今年は司馬遼太郎生誕 100 年で、大河ドラマで家康をやっているからということであろうが、
今月の 100 分 de 名著では、司馬の代表作ではないと思うが、
司馬遼太郎の『覇王の家』が取り上げられている。
小説『家康』を書き続けている安部龍太郎が講師として紹介している。
『覇王の家』は昔読んだと思うが、ほとんど覚えていなかったので、番組と並行して再読してみた。
私が持っている本の発行年からすると、昔読んだのは私が名古屋に住む前に違いなく、その後名古屋に住んだので、
再読してみると、ある程度地名に馴染みもあり、楽しく読めた。
私は、司馬作品に『関ケ原』(1964-1966 連載) から入り、その印象が強すぎたせいで、長らく家康には狸親父的印象を
持っており、『覇王の家』(1970-1971 連載) を読んでもそのイメージが抜けなかったのが覚えていなかった理由の
一つかもしれない。実際、安部の解説によると、最初、司馬は家康のことがあまり好きではなかったとのこと。
前半では家康のキャラをやたら複雑だ複雑だと書いていることからもそれがうかがえる。しかし、安部が言う通り、
司馬も書いている途中から家康のことを理解できるようになってきたのだと見え、調子が良くなってくる。
後半は家康のキャラをあまり複雑だとは書かなくなってきている。
安部は、歴史作家だけあって、司馬の物語の作り方を上手に分析している。100 分 de 名著の「はじめに」の
解説によれば、司馬は「人間史観」に立つ。これは、人間が歴史を作るということで、小説書きの技法としては、
「キャラクターの決め付け」をして、そのキャラ設定にしたがって史実を説明するということである。
それによって読者にとって分かりやすくなっているというのは、言われてみれば実にその通りだと思う。
そう思って読んでみると、司馬は、登場人物のキャラをいちいち立てていって、それを基に歴史の
いわば必然を語っている。典型的なのは、長久手の戦いの説明を一通りした後で、三河侍の代表として
安藤彦四郎直次と本多平八郎忠勝のキャラとその戦いにおける役割を説明して、こうした部下がいたからこそ
家康はこの戦いに勝てたのだという書きぶりをしているところである。
「人間史観」に対応して、『覇王の家』というタイトルは、司馬の意図が反映した形になっていると思う。
「あとがき」によれば、司馬はもともと歴代徳川家将軍を描くつもりで「家」という単語を入れたらしいが、
今の形で見ても、「家」を三河衆と読めば、その三河衆の気質が、いかにして「覇王」すなわち日本の覇者を生んだか、
というふうにも読める。商業が盛んだった尾張ではなく、田舎だった三河が安定政権を作り得た理由を
家康と中心とする三河者の気質に求めるということである。ところで、名古屋大学の地質教育は奥三河で行われていて、
私はそれについて行ったことがある。奥三河は本当に山が深い。そういうところが江戸幕府のルーツだったというのが
面白い。このために、田舎の質朴さが江戸幕府の気風になったと司馬は見ている。
小説は、「小牧・長久手の戦い」の講和交渉の後、いきなり 30 年飛んで、家康の死で話を閉じる。
関ケ原の戦いと大坂の陣は、すでに『関ケ原』と『城塞』で書いているから省いたということだろう
とのことである(テキスト第4回)。
三河の気質が江戸幕府に及ぼした影響を書いているる部分で気になる箇所が2箇所ある。これらを
読むと、司馬は江戸時代の気風が嫌いだったのではないかと思える。だから明治維新についての小説を
たくさん書いているのではなかろうか。
- 司馬は、家康が吝嗇家であったことが徳川政権の体質となったと見ている (旧文庫版 pp.267-269)。
徳川幕府は、そのために財政の基盤を米穀に置き続け、
「勃興してくる商業経済に対抗するのにひたすら節約主義をもってし、そのまま幕末までつづく」(p.269) と書いている。
- 司馬によれば、三河は農民社会だったので、江戸幕府は「外国との接触をおそれ、唐物を警戒し、
切支丹を魔物と見、世界史的な大航海時代の中にあって、外来文化のすべてを拒否するという怪奇としか
言いようのない政治方針を打ち出した」(p.504) のだそうである。
いずれも否定的な評価で、司馬の江戸時代嫌いを表しているように思える。私は、この見方は一方的に過ぎるように思う。
作品メモ
読んでいきながら、家康とその周辺の描写の特徴などをメモしてみた。以下、ページ番号は、
新潮文庫旧版(1巻本、あとがきを含めて全 567 ページ)に基づく。
- 家康は、正妻を今川義元の斡旋で娶った (pp.23-24)。今川家の家来の関口親永の娘で、家康よりも 10 歳くらい年上だったとしてある。
ただし、
Wikipedia によるとそこまで年上ではなく、2 歳くらい年上と書いてある。
小説の中では、嫁の方が家格が高かったので、権高だったという。家康は正妻で懲りたということを、
司馬は以下のように書いている。「女の効用というものを、あくまでも実用としてしか考えなかったこの人物の
女性観は、正室の権威から圧し殺されそうになったこの駿府の人質時代でのにがい思い出につながっている。(pp.25-26)」
- 桶狭間の戦いの記述はほとんど無い (p.35)。桶狭間の戦いの後で、すぐに今川と手を切ることなく、情勢を
慎重に見極めてから織田と同盟を結んだその用心深さの方を詳しく説明している。
- 姉川の合戦では、尾張衆の弱さと三河衆の強さが対比されている (pp.41-43)。織田本隊は 2 万 3 千、浅井軍は 1 万足らず
だったのに、尾張衆の織田本隊は浅井軍に負けそうになった。これに対し、三河衆の徳川軍 6 千は 1 万の朝倉軍にあたって
敵をうまく潰し、その勢いを得て織田本隊がようやく勝ったということにしてある。たしかに講師の安部が言うように、
尾張と三河を鮮明に対比するような単純化した決め付けは、司馬の得意とするところのようである。
なお、戦いに参加した兵数は文献によって違うようだが、
小説に書かれている数は国史大辞典が採用しているものとほとんど同じである。
- 家康は、武田信玄を尊敬しており、民政、戦略、平素の心構えまで信玄を手本にした (pp.44-45)。
家康には、信長のモダニズムも秀吉の派手好みも合わなかった (pp.45-46)。
- 三方ヶ原の戦いについては詳しく書かれている (pp.48-91)。家康が三方ヶ原の戦いに出たのは、司馬は不可解だとしている (pp.57-58)。
情勢を普通に見れば、武田側につく方が安全だし、織田方につくにしても、浜松城を本拠にしたりせず、
岡崎から尾張に逃げて織田本隊と合流すべきだろう。なのに、強大な敵を前にして浜松城を死守しようとしたのが
不思議ということである。
- 家康は、三方ヶ原の戦いではさらに無謀なことをしている。強大な武田軍が浜松城を無視して
西へ行こうとしていたので、そのまま城に籠っていれば良いのに、不利な野戦に打って出ている。
それはいよいよわからないので、司馬は以下