自分で読もうとしても、言葉遣いがひねくれているのでとても読めたものではないヘーゲルを、
易しく解説してもらえるというありがたい企画である。ヘーゲルをこれだけ平易に解説してくれている本は貴重だ。
その結果、ヘーゲルが現代社会にもつながる問題を扱っていたのだということを初めて知った。
第1回で、科学の真理は間違いながら獲得してゆくものであるという科学における可謬主義の源がここにあることを学んだ。
さらに、主人と奴隷の思考実験の話は、現代における搾取の問題にもつながる。
第2回では、論破やディベートの弊害、相対主義の問題点といった現代でも問題になっていることが、
近代の始まりからずっと問題になっていることを学んだ。
第3回では、啓蒙と信仰の対立について学んだ。現代にまで続く対立ではあるが、科学の側が、
科学が見ているのは現実のごく一部だということを謙虚に認識し、宗教の側も、
宗教が人の心のすべてを支配できるわけではないと謙虚に認識すれば、本当は対立することではないと思うのだけれど。
第4回では、善悪の基準のようなことも、対立と反省とアウフヘーベンを繰り返しながら不断に改善してゆくものだと
いうことを学んだ。当たり前と言えば当たり前だけれど、ヘーゲルと言えば絶対精神のような神の視点でものを
考える人だと思っていたので、実はそうではなくて普通のことを言っているのだと知って驚いた。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 奴隷の絶望の先に―「弁証法」と「承認」
背景
当時、フランスでは革命が勃発するなど、ヨーロッパは激動の時代だった。
伝統的な力が崩れていっていた。
ヘーゲルは古代ギリシャに憧れた。そこでは、既存の価値観の中で従うべきルールが決まっていた。
それは、美しく調和した幸せな社会だった。一方で、自由は無かった。これに対し、現代(ヘーゲルの時代)は
個人が自由なので、社会の調和がない。その自由と調和を両立するためにはどうしたら良いか?
これに答えるため、ヘーゲルは『精神現象学』を書いた。
ヘーゲル略歴
- 1770 年生まれ。
- 1807 年『精神現象学』刊行。一方、前年にナポレオン軍が侵攻してきたため、ヘーゲルは失職。
- 1816 年、46 歳になってハイデルベルク大学教授に就任。
- 1831 年、61 歳でコレラのため死去。
弁証法
- 矛盾、対立、否定がヘーゲルの思考の柱。正反対の視点や意見と出会うことで、自分の考えに矛盾を感じ、
自分を疑う。その過程で自分の考えに否定的になる。この道筋をヘーゲルは「絶望のみちすじ」と呼んだ。
- 個人的な知識は、間違いを訂正していくことで更新されてゆく。
- 知識を修正するときに、意識が根本から揺るがされ、新たな道筋が開ける。
意識を根本的に揺るがす経験が世界のありかたを大きく変えることを「意識の経験の学」という。
- このようなプロセスを「弁証法的な運動」という。
- ヘーゲルのいう「経験」は、自分が考えていることが一面的で誤っていたことに気付く経験。
- 現在の知を疑わず反省しない態度のことを、ヘーゲルは「動物的な態度」だとして批判する。
- 真理は、学びながら生成されるもの。真理に近づくには、失敗しながら学ぶ。
自立とアウフヘーベン
- 自己意識は、世界を自分の意のままにしたいと考える。しかし、そういう二人が出会うと、
承認をめぐる闘争が起こる。その結果、勝者と敗者は主従関係(主人と奴隷)になる。
- 主人は自立の意識を持ち、奴隷は依存の意識を持つようになる。
- ところが、考えてみると、主人は自分では何も生み出さず、奴隷の労働の成果物を消化しているだけ。
つまり、主人は、奴隷に依存している。一方、奴隷は、我慢することで動物的な欲求を乗り越える力を身に付け、
労働によって新たなものを生み出している。
- このように、自立に対する考え方を逆転させてみることで、新しい自立の概念が生まれる。
