テレビで放映されていた映画を見ながら読む。映画は、もともと少女漫画だった原作を換骨奪胎して作られた。 原作は少女漫画としては失敗作だったが、それを映画として描き方を変えることで 活きた作品にすることを宮崎駿が考えたもののようである。映画の方は、ひたすら好い人ばかりでてきて、 ノスタルジーと軽快な音楽に彩られたさわやか青春映画になっている。無論、楽しく見られるわかりやすい映画である。 主人公の松崎海(まつざき うみ)と風間俊(かざま しゅん)が困難を乗り越えて学生運動を成功させ、 恋を成就するというストーリーである。本書は、その映画や映画製作にまつわる様々な話を集めて編集されている。
映画は、企画・脚本が宮崎駿で、監督が宮崎吾朗という親子で作ったアニメーションで、想像に難くないように 息子の吾朗監督がかなり苦労して作ったもののようである。ただでさえ、父子の共同作業というものは 難しいはずである上に、父親の方が天才的な人となれば、ますます息子の方が難しい立場に追い込まれる。 アニメオタクの岡田斗司夫が『コクリコ坂から』を語るときは、内容そっちのけで 宮崎父子の確執、あるいは宮崎吾朗世代の悲哀を語ることが中心になるのが面白いところである。
原作を読んではいないが、どうも一癖あるものだったらしいことが宮崎駿が書いた文章からわかる。 「高校生の純愛・出生の秘密ものであるが、明らかに七〇年の経験を引きずる原作者(男性である)の 存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。」(p.51) と書かれている。 で、この原作者は佐山哲郎で、Wikipedia によれば、佐山は、プロデューサーの鈴木敏夫と同じ 1948 年生まれで 全共闘の活動家でもあったようだ。宮崎駿が、その後に「今はちがう。学園紛争はノスタルジーの中に 溶け込んでいる。ちょっと昔の物語として作ることができる。」(p.51) と書いていることで分かる通り、 映画では、原作が持っていた学園紛争の暗い面を消し去って、ノスタルジックで健康的なイメージに作り替えたのだろう。 少女漫画が失敗した理由を宮崎駿が「少女マンガが構造的に社会や風景、時間と空間を築かずに、心象風景の描写に 終始するからである。」(p.51) と書いているのでわかる通り、映画では社会や風景も丁寧に描かれている。
映画の時代設定は東京オリンピックの前年の 1963 年である。原作が 1980 年ころの設定であったのを それより一昔前に変えたということである (p.27)。その時、主人公たちは高校2~3年生なのだから 1946 年前後の生まれ、すなわち終戦直後の生まれである。世代的には、原作者の佐山哲郎 (1948 年生)、 ジブリの鈴木敏夫 (1948 年生)、全共闘の秋田明大 (1947 年生)、民族派学生運動の衛藤晟一 (1947 年生、現参議院議員)、 元総理大臣の菅直人 (1946 年生、現衆議院議員)、ノーベル生理学・医学賞の大隅良典 (1945 年生)、 お笑いタレントのタモリ (1945 年生) と同世代である。 つまり、終戦直後の貧困、高度経済成長、学生運動などを経験して成長した世代ということになる。 宮崎駿は 1941 年生でこれより少し上の世代、宮崎吾朗は 1967 年生まれで 1963 年を知らない世代である (私と同世代)。本書には、宮崎吾朗は 1960 年代について知らなかったので、映画を作るにあたって いろいろ勉強したということが書かれている。
映画は、1960 年代を明るい時代として描いているが、本書には、この 1960 年代に対照的な印象を 書いている2つの文章が入っているのが興味深い。鈴木敏夫は、明るく清潔でイジメもない時代だと 語っている (pp.38-39)。一方で、作家の小林信彦は、公害が起きた時代だし、東京オリンピックは 近所に住んでいた者にとっては迷惑でしかなく、いやな時代だったと書いている (pp.155-157)。 鈴木敏夫は、名古屋の東海中高という私学出身で、学校の雰囲気が普通より良かったという可能性が高いから、 印象は割り引かないといけない。鈴木敏夫はプロデューサーだから、映画のイメージを壊すようなことは 言えない、という意味もあるだろう。これに対して、 小林信彦は、 1963 年当時は 30 代で、会社を辞めさせられるなど嫌な経験をしているようだから、 これまたその分反対方向に割り引いて考えないといけない。
本書に集められている文章の中でおもしろいのは、作家の門井慶喜による『ノスタルジーに甘えない』(pp.148-154) である。そこでは、文化系部室の集まる「カルチェラタン」の保存問題の描写が考察されている。 カルチェラタンは、原作には存在せず、そのアイディアは宮崎駿が出したものだとのこと (p.98)。 門井の見立てでは、男子生徒が戦前のバンカラ気質を体現している。つまり、門井は安保闘争時代へのノスタルジーと いうよりは、それ以前のバンカラへのノスタルジーが描かれていると見ている。確かにそんな気がする。哲学研究会の 印象的な生徒が出てくることも戦前的教養主義へのノスタルジーと見て良いだろう。一方で、女子生徒は行動的で戦後的だ。 女子の主導で、カルチェラタンは大掃除をされることになり、さらに現代的にリフォームされることになるわけだから、 女子=戦後の男子=戦前に対する勝利と見ることもできると門井は書く。なるほど気の利いた考察である。
映画や本書では、1960 年代前半を全体的にはノスタルジックに良い時代として描いてあるが、 そうでもない側面があったことは、やはり忘れてはいけない。公害には触れられているけれど、 それ以外にも問題はあった。たとえば、北海道で育ち今福岡にいる私として気になることは、 炭鉱事故が頻発していた。1963 年には、三井三池炭鉱で犠牲者 400 名超の大事故が起きた。 暴力団が多かったのも 1960 年代である。力道山が刺殺されたのは 1963 年で、 これも暴力団がらみであった。同年には、暴力団による田中清玄銃撃事件も起きた。
本書では触れられていないが、宮崎駿は、時代の暗い事実を一つ潜り込ませている。 それは日本が朝鮮戦争で海上輸送に協力し、それで死者も出ているということである。 これはあまり知られていないことだが(私も知らなかった)、防衛研究所の雑誌 『戦史研究年報 (2008 年 3 月)』の中の 石丸安蔵「朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―」 (別のリンク)にそうした記述がある。 映画では、海の父親は LST (Landing Ship Tank、戦車揚陸艦)の船長をしていて戦死したということになっている。 石丸論文によれば、海上輸送に従事した人々のうちでどれだけ犠牲者がいたかの全容はまとめられていないようで、 LST が沈没したことがあったのかどうかこれだけでは不明だが、LT(大型曳船)が触雷し沈没した事故はあったと書かれている。 宮崎駿は、おそらくこうした忘れられた朝鮮戦争の戦死者のことを記録しておこうとしたのだろう。