太平記

著者安田 登
シリーズNHK 100分de名著 2022 年 7 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2022/07/01(発売:2022/06/25)
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読了2022/07/26

『太平記』は鎌倉幕府の滅亡から南北朝の統一までの無茶苦茶な時代を描いた軍記物語である。 岩波文庫で全6巻と分厚いので、とても通読できそうな気がしないが、 テキストで引用されている部分の和漢混淆の美文調を読んでみると、 いずれの日かちゃんと読んでみたい気になった。

足利尊氏が「弱いリーダー」ということで解説されている。弱いけれど、人望も運もある。 でも確固たるポリシーはなさそう。とすると、今でいえば、安倍元首相みたいなものか? 何をしたいのかよくわからないけど、周囲の人からは人望がある。名門の武家に生まれて、 それなりのカリスマ性もある。天皇の権威は借りるけど、それほど天皇を大事にしているわけでもない。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 「あわいの時代」を生きる

『太平記』基本情報

今日は第一部。主要登場人物は、北条高時、後醍醐天皇、楠正成、新田義貞、足利高氏。 北条高時はダメ人間として描かれている。楠木正成は、優れた人として描かれている。

国家安泰の鍵は「天の徳」と「地の道」。「天の徳」は、君主の徳。「地の道」は、臣下の道。 両方合わせて「道徳」。君主と臣下が手を携えてはじめてうまくいく。

下敷きになっているのは儒教。『論語』にも、君主は何もせずじっとしていることが大事で、 臣下はそれに自然に従うのが良い、という意味のことが書いてある。

「あわい」の時代

「あわい」は2つのものが重なっているところ。

後醍醐天皇と楠木正成~北条氏の滅亡

後醍醐天皇が学んだ宋学(朱子学)には、一人の王のもとに国家は統一されるべきだという考えがあった。 後醍醐天皇は天皇親政を目指して討幕を企てたが、二度失敗。笠置山に逃れた天皇が見た夢では、大きな常緑樹の下に 帝のための席が用意されていた。樹は南に枝を延ばしていた。これは楠を指すと見て、後醍醐天皇は楠木正成を呼び寄せた。 楠木正成は、計略や奇策で幕府軍を翻弄した。楠木正成は、出自のわからない武士(「悪党」と呼ばれる)。 中国の三国志の時代に書かれた『人物志』には、「三流」以上の人(3つ以上の専門がある人)に国を 任せよと書いてある。楠木正成もそういう才能に溢れる人である。

新田義貞と足利高氏も、北条氏に不満を持ち、天皇側に付く。幕府は劣勢となる。 足利高氏は、六波羅探題を攻略する。新田義貞は鎌倉に攻め込み、幕府を倒す。北条一族は自決した。

高氏は格好の良い英雄ではない。高氏も正成も後醍醐天皇も「弱い」人。高氏の弱さが次の時代を作っていく。

第2回 時代を読み切れないリーダーたち

建武の新政~南北朝対立の始まり

北条氏滅亡後、武士たちは恩賞として土地が与えられると期待していたが、 土地は後醍醐天皇とその側室、息子や公家で分けられた。 後醍醐天皇は、遊興に耽った上、政策は不安定だった。

足利高氏が台頭してくる。一方、大塔宮護良親王が征夷大将軍になる。 しかし、大塔宮も遊蕩三昧でその部下は狼藉三昧。 高氏は、大塔宮が帝位を奪おうとしていると後醍醐天皇に告げる。 その結果、大塔宮は幽閉される。大塔宮の身を預かったのは足利直義であった。 北条家の残党が鎌倉に攻めてくる(中先代の乱)。それに乗じて、直義が大塔宮を殺害した。

後醍醐天皇は、高氏に乱を鎮圧せよと命じる。そのとき、高氏は、 自分を征夷大将軍にすることと関東の支配権を求めた。 後醍醐天皇は、関東の支配権を認め、高氏に尊氏と名乗らせる。 尊氏は乱を鎮圧し、正式な勅命が出る前に征夷大将軍を自ら名乗る。 さらに、新田氏の所領を没収し、自分の臣下に分け与えた。 新田義貞は激怒し、尊氏と義貞の双方が後醍醐天皇に相手の非を訴える。 そんな中で大塔宮が直義に殺害されたことが明らかになり、後醍醐天皇は尊氏を朝敵とした。

朝敵とされた尊氏は出家しようとするが、弟の直義に止められる。 尊氏は、京で新田義貞・楠木正成と戦う。が、楠木正成の奇策にはまって敗走、九州に落ちる。 尊氏は、多々良浜で天皇方の大軍を前にして切腹しそうになる。直義がこれを諫め、 戦いを始めると、勝ってしまう。新田義貞も追い討ちをかけなかった。 絶世の美女の勾当内侍(こうたうのないし)との別れが惜しかったせいで、義貞は九州行きを遅らせたとされる。 その間、尊氏は九州をまとめて、京に攻め上る。

リーダーとしての尊氏

尊氏が勝った理由は、(1) 直義のイケイケ (2) 尊氏の「弱さ」 (3) もう一つの皇統から院宣をもらったこと。 尊氏は、時代に流されるままに動き、うまく時流を捕えた。光厳上皇から新田義貞を討てという院宣をもらった。 強いリーダーだと衝突が起こる。強いリーダーではいけない。