このように相反する考え方から新しい考え方を生み出すことが、「アウフヘーベン(止揚)」である。
- Aufheben(止揚)には3つの意味がある。(1) 破棄する (2) 保持する (3) 高く持ち上げる。要するに、
悪いところは捨てて、良い所は残しつつ、さらに洗練されたものを生み出すこと。
第2回 論破がもたらすもの―「疎外」と「教養」
精神 Geist
- 「精神」とは「私たち」のこと。「精神」の実際の表れが、社会制度や文学など。
- 「私」は「私たち」の中で生きている。
- ヘーゲルは、精神の歴史を社会制度や文学などを通してたどった。
- 「精神とはすなわち、「私たちである私であり、私である私たち」なのである。」
つまり、私の判断は様々な価値観や世界観に規定されていると同時に、私たちの世界観や価値観を生み出しているのは
私自身でもある。
- 「絶対的な実体である精神」=日々の生活の判断や行為の根幹である規範やルールに反映されている価値観や世界観
- 世界観や価値観を生み出しているのは私たちであり、それは変えていけるというのが自由の実現である。
- 精神の変化の例:一昔前までは仕事をバリバリやるのが良い夫だったが、最近では子育てや家事もするのが良い夫。
精神の歴史
- 前近代社会では、人々にとって国家の法や制度はコントロールできないものだった。
- 近代社会では、人々は自律的にものごとを考えられるようになった。しかし、人々が共有できる基準が無くなった。
その結果、対立が生まれるリスクが出てくる。
- 「疎外 Entfremdung」とは、規範と一心同体の状態から離れてゆくこと。ヘーゲルはこれをポジティブなことだと捉えている。
- 「教養 Bildung」とは、そのような近代社会にあって、より良いものを自分なりに求め続けようとする態度のこと。
- 国権と財富は相対立する。国家からすると、格差を拡大する自由経済は悪に見える。資本家から見れば、
規制をかけ税金をかける国家は悪に見える。しかし、一方で、経済の繁栄が無いと安定な国家はできないし、
国家の保障がないと自由な経済活動はできない。
- 私たちは、多角的にものを見ていかなければならない。
論破したがる人
- SNS には、論破したがる人が巣食っている。
- 論破したがる人は、自己の優位性を確保しようしているだけで、視点・論点をクルクル変える。
- 小説『ラモーの甥』に出てくる「ラモーの甥」がそのような論破したがる人。
- ヘーゲルが批判の対象にしているのは、当時のフランスのサロンの「エスプリに富んだ会話」。
機知に富んだ会話だが、確固たる思想がない。
- こうした会話がはやると、規範やルール、ひいては共通認識がぶち壊しになる。
- 論破合戦からは何も生まれない。
第3回 理性は薔薇で踊りだす―「啓蒙」と「信仰」
啓蒙と信仰
- 啓蒙とは、科学を頼りに、合理的なルールや社会を作っていこうという意識の姿。
- 啓蒙の前には、伝統的規範や価値観の壁(信仰)が立ちはだかる。信仰とは、自分では理性を使って考えず、
誰かの考えを疑わずに妄信する意識のこと。
- 啓蒙思想は、ヨーロッパで 17 世紀の後半から 18 世紀にかけて盛り上がった。その背景に自然科学や
経済の発展があった。その結果、宗教や王権・貴族が批判されることになった。
- 信仰は、啓蒙の側からすると、迷信や誤謬に満ちている。その背後には、僧侶や専制君主の悪しき意図があると考えられる。
- 啓蒙の立場は、科学主義。しかし、それは必ずしも正しくない。
たとえば、当時の骨相学では、性格や性質は外面に現れるという考え方があった。
ヘーゲルは、こうした科学主義の行き過ぎを「恣意的な結合」と呼んで批判した。
- 啓蒙の側の主張は、時には「思いなし」だとヘーゲルは批判する。啓蒙側が、ワインがキリストの血ではないと
言ったところで、信仰の側だって、ワインがキリストの血でないことはメタファーだと分かっている。
- 信仰の側も、啓蒙の側の議論に乗ってしまうと、負けてしまう。
- 啓蒙の「すべては物質的・実証的・データで説明されなければならない」という考え方自体が
一つの「信仰」である。
- 信仰が啓蒙よりも優れている点がある。それは他者を信じるということだ。
「信頼するとは、しかし信じることである。」
- 信頼なき相手との対話はすれ違いに終わる。信頼が無ければ、分断は解消されない。
啓蒙の暴走と薔薇としての理性
- 18 世紀終わりにフランス革命が起こる。しかし、権力を得たグループは、冷酷に人々を処刑した。
- 啓蒙→有用性(自分にとって役に立つか?)→絶対的自由(力が正義、規範の意味が失われる)→テロル(フランス革命はテロルに終わった)
- 啓蒙に足りないのは「薔薇」。『法の哲学』の中で、ヘーゲルは理性を薔薇と重ねている。
「理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在をよろこぶこと。この理性的な洞察こそ、
哲学が人々に得させる現実との和解である。」
- 薔薇は、豊かさや幸せの象徴。現実の人生は幸せや苦しみにあふれている。それらはデータや数値化できない。
そういう次元を大切にする理性の姿をヘーゲルは「薔薇としての理性」と呼んでいる。
- 人生の意味を表現するために宗教や芸術がある。そういうものを無視して自然科学を特権視してはいけない。
第4回 それでも共に生きていく―「告白」と「赦し」
良心と相互承認
- カントは、道徳法則を「~せよ」という定言命法で提示した。カントは例外を認めない。
すると、たとえば、どんな場面でも「嘘をついてはいけない」というようなことになってしまう。
しかし、物事には例外的場面があるはず。
- ヘーゲルは、自己が正しいと考えた判断が普遍的な意味を持つためには、皆に説明し、自ら実践してみせて
皆に賛同してもらう必要がある。これが「良心」の意識。
- ヘーゲルの道徳論は対話型。善は見方や立場に依存するので、普遍的な善は周囲の人を納得させるものでないといけない。
- ヘーゲルによれば、私たちの良心は「行為する意識」と「評価する意識」に分かれる。「行為する意識」は、
自分の義務だと思うことを良心に従って行う。「評価する意識」は、自分では行為せず、他者の行為を吟味し、批評する。
- 行為する意識の中には、世間から称讃されたいなどの個人的な欲求が隠れているかもしれない。
評価する側はそうした行為を利己的な目的を持った偽善だと考え、行為する側はそうした評価を無作為の偽善だと考える。
- 「行為する意識」は、自分が独善的なところを自己批判する。それが「告白」という行為。
それを受けて「評価する意識」は「然り」と述べて、相手の行為を赦す。それによって、
双方の相互承認ができる。
- これに対し、相手を赦さない意識をヘーゲルは「かたくなな心情」と呼ぶ。そうなると、
社会はバラバラになる。
- 私たちの中には、社会の中で他者とともに生きていきたいという気持ちがあるので、相互承認が成立する可能性がある。
- 「赦し」とは、「評価する意識」の側が自らの無作為を反省し、自分の善悪の判断基準を変えること。
- 善と悪を転倒させることで、良心の2つの意識が弁証法的に統合される(=アウフヘーベン)。
- 『進撃の巨人』にも、マーレ人とエルディア人が対立する中で、
ガビ(マーレ人)、カヤ(エルディア人)、ニコロ(マーレ人)が相互承認する場面が描かれている。
- しかし、社会に対立が無くなることはない。だからこそ、いつも共に変わっていこうとする姿勢が欠かせない。
ニコロも「森から出られなくても出ようとし続けるんだ」と言っている。
- このように反省を続け新しい知に開かれた状態を、ヘーゲルは「絶対知」と呼んでいる。
- 私たちは、人間の有限性を受け入れた上で、正しいと思うことをなし、正しいと思うことを反省・更新していかなければならない。