自家製 文章読本

著者井上ひさし
シリーズ新潮文庫
発行所新潮社
電子書籍
電子書籍刊行2013/12/06
電子書籍底本刊行1987/04(新潮文庫)、刷:2011/09(第20刷)
文庫底本刊行1984/04/01(新潮社)
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読了2022/05/15

本書は、それほど体系的な本ではなく、著者が思いつくままに書いたという書きぶりである。各項は、 過去に言われていること、たとえば過去の文章読本の類に書かれていることを引用してきて、 それを批判的に検討するというところから始まっている。しかし、各項には明確な結論が無い場合が多い。 本書の最後の結論は、以下のようなものである。文章には伝達用のものと表現用のものがある。 伝達用の文章術はいくらでも書けるしすでに多くの本があるが、表現用の文章術は自力で修行するしかない。 というわけで、表現用(小説とか詞とか)のための文章読本は、結局自分用のメモに過ぎない、 というのが著者の結論である。

そういう結論なら最初からそう書いてくれれば良いのにとも思う。 本書は、小説のようなものの書き方は、分析しようとしても結局まとまらない、という様子を見せてくれたもの、 と理解すべきなのだろう。過去の文章読本も結局そういうところで失敗することが多いのかもしれない。 しかし、本書を読んでみると、過去のいわゆる文豪という人々が、それ以前の問題として、 文章術に関してあまり客観的ではなかったことがわかる。

私が以前好きだった文章読本に丸谷才一のものがあるが、それが 1977 年で、これも過去の文章読本に批判的だった。 この井上本でも丸谷のは高く評価している。つまるところ、1980 年くらいになって、ようやくまともな文章読本が 現れてきたということだ。で、その後は、文豪で文章読本を書いた人はあまりいないように思うから、井上のように 文章読本はどうせうまくいかないとあきらめてしまったのだろうか。 文章術について自覚的で、理屈っぽく小説を書く人がいてもいいように思うが、小説家にはそんな人は少ないということであろうか。

以下、個々の項に関する感想。

「文間の問題」の話は、英語と対比すると面白くなると思う。科学論文を読んだり書いたりするとすぐにわかるが、 日本語に比べて英語には接続語が少ない。英語は接続語ではなくて、動詞で論理をつなぐことが多いからである。 日本語は動詞で論理はつなげないので、接続語を使うか、前に出てきた語句を拾って論理をつなぐ。

「オノマトペ」の項では、「日本語の動詞は弱い」ということが書かれているが、これも英語と対比するとよくわかる。 英語は、動詞の数が多くて、動詞の中にオノマトペが入っているような感じである。たとえば、shine は「光る」だが、 glare, shimmer になると「ギラギラ光る」とか「ちらちら光る」とかオノマトペ付きで訳さざるを得なくなってしまう。 ただし、科学論文などの客観的な文章では、日本語ではオノマトペをほとんど使わないのと同様、glare, shimmer などは 英語科学論文ではあまり使われない。

内容のサマリー

滑稽な冒険へ旅立つ前に
文章は、過去の古典に基づき、未来へと引き継がれてゆくものである。
ことばの列
生命の躍動が「文体」を作り上げる。
話すように書くな
「話すように書け」と長いこと言われてきたが、話し言葉と書き言葉は明らかに異なる。
透明文章の怪
「文章を感じさせずに内容が伝わる」のが名文だとしている人が多いが、文章の不透明さには読者に関心を持たせる役割がある。
文章にレトリックは欠かせない。志賀直哉の文章が反修辞的な名文とされることがあるが、志賀の文章はよく読むと修辞法に溢れている。
文間の問題
文間とは、文と文とのつなぎ方のことである。
接続語を使わずに、文の間の余白を広くすると、叙事性や物語性が出てくる。
接続語を多用すると、文章がなめらかにつながって、思考の展開がはっきりする。 接続語ではなくて、前に出てきた語句を拾う形でつなぐやりかたもある。 一方で、このように文の間の余白を狭くしてしまうと、読者が余白を埋める楽しみは減る。
オノマトペ
ここでいうオノマトペは、擬声語に限らず、擬態語、感覚語なども含むことにする。
オノマトペを蔑視する向きもあるが、日本文学史には目白押しだし、日本語の動詞は弱いので、 修飾語を用いずに動詞だけで済ますわけにはいかない。オノマトペは具体性や感覚性を与える。
日本語の動詞の弱さを補う方法には、「動詞連用形+動詞」の複合動詞もある。 たとえば、「思い遣る」とか「吹き荒れる」などである。
踊る文章
現代日本語では、文末に同じ音が続きやすい。動詞の終止形は u で終わるし、過去形は「た」で終わる。 単調と言えば単調なのだが、志賀直哉は川端康成などは「た」の連続で上手にリズムを作っている。
関連して、斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」は、 第1句、第2句を a の母音で固めることで自然の雄大性を表し、第4句を u の母音で固めることで唸る自然を表現している。
冒頭と結尾
実用文は定型的で、とくに冒頭の書き方が決まっていることが多い。それに対して、鑑賞用の文章は自由度が高い。
文章が読み手の記憶にどう作用するかを考えていくと興味深い。
市川孝は、文章の冒頭を9つに分類している。そう思っていろいろな作家の作品の冒頭を読んでみると、 作家によって好きなタイプの書き出しがあることがわかる。
和臭と漢臭
日本語にはどうしても漢文訓読調が混じる。とくに公の色が濃くなると漢文訓読調が強くなる。
日本語から漢字を追放するわけにはいかない。日本語は音節数が少ないので、どうしても同音異義語が多くなり、 それらを区別するのに漢字が必要である。
文章の燃料
文章にはともかくも中心思想が必要で、語り口や形式はその次である。
形式で言えば、ヨーロッパにはコクラスの五分法というのが昔からある。序論/叙述/論述/補説/結語の5つである。
形式と流儀
文体なんて気にするなという人もいれば、天才の文章のみが文体と言いうるという人もいる。
著者は4つの仕切りを考えた (1) 文章形式=文章の外見上の特徴 (2) 文章流儀=書き手の個性の現れ (3) 文章成果=文学上の最上の成果 (4) 文章様式=言語共同体の手本となるような文体。
表現が難しいものを表現する技術が比喩である。
読むことと書くこと
言語の目的は伝達と表現である。表現の文章を書こうという人は、自分用の文章読本を作るのがよい。