尊氏の時代は、裏切りがそれほど悪いと思われていない。裏切りは「返り忠」と言われた。

第3回 異界が映す時代のエネルギー

楠木正成の敗死~後醍醐天皇崩御

足利尊氏は京へ攻め上る。そこで、後醍醐天皇は新田義貞を助けに行くよう楠木正成に命ずる。 楠木正成は畿内全域を舞台にしたゲリラ戦術を提案するが、後醍醐側近の公家・坊門宰相清忠に反対される。 正成は覚悟を決めて、出陣する。正成は、後醍醐天皇の時代が終わったと悟り、時代のために命を投げ出したのではないか。 正成は湊川の戦いで敗れ、弟正季と刺し違えて自決した。

後醍醐天皇は、足利尊氏と和睦。光明天皇が即位し、室町幕府が誕生。 後醍醐天皇は、吉野に逃れ南朝を開く。南北朝時代が始まる。 その3年後、後醍醐天皇が崩御。後醍醐天皇は死に際して、尊氏一門の滅亡を願い、 魂は京都の上に留まる(魂魄は北闕の天に臨まむ)と言った。

後醍醐天皇の一番の失敗は、すでに武士の世になっているのに昔に引き戻そうとしたこと。 彼は能力主義で楠木正成を登用したにもかかわらず、最後は公家の言うことを聞いて、正成を死に追いやった。

バサラ大名

佐々木道誉は、大変な文化人であると同時に、乱暴狼藉もやりたい放題で、後伏見院皇子の御所に放火したこともある。 このほか、高師直や土岐頼遠などがバサラとして知られる。

異界から舞い戻る人々

[エピソード1] 大森彦七は、楠木正成を死に追いやった武将である。彼は猿楽師でもあった。彼はある晩、山道を通って 猿楽の舞台に向かう時、美女に出会う。暗くなると彼女は急に鬼となった。彦七が助けを求めたため人々が駆け付け、鬼はいなくなった。 後日、舞台で、雲の中から正成の亡霊が現れる。亡霊は霊剣を求めた。彦七が抵抗したので、亡霊はいったん去る。 数日後、正成の亡霊軍団が現れ、彦七の剣を奪おうと現れる。

折口信夫の説によれば、「死ぬ」は「萎ぬ」=しなしなになることで、水をかけると生き返る。これに対して、 「死す」は、完全にこの世からいなくなること。また生き返る方が、もともとの日本人の死生観。 生き返る条件は、念を残して亡くなること。

[エピソード2] 修行僧が仁和寺の本堂で経文を唱えていたところ、杉の木の上に羽の生えた僧侶たちがやってきた。 彼らは後醍醐天皇の外戚の峰僧正春雅など。大塔宮もやってきた。彼らは足利一門に騒動を起こす相談を始める。 一同は大笑いすると、幻のように消えた。

上のような怪異譚エピソードは夢幻能っぽい。実は、『太平記』完成、能の完成、『平家物語』の定本の確立はほぼ同時期で、 お互いに影響したのだろう。亡くなった人を物語り、上演することで魂が慰められていくということは、芸能の一つの役割。

巻二十六には、観応の擾乱の勃発を予感させる出来事が書かれている。将軍ら要人が田楽見物をしていた。美しい女性が 扇で幕をあおったかと思うと、桟敷が傾いて人々が将棋倒しになった。

第4回 太平の世は訪れるのか

南北朝時代

室町幕府が始まった。尊氏は征夷大将軍として武家を統括、直義は法務や政務に当たった。 尊氏の側近である高師直の増長ぶりが目に余るようになっていた。師直の兄弟の師泰は、天皇に対して不遜な発言をする。 足利直義は、尊氏に黙って高兄弟暗殺計画を練る。しかし、師直はこれを知り、直義を襲撃。直義は尊氏の屋敷に逃げ込み、 師直の軍勢が取り囲む。尊氏が弱気になったので、直義は出家することでその場を収める。

尊氏は「武」で、直義は「公」の役割を担う。そこで、足利家の中で「公」と「武」の争いが起こってくる。 直義が出家したので、尊氏の息子の義詮(よしあきら)が政務を担う。直義の養子の直冬(ただふゆ)が南朝に付いて出兵する。 直義も南朝に付いて出兵する。直義が勝ったが、高兄弟を出家させ、尊氏・直義の兄弟は和睦。 高兄弟とその一族は、恨みを持つ武将に殺される。直義は幕府に戻るが、尊氏と直義の関係は元に戻らず、 戦闘の末、直義が敗北して降伏。その後間もなく、直義は病気で死去 (1352年)。尊氏によって毒殺されたという噂もある。

南朝が京都を攻略してくる。一時的に南朝側が勝つが、結局尊氏が勝つ。でも、間もなく尊氏も死ぬ。 尊氏は、弱いリーダーだったが、人望も運もあった。

南朝が衰退してゆく。あるとき、北朝の光厳法皇が南朝の後村上天皇を訪ねる。法皇は、苦難の人生を回顧する。 二人は涙を流し合う。この場面は、『平家物語』の大原御幸を思わせる。

足利義満が三代将軍に就任。細川頼之が補佐した。頼之の人望が高く、平和な時代の到来の期待で終わる。

義満は金閣で象徴されるように、文化政策で平和の世を作った。「文化」=文(飾り)によって化成する。

まとめ

混沌の時代に、将来を考えるヒントが『太平記』にある。