 月 3 日、京都町奉行・安藤次行、作事奉行・小幡重厚の屋敷を訪問。
- 4 月 4 日、長崎奉行の佐久間信就と石尾氏信の屋敷を訪問。江戸の街で焼け野原になっているなっている場所を通る。
- 4 月 5 日、この日で幕府高官への訪問が完了。夕方、長崎屋の近くで火事が起こったが、長崎屋までは延焼しなかった。
- 4 月 8 日、二度目の登城で、綱吉からの返礼品を受領。真夜中の地震で眠れず。
- 4 月 14 日、江戸出発、5 月 15 日、出島到着。
- 5 月 27 日、能代地震が起こる。7 月にタントはその情報を受け取る。
- 1707 年 10 月、ヘルマーヌス・メンシングが商館長に着任。
- 10 月 21 日、長崎で地震と津波 (28 日の宝永地震のことか別の地震のことか不明)。
- 10 月 28 日、宝永地震。11 月 29 日の日記に、大阪で津波によって大きな被害があったことが記されている。
- 1708 年 2 月 6 日、長崎を出発。道中の地震の被害の記述はそれほど詳しくない。メンシングはそれほど地震に関心がなかったようだ。
3 月 13 日、江戸到着。
第4章 商館長ハルトヒと肥前長崎地震
- 1725 年 10 月、ヨアン・デ・ハルトヒが商館長に就任。彼は、多くの地震を経験した。群発地震だろうか。
- 10 月 31 日、長崎で大きな地震を感じる。その後も弱い地震が続く。
- 11 月 10 日、再び大きな地震。食糧倉庫の壁が倒壊。12 日から 15 日まで揺れが続く。さらに 18 日以降も地震が続く。
- 11 月 25 日早朝、再び強い地震。寝室も傾いた。五島では大きな被害があったが、大村ではほとんど揺れを感じていないという情報あり。
その後も地震活動が続くが、弱まっていく。
- 12 月 14 日、再び強い地震。さらに雷雨。
- 12 月 19 日、再び強い地震。翌日、大火事。出島は延焼せず。その後1週間、雪や雹が続く。
- 12 月 27 日、強い地震が3回起こる。29 日、30 日にも地震。
- 1726 年 1 月 12 日、13 日、強い地震が発生。ハルトヒらオランダ人は、建物に戻らず、庭でテント生活をすることを決意。
以後も地震が断続的に続く。
- 2 月、引き続く地震で、倉庫「ドールン」の屋根が落ち正面の壁が崩れた。
- 2 月 22 日、長崎を発って江戸に向かう。3 月 27 日、江戸到着。
- 3 月 31 日、将軍・吉宗に謁見。
- 4 月 11 日に江戸を発ち、5 月 13 日に長崎に戻る。長崎にいたオランダ人は、3 月 24 日にテント生活をやめ、住居に戻っていた。
- 江戸から帰った後は地震は減っており、10 月に日本を去るまでに経験した地震は 10 回に満たないようだ。
第5章 商館長ファン・レーデが記した京都天明の火災
- ヨーハン・フレデリック・バロン・ファン・レーデ・トット・デ・パルケレールはオランダの地方貴族の次男だった。
- 1785 年 11 月、1回目の長崎オランダ商館長就任。
- 1786 年 4 月、将軍・家治に謁見。道中と江戸滞在中、多くの火事や地震が起こったことを記録している。
- 10 月、家治が亡くなり、家斉が将軍となる。11 月、ファン・レーデが日本を去る。
- 1787 年、2回目の商館長就任。
- 1788 年 2 月 21 日、将軍・家斉に謁見するため、長崎を出発。
- 兵庫に着いたとき、3 月 7 日、京都で大火があったという知らせが入る。鴨川の東側から始まり、東風と南東の風に乗って、
御所から東寺まで京都の街が丸焼けになった。
- 3 月 11 日、兵庫を発ち、大阪に到着。光格天皇が聖護院に避難したと聞く。京都の民衆が困窮していると聞く。
- 3 月 13 日、京都の定宿・海老屋の主人の村上文蔵が大坂に来る。文蔵は、一行のために伏見に家を借りる。
3 月 16 日、大阪を発ち、伏見に到着。
- 3 月 18 日、伏見を発ち、4 月 3 日、江戸に到着。江戸滞在中、毎日のように火事が起こったことが記されている。
- 4 月 14 日、将軍・家斉に謁見。
- 4 月 26 日、江戸を発ち、5 月 11 日、京都に到着。村上文蔵が、東山の安養寺に泊まれるように手配してくれていた。
安養寺の展望台からは、京都を一望でき、新しい住居がたくさん再建されているのを見て驚いた。火災の死者は千人程度という情報を得た。
- 5 月 16 日、京都を発ち、翌 17 日、大坂到着。大坂では、光格天皇からのオランダ語の金言を書いてほしいという依頼状を受けた。
- 6 月 5 日、長崎に戻る。11 月、日本を去る。
第6章 島原大変肥後迷惑―商館長シャセーの記録
- 1789 年 9 月から 1790 年 6 月、長崎で地震活動が続く。
- 1790 年、ペトルス・テオドルス・シャセーが商館長に就任。
- 1791 年 7 月 28 日、30 日、8 月 21 日に地震が起こる。
- 1792 年 2 月、大通詞・中山作三郎から雲仙・普賢岳が噴火していると聞く。
- 4 月 21, 23--26, 28 日、島原の「三月朔地震」とそれに引き続く地震が長崎でも感じられる。
出島を囲む壁が倒壊。雲仙から噴火の情報が届く。
- 5 月初め、ふたたび強い地震。
- 5 月 23 日、島原から書状が届き、21 日に前山(眉山)の山体崩壊と津波が起きたことを知る。
- 5 月 24 日、ふたたび強い地震。25 日、天草と肥後の被害状況も伝わる。
- 6 月 11 日、犠牲者が合計約 10 万人と伝わる(死者数の現在の推定値は 1 万 5 千人)。
- 6 月 21 日、島原藩主・松平忠恕が亡くなったとの報が届く。
- 10 月 13 日、日本を去る。
商館外科医のアンブロシウス・ケラーによる「日本の島原における最近の地震に関する報告」も
ハーグ国立文書館に残っている。ケラーが収集した噴火の経過は以下の通り。
- 1792 年 2 月 10 日、普賢岳山頂火口が開いた。27 日、普賢岳が噴火して溶岩が麓まで流れた。
- 4 月 21 日、大地震が起こった。島原の人々は避難をした。
- 5 月 20 日、正午ごろ、長く続く地震が発生。前山(眉山)が山体崩壊。大津波が起きて、島原の町が壊滅。
海に流れ込んだ土砂や瓦礫で船が通れなくなる。被害者数は、死者 5 万 3 千人、負傷者 20 万人。