タイトルを日本史で習ったくらいしか知らない本である。「100 分 de 名著」の解説によると、
結局ごく当たり前の政治思想をわかりやすく説明してあるもののようだ。非武装中立の民主主義を
是とする「洋学紳士」と重武装侵略主義を是とする「豪傑君」が議論し、最後に「南海先生」が
中庸で現実的な考えでまとめるという作りである。これは今でもよくありそうな話である。
いわゆるウヨクもサヨクは同じくらい非現実的な主張をするのに対し、真っ当な主張は
ずっと普通のことである。でも、第4回で紹介されている通り、「普遍の真理はみな陳腐だが、
行えば新奇」なのである。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 なぜ問答形式なのか
講師は大学では哲学を専攻したが、西田幾多郎がわからなかったのに対して、中江兆民はわかりやすかった。
『三酔人経綸問答』基本情報
- 明治 20 (1887) 年に中江兆民が著した政治思想書。
- 兆民はルソーを日本に紹介した。
- 三人の酔っぱらいが酒を酌み交わしながら、日本の進路について議論する。
はじまり
南海先生は大酒飲みで政治談議が大好きな現実主義者。ある日、南海先生のもとを二人の客が訪ねてきた。
一人は哲学者風な民主主義者・理想主義者(洋学紳士、紳士君)、もう一人は豪傑風な侵略主義者(豪傑君)。
三人は政治談議を始めた。
なぜ問答形式なのか
- 中江兆民は演劇が好きだった。戯曲の「三一致の法則」(時間・場所・行為が同一という形式)を取り入れた。
- 西洋哲学における「問答」の伝統。
- 日本語の問題。当時、難しい思想を日本語に落とし込むのには、話し言葉の方が良かったのではないか。
当時はちょうど言文一致が始まった時代。二葉亭四迷の『浮雲』も明治 20 年。
まだまだ自分の考えを散文で書くための言葉が無かった。
中江兆民の半生
- 1847 年、土佐藩の下級武士の家に生まれる。本名は中江篤介。
- 若くして長崎でフランス語を学ぶ。
- 20 歳の時、大政奉還。
- 24 歳の時、岩倉使節団に随行。フランスでは、法律や哲学を学びながら、自由と民主主義の洗礼を受けた。
パリ・コミューンの崩壊も見た。
- 帰国後、ルソーの『社会契約論』を『民約論』として翻訳した。民権運動の中、兆民も自由や平等を民衆に訴えかけた。
- 政府が自由民権運動を抑圧してくる中で、兆民は東京を追われる。『三酔人経綸問答』が出版されるのもこのころ。
土佐のリベラリズムはおおらか。
第2回 洋学紳士と豪傑君―理想主義と覇権主義の対話
洋学紳士と豪傑君の対話
欧米列強の魔の手が日本に及ぶかもしれないという時代、日本はいかにすべきか。
- 洋学紳士は、いち早く民主制を実現すべきだと主張する。軍備増強するヨーロッパを批判して、
非武装中立を主張する。自由と友愛を礼賛。洋学紳士は、平和を愛する理想主義者。
- 豪傑君は、強国が攻めてきたらどうするのかと反論。戦争は避けがたい。日本は脅威にさらされているのだから、
軍備を増強すべきだと主張。さらに、中国侵略を主張する。
- 豪傑君は、少し古い人間として描かれている。兆民自身も、自分はちょっと遅く生まれてきたと思っていた。
兆民は、民権運動家であると同時に足軽の家に生まれた侍でもあった。
- 豪傑君は、軍人には軍人の楽しみがあるという。豪傑君が言うには、他国に遅れて近代化を目指す国には、
「古いもの好き」と「新しがりや」の2種類の人間が生まれるという。いずれかが取り除かれねばならない。
豪傑君は、どちらかと言うなら、「古いもの好き」を除かねばならないと言う。「古いもの好き」は
戦争に送って除くのだ、自分もその除かれるべきものの中に入るのだと言う。
エンパシーと対話
シンパシーは同情。エンパシーは、相手の立場を理解する態度や技術。
エンパシーが『三酔人経綸問答』の対話がうまく成り立つポイント。
第3回 「現実主義」の可能性―南海先生の論を中心に
南海先生の語り
- 南海先生は議論を整理する。洋学紳士は、民主主義と平等主義こそ完全だとし、軍備放棄を目指す。
豪傑君は、軍備を整えて他国を侵略すべきだとする。
- 南海先生は、いずれの論も現実的でないとする。政治とは、国民の意向に沿い、国民の知識に見合った
制度を採用し、国民が幸福を得られるようにしなければならない。
- 南海先生は、民権には二種類あると言う。民衆が獲得した「回復した民権(恢復的の民権)」と
上から与えられる「賜った民権(恩賜的の民権)」である。
「賜った民権」をいきなり「回復した民権」に変えようとすると混乱する。
- 兆民は、借り物の思想ではやっていけないと言っているのだと思う。
文化や風土に根差さない改革は長続きしない。
- 南海先生は、隣国とは仲良くしないといけないと言う。国と国が恨み合うのは、風聞による。
メディアが風聞を煽る。二国が戦いになるのは、戦いを恐れるためだ。
- 南海先生の提言。立憲制度を確立する。上院と下院の二院を作る。上院は貴族の世襲、下院は選挙制とする。
外交では友好を重んじ、武力を誇示しない。言論、出版の規制は次第に緩やかにする。教育、商工業の充実を図る。
以上、当たり前でけれど、国家の計は奇抜である必要はない。
第4回 その後の兆民―『一年有半』『続一年有半』
中江兆民の後半生
- 明治22(1889)年、大日本帝国憲法発布。
- 明治23(1890)年、帝国議会開設。
- 兆民は、第一回衆議院議員選挙に出馬し、当選。しかし、半年後、予算案に対する衆議院の妥協に怒って、議員辞職。
- 実業家に転身するも、ことごとく失敗。
- 明治34(1901)年、54歳で喉頭癌と診断され、余命一年半と告げられる。
- 兆民は、随想集『一年有半』を著した。出版されるや、ベストセラーになる。
- 明治34(1901)年末、死去。
『一年有半』
- 日本人は「恐外病」だ。日本人は、外国を無闇に恐れている。ヨーロッパの拡張主義は道徳的には間違っている。
- 普遍の真理は陳腐だが、行えば新奇だ。
- 兆民の思想は一貫している。かつて東京外国語学校の校長を辞めたのも、外国語だけでなく四書五経も教えることを
主張したのが受け入れられなかったから。倫理は、ヨーロッパがそんなに素晴らしいとは思っていなかった。
東洋思想も誇るべきものだと思っていた。
- 『一年有半』は、情景描写も優れている。
『続一年有半』
- 『続一年有半』は哲学書を目指したもの。
- 徹底的に唯物論と無神論を主張した。
- 平田の見解では、兆民は「無」を至高のものだと考えていたのではないか。
中江兆民の考えのまとめ