覇王の家

著者司馬 遼太郎
シリーズ新潮文庫 2578、し-9-25
発行所新潮社
刊行1979/11/25、刷:1998/01/20(51刷)
文庫底本刊行1973/10 新潮社刊
初出1970/01--1971/09 「小説新潮」連載
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読了2023/08/27

司馬遼太郎 覇王の家

著者安部 龍太郎
シリーズNHK 100分de名著 2023 年 8 月
発行所NHK 出版
電子書籍
刊行2023/08/01(発売:2023/07/25)
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読了2023/08/29

今年は司馬遼太郎生誕 100 年で、大河ドラマで家康をやっているからということであろうが、 今月の 100 分 de 名著では、司馬の代表作ではないと思うが、 司馬遼太郎の『覇王の家』が取り上げられている。 小説『家康』を書き続けている安部龍太郎が講師として紹介している。

『覇王の家』は昔読んだと思うが、ほとんど覚えていなかったので、番組と並行して再読してみた。 私が持っている本の発行年からすると、昔読んだのは私が名古屋に住む前に違いなく、その後名古屋に住んだので、 再読してみると、ある程度地名に馴染みもあり、楽しく読めた。

私は、司馬作品に『関ケ原』(1964-1966 連載) から入り、その印象が強すぎたせいで、長らく家康には狸親父的印象を 持っており、『覇王の家』(1970-1971 連載) を読んでもそのイメージが抜けなかったのが覚えていなかった理由の 一つかもしれない。実際、安部の解説によると、最初、司馬は家康のことがあまり好きではなかったとのこと。 前半では家康のキャラをやたら複雑だ複雑だと書いていることからもそれがうかがえる。しかし、安部が言う通り、 司馬も書いている途中から家康のことを理解できるようになってきたのだと見え、調子が良くなってくる。 後半は家康のキャラをあまり複雑だとは書かなくなってきている。

安部は、歴史作家だけあって、司馬の物語の作り方を上手に分析している。100 分 de 名著の「はじめに」の 解説によれば、司馬は「人間史観」に立つ。これは、人間が歴史を作るということで、小説書きの技法としては、 「キャラクターの決め付け」をして、そのキャラ設定にしたがって史実を説明するということである。 それによって読者にとって分かりやすくなっているというのは、言われてみれば実にその通りだと思う。 そう思って読んでみると、司馬は、登場人物のキャラをいちいち立てていって、それを基に歴史の いわば必然を語っている。典型的なのは、長久手の戦いの説明を一通りした後で、三河侍の代表として 安藤彦四郎直次と本多平八郎忠勝のキャラとその戦いにおける役割を説明して、こうした部下がいたからこそ 家康はこの戦いに勝てたのだという書きぶりをしているところである。

「人間史観」に対応して、『覇王の家』というタイトルは、司馬の意図が反映した形になっていると思う。 「あとがき」によれば、司馬はもともと歴代徳川家将軍を描くつもりで「家」という単語を入れたらしいが、 今の形で見ても、「家」を三河衆と読めば、その三河衆の気質が、いかにして「覇王」すなわち日本の覇者を生んだか、 というふうにも読める。商業が盛んだった尾張ではなく、田舎だった三河が安定政権を作り得た理由を 家康と中心とする三河者の気質に求めるということである。ところで、名古屋大学の地質教育は奥三河で行われていて、 私はそれについて行ったことがある。奥三河は本当に山が深い。そういうところが江戸幕府のルーツだったというのが 面白い。このために、田舎の質朴さが江戸幕府の気風になったと司馬は見ている。

小説は、「小牧・長久手の戦い」の講和交渉の後、いきなり 30 年飛んで、家康の死で話を閉じる。 関ケ原の戦いと大坂の陣は、すでに『関ケ原』と『城塞』で書いているから省いたということだろう とのことである(テキスト第4回)。

三河の気質が江戸幕府に及ぼした影響を書いているる部分で気になる箇所が2箇所ある。これらを 読むと、司馬は江戸時代の気風が嫌いだったのではないかと思える。だから明治維新についての小説を たくさん書いているのではなかろうか。

いずれも否定的な評価で、司馬の江戸時代嫌いを表しているように思える。私は、この見方は一方的に過ぎるように思う。

作品メモ

読んでいきながら、家康とその周辺の描写の特徴などをメモしてみた。以下、ページ番号は、 新潮文庫旧版(1巻本、あとがきを含めて全 567 ページ)に基づく。

「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 「三河かたぎ」が生んだ能力

『覇王の家』基本情報

物語の進行と解説

物語の進行解説
  • 三河は山奥の後進地であった。
  • 三河の人々は質朴で、義理人情に厚い律義者。主に対して忠実だった。
  • 司馬は、室町時代に書かれた『人国記』を参考にしている。
  • 司馬は、物語を三河気質から始めている。それは、1970 年当時さかんだった唯物史観へのアンチテーゼであった。 いわば「人間史観」である。
  • 「人間史観」で物語を構成するために、司馬は、キャラクターの決め付けをして、物語を単純化していく。 起きる物事を、登場人物の性格から解釈することで、読者に分かりやすくしている。
  • 司馬は、史実の引用を適宜入れることで、読者に信用させるようにしている。
  • 自分で決めたキャラクターと史実とがうまく適合するかどうかは、作家の力量。作家の人間観の大きさに関わる。
  • 家康は、天文 11 (1542) 年、三河の岡崎城で誕生。幼名竹千代。
  • 3 歳で実母と生き別れる。6 歳で織田家の人質となる。
  • 8 歳で父が家臣に殺害され、松平家の当主となるが、今度は今川家の人質となる。
  • 三河岡崎衆は若殿のことを思って結束した。
  • 永禄 3 年、桶狭間の戦いの後、家康は三河に戻った。その後、2 年は今川のために戦っているが、やがて織田と同盟関係になる。
  • 今川氏真は、暗愚だった。
  • 司馬は、家康のことを、疑い深く用心深く馬鹿かと思われるほどの律義者、と書いている。
  • 三河人は、中世的な情念を持っていたとする。中世は農業中心の時代。 近世になると、商業が盛んになる。それを代表するのが、尾張。三河は、依然として中世的だった。
  • 近世は合理の世界、中世は情の世界。
  • 元亀 3 (1572) 年 10 月、武田信玄が徳川領に侵攻。家康は浜松城にいた。
  • 信玄は、浜松城を通り過ぎて三方ヶ原に向かう。家康は、家臣たちの反対を押し切って、城を出て武田軍を追いかける。
  • 三方ヶ原では、武田軍が待ち構えていた。家康軍は大敗。家康は一騎で逃げた。
  • 城に逃げ帰った家康は、松明を焚くよう家臣に命じた。食事をとると寝た。
  • 家康には武士の意地があったと思う。
  • 司馬は、三方ヶ原の戦いについて「惨憺たる敗北」だったが、家康の「のちの生涯において」は 「重大な栄光になった」と書いている。
  • 武田軍の馬場信治は、家康軍の討死にした兵たちが全員前を向いていたことから、そういう兵を育てた 家康はすごいと言っている。

第2回 「律義さ」が世を動かす

信長と家康

物語の進行と解説

物語の進行解説
  • 家康は女好きだった。しかし、築山殿とはうまくいかなかった。築山殿は、気位が高く、指図をしたがった。 三河衆は、築山殿が嫌いだった。
  • 築山殿は、武田勝頼に密書を送った。それが織田信長にバレた。
  • 家康の正室の築山殿は、今川義元の姪にあたる。
  • 司馬は、人のことを悪く書くときには筆が伸びる。
  • 司馬がこの小説を書いたころは、築山殿の研究がほとんどなかった。司馬は、江戸時代に築山殿を スキャンダラスに書いた資料を利用した。
  • 築山殿が武田勝頼に密書を送ったということを、信康の妻で信長の娘である徳姫が、信長に知らせた。
  • 築山殿は、駿河出身で京文化の体現者。家康と信康は、三河の田舎者。信長と徳姫は、先進的で都会的な 尾張の人。
  • 築山殿が密書を送った理由は、今でも定説はない。司馬は、築山殿のヒステリーだと書いた。 講師の安部は、武田が三河に攻め込んできて自分と信康の身が危ないと思った築山殿が、勝頼に助命嘆願をしたのだと考える。
  • 重臣の酒井忠次は外交上手だったので、事件の釈明のため、信長のもとに派遣された。
  • 酒井忠次は、信長に対して、徳姫の手紙に書いてあることは本当だと言ってしまった。 忠次は、信康が好きではなかった。忠次が信康を生かしておくのは危険だと訴えたので、 信長は、信康を殺すように命じた。
  • 平岩親吉は、かつて信康の養育係で、自分を殺して、すべて自分のせいにしてくれと、家康に頼んだ。 家康は、それを押しとどめた。
  • 結局、家康は、信康と築山殿を殺す羽目になった。
  • 家康は、忠次を罰していない。家康は、忠次の独立性を尊重している。
  • 家康の遺訓に「己を責めて人を責むるな」という言葉がある。
  • 司馬の解釈では、人のあるじは一つの機関であると家康は考えていた。
  • 講師の安部(放送、テキスト)によると、家康には高い理想があったからこういう生き方ができた。
  • 講師の安部(テキスト)によると、武田勝頼が家康に対して密書の存在を信長に知らせると脅迫したので、 徳川家の生き残りのために築山殿と信康を殺した。
  • 家康は、信長に富士を見せた。そしてできるかぎりの接待をした。
  • 信長は、安土に家康を招待した。その直後、本能寺の変が起きた。家康は「死ぬ」とわめいた。 家康はすぐに思い直し、三河にやっとのことで逃げた。
  • 家康は、光秀を討つか、東海地方の地盤を広げるかの判断を迫られた。
  • 家康は、信長の好みをちゃんと調べた上で接待をした。
  • 講師の安部は、家康は信長と人間的に深いところでつながっていたと考えている。 家康は、信長のビジョンに全面的に賛同していたのではないか。一方、信長も 律義な家康が好きだったのだろう。
  • 「神君伊賀越え」は伝説となった。

第3回 人生最大の戦果はこうして生まれた

信長と秀吉と家康

物語の進行と解説

物語の進行解説
  • 本能寺の変から1週間後、家康は岡崎を出発して京に向かった。すると、羽柴秀吉が明智光秀を討った という知らせが入ったので、引き返した。
  • 家康は、甲信両国を獲得した。秀吉は京を押さえ、1年数か月のうちに24か国を制圧した。
  • 天正11年、賤ケ岳の戦いで柴田勝家に勝利した。家康は驚いた。
  • 家康は秀吉をなめていた。
  • 石川数正は、家康に祝賀を送ることを提案する。家康は肩衝茶入銘「初花」を贈った。
  • 秀吉は、秀吉が織田信雄を殺そうとしているというデマを流す。信雄は家康に支援を求める。
  • 天正 12 (1584) 年 3 月、小牧・長久手の戦いが始まる。家康・信雄軍 1 万 7 千に対して、秀吉軍は 10 万。 家康は勝てると思った。秀吉軍は統制が取れていない。
  • 池田恒興、森長可が岡崎城を目指す。家康はこれに気付き、富士ヶ根で対峙した。 家康軍が大勝した。「長久手の戦い」はその後家康の資産となった。
  • 「長久手の戦い」は、『覇王の家』のクライマックス。
  • 1970 年代の歴史小説は合戦描写が主体だった。これに対し、司馬はドキュメンタリーを手法を使った。
  • 司馬には従軍経験がある。戦場の空気感や緊張感を描くのに、その経験が基礎になっている。
  • 家康は馬術が巧みだったが、決して無理をしなかった。大事でないところでは、争わない。

司馬の戦争経験

第4回 後世の基盤をどう築いたか

物語の進行と解説

物語の進行解説
  • 織田信雄が、家康が知らないうちに秀吉と講和する。秀吉としてもあまり長期戦になるのを望まなかった。 そこで、秀吉は、信雄と秀吉を分断する。
  • 家康は、石川数正を使者として立てた。家康は於義丸を人質として送ったが、上洛しなかった。
  • 天正十三年、主だった家臣を浜松に集めた。家康は家臣に考えさせた。家臣たちは「秀吉を相手にせず」という 結論を出した。家康はそれに従い、秀吉と講和しなかった。
  • 家康のやり方は、専決をしないことだった。
  • 家康は、人の意見を聞く名人。
  • 司馬は、「徳川家康というのは、虚空にいる」と書いている。夏目漱石が「則天去私」と言っているが、 「私を去る」ということが大切。人の意見をきちんと聞く。
  • 秀吉は、最終的に自分の妹を家康の正室に差し出した。
  • 安藤直次は三河人の典型だった。自分の手柄を誇らなかった。実直で欲が無い。
  • 石川伯耆数正は、外交担当者で、「三河者は狭量」と言っていた。数正は先進的だった。 しかし、三河では利口なのが好まれなかった。石川数正は、上方の華やかさに惹かれた。
  • 天正十三年十一月、石川数正が出奔して、秀吉のもとに行った。
  • 数正は家中で孤立した。数正は、秀吉と家康との緩衝材になろうとしたのではないか。
  • 司馬は、三河人の排他性が、江戸幕府から現代日本にも引き継がれていると考えている。
  • 司馬は、江戸幕府の排外性が三河人の排他性から来ていると書いている。
  • 家康は死ぬ前、秀忠を呼ぶ。家康は、打つべき手は打ってあるから、私が死んでも日本は乱れない、と言った。 家康は、譜代大名にあまり大きな領地を与えなかった。それは譜代大名の結束を固めるためである。
  • 関ケ原の戦いと大坂の陣を書いていないのは、すでに『関ケ原』『城塞』を書いているから。
  • 司馬は、「あとがき」で家康のことを「なまなかな天才よりも、かれはよほど変な人間であったにちがいない。」 と書いている。
  • 司馬は、三河かたぎが現代まで影響しているということを書きたかったのだろう。