戸谷氏は、難解で知られる『存在と時間』に関して、存在論の方は放っておいて、「世人(せじん)」や「良心の呼び声」に
的を絞ることで、人間の生き方論として読むことで、わかりやすく解説している。
テーマを一言でいえば「みんなに流されず、自らの良心に耳を傾けて生きる生き方の勧め」である。
最終回を、ハイデガーのナチスへの加担を論じることに充てているのも好ましいと思う。
存在論の方は、ハイデガー本人でさえまとまらずに未完にしてしまった問題なので、少なくとも入門者向き解説では
排除するというのは正解であるように思える。現象学的なやり方が(私はよく理解していないとはいえ)今の時代に
意味があるかどうかさえ疑問である。
ハイデガーが面白いなと思うのは、無神論的な体裁を取りつつ、良心を持ち出すところが、
キリスト教っぽいなということである。ここの解説を読んでみての感想は、彼のナチスへの加担も、
根っからのキリスト教徒だったハイデガーが、表面的にキリスト教の装いを捨てたことに問題があったように思える。
つまり、彼にとって唯一の対話の相手だった神を捨てると、彼には孤立しか残らなくなったのではあるまいか。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 「存在」とは何か
今回の番組では、キーワードは「責任」。『存在と時間』はその問題を考える手掛かりになる。
一方で、ハイデガーは、ナチスに加担したことでも知られる「反面教師」でもある。
ハイデガーは、ナチ党に入党していた。
ハイデガーの前半生
- 1889 年、南ドイツのメスキルヒで生まれる。
- 1909 年、フライブルク大学に入学。当初はキリスト教神学を専攻していたが、哲学部に編入。
- 1923 年、マールブルク大学哲学部で員外教授となる。
- 1927 年、『存在と時間』刊行。上下二巻の予定だったが、とりあえず上巻を単行本として出版。下巻は結局出なかった。
- 1928 年、フライブルク大学哲学部教授に就任。
『存在と時間』の問題提起
- それ以前の哲学で語られていた「存在」は問題の立て方が悪い。「存在」はあらゆる学問の基礎なのに。
- ハイデガー以前の「存在」は「いま、この瞬間にモノが目の前にある」ということだった。
しかし、人間を考えてみると、現在以外の時間とつながっている。「いま、この瞬間」だけではない。
あるいは、縄文時代の土器を考えてみると、たしかに目の前にあるが、そこから縄文時代の情報も読み出せる。
- ハイデガーは「存在しているもの(Seiend)」と「存在そのもの(Sein)」を区別する。
「○○」があるのうちで、「存在そのもの」は「がある」の方で、「存在しているもの」は「○○」の方である。
これまでの哲学では「存在しているもの」にばかり注目していた。
- ハイデガーは人間を手掛かりに「存在」を考えた。人間は、存在の意味を問うことのできる存在者である。
そのような存在者(すなわち人間)を「現存在(Dasein)」と呼ぶことにする。
- 現存在は、自分自身の存在を理解している。そこから、では人間はどうやって自分を理解しているのか、
という問いが浮上してくる。
- 理解するということは、必ずしも言葉で説明できるという意味ではない。たとえば、スキップの動作を
普通の人は説明できないが、スキップを実行することは出来る。このことも、理解しているうちに入れよう。
- さらに、人間には、絶好調なときも機嫌が悪い時もある。人間には多様な様態がある。
- 現存在は、2つの可能性で自己を理解している。(1) 本来性、これは自分らしさに従って自分を理解していること
(2) 非本来性、これは世間の尺度に従って自分を理解していること。
- すべての人間は、日常においては非本来性である。
- ハイデガーは、現存在をありのままに理解しようとした。
- Sein(存在)は、語源的には「何かの傍らにとどまるもの」。人間が存在するということは、何かの傍らに生きているということ。
- ハイデガーは、日常性を重んじる。周囲の環境(世界)を含めて理解すべき。そこで、現存在を「世界内存在」と呼んだ。
「世界」とは、暮らしの場のこと。世界を認識している人間も世界の中にいることを無視してはいけない。
第2回 「不安」からの逃避
世人(せじん)
- 世人 (das Man) とは、世間とか空気のようなもの。
- ハイデガーは、世人という概念から無責任や同調圧力を分析してゆく。
- 世人は、「誰でもないひと」「みんな」。人は、「みんな」がこうしている、「みんな」が正しいと思っていることに従ってしまう。
- 日常的には、人間は空気を読んで、世人にしたがって生きている。世人が日常性の存在様式を定めている。
- 自分だけは空気に呑み込まれていないと思っている「自由人」ほど、深く世人に呑み込まれている。
- 世人に呑み込まれた生き方を「頽落(たいらく)Verfallen」という。頽落した人間の特徴は「世間話」「好奇心」「曖昧さ」。
ここでの「好奇心」は、世間の論調に合わせて次々と関心が移り変わる落ち着きのない様子。「曖昧さ」は「世間では
こういうのが流行ってるみたいだよ、知らんけど」みたいな、よくわからない考えのこと。
- ハイデガーは頽落が悪いと言っているのではなくて、人間はそういうものだと言っている。人間は日常において非本来的。
- 世人が悪い方に働くと、責任の不在になる。典型的な例がいじめ。みんなと一緒になってやるので、
責任は「みんな」にあるという無責任がそこにある。
- 無責任の究極の例が、アドルフ・アイヒマン。アイヒマンは自身の無罪を主張。責任はナチスにあると言った。
- SNS でも特定の個人に誹謗中傷を浴びせる炎上騒ぎがよく起こる。SNS は匿名性が高いせいで、さらに無責任になっている。
- 人が世人に呑み込まれる理由は、世人に同調していると安心できるから。現存在は周囲に呑み込まれることによって、本来的な自己から逃走している。
- 安心できると言っても、世人に合わせるためには努力が必要になるから、本当に安らぎが得られるわけではない。
- 恐怖には明確な対象がある。不安には明確な対象がない。だから、不安を払拭することは出来ない。
- では、ハイデガーは何を安らぎととらえるのか?ハイデガーならどう言うか考えてみると、不安の中に踏みとどまることができることではないか。
- 不安の源泉は、自分がこの世に生きていること自体(世界内存在であること)。そうした不安から目をそらすために、
人間は世人に身をゆだねて不安を忘れようとする。
第3回 「本来性」を取り戻す
死
- 「誰も他人から、その人が死ぬことを引き受けてやることはできない。」
- 死こそが、現存在にとって最も固有な可能性。したがって、自分独自の責任を引き受ける生き方は、死を通じてこそ見つけられる。
- 死に向き合うと、世人にとらわれなくてよくなる。ハイデガーは、死の可能性に直面することを「先駆」と呼んだ。
私たちは常に死の可能性にさらされている。「先駆」は常に足元にある。
- 死と向き合うためには?そのカギが「良心の呼び声」。
良心の呼び声 (Ruf)
- 別の生き方もできるのではないかと気付かせてくれるのが「良心の呼び声」。ただし、良心は具体的なやり方を教えてくれるわけではない。
- 良心は常に発せられている。敢えて耳を傾けることで呼び声を聞くことができる。ハイデガーは、良心の呼び声を聴こうとする態度を「決意性」と呼んでいる。
- 自分の生き方を描き出すことを「投企」と呼ぶ。良心の負い目を引き受けて、正解がないことに耐えながら、自分を投企することが、「決意性」。
- 「決意性 Entschlossenheit」には「鎖を断ち切る、鎖から解放される」という意味合いがある。
- 先駆を意味あるものにするためには決意性が必要。→先駆的決意性=自分の人生を引き受ける。
- これからの人生に向けて過去の負い目を引き受ける。人間は過去と未来の連関の中で今を生きる。
存在
本来は、存在とは何かという問いに答えるはずだったが、『存在と時間』はそれを匂わせるところで終わってしまう。
ハイデガーの偉大な点は、未完成の著作でその後の哲学の方向を決めたこと。
第4回 『存在と時間』を超えて
ハイデガーのナチスへの加担
- 第1次世界大戦後、ドイツは政治的にも経済的にも混乱した。
- 1920 年代半ば、ドイツは一時期安定し、1926 年には国際連盟に加盟。しかし、1929 年、世界恐慌が起こってドイツ経済は再び破綻した。
- 1933 年、ナチス政権成立。ハイデガーはナチ党に入党。
- フライブルグ大学総長就任演説において、ハイデガーは、全ドイツ学生がドイツの命運を引き受けよと述べている。これは学問の自由に反する。
ハイデガーは、ドイツへの勤労奉仕、国防奉仕が義務だと言っている。
- ハイデガーの最終目的は、ナチスの拡大ではない。学問の本質を創造するために、国家の命運の中に自分自身を見出すべきだとした。
- ハイデガーの教育政策は、大学からもナチ党からも疎まれるようになった。1年でフライブルグ総長を辞任した。
- 1945 年、ドイツが無条件降伏、ハイデガーは教職から追放される。
- 1976 年、死去。
- ハイデガーは、ナチスへの加担に対して、生涯、一切弁明も謝罪もしなかった。
- 戦後、ハイデガーとナチスの関係を検証したり報告したりする本が数多く出て、ハイデガーが少なくともナチスを利用しようとしていたことが明らかになった。
ハイデガー哲学とナチスへの加担との関係
- ハンナ・アーレントは、マールブルグ大学におけるハイデガーの弟子。1941 年、アメリカに亡命。1951 年、『全体主義の起源』。
- アーレントは『存在と時間』における他者との関係を批判。ハイデガーが、すべての他者を「世人」と一括りにしたことを問題にした。
その結果、仲間までもが「私」を堕落させる人になる。そこで、『存在と時間』の自己は、孤立している。
一人ぼっちになった個人には全体主義の危険性が忍び寄る。ハイデガーは、全体主義に対して脆弱だった。
- アーレントは、人間の複数性の重要性を指摘。人間は、それぞれ違った存在。それが全体主義に抗う基礎になる。
- アーレントは、共通感覚(コモンセンス)を重視した。ハイデガーが孤独の中で自分らしさを磨く必要性を訴えたのに対して、
アーレントは、他者との対話の中で自分が何者かがわかることもあると考えた。共通感覚に基づいて他者とのつながりを営むことが
人間のリアリティーを形作る。
- ハンス・ヨナスは、生命倫理・環境倫理の論客。ヨナスのハイデガーに対する失望は深かった。
- ヨナスが注目したのは、ハイデガーの「決意性」。決断すること自体が徳になっていた。良心の呼び声は、
何を決意すべきかは教えてくれない。間違った決断をしても、良心はそれを止めてくれない。
- ハイデガーは決意性を重視したあまり、ヒトラーとナチスに呑み込まれてしまった。
- ハイデガーが自分の人生に責任を負うべきだと強調したのに対して、ヨナスによれば、責任とは他者の生命を守ること、
他者の傷つきやすさを気遣うこと。責任概念のモデルは、子供への責任。ヨナスは、未来への責任を強く主張した。
『存在と時間』に欠けていること
ハイデガーは、本来性を取り戻した現存在がどのように他者と関わるべきかを明らかにすべきだった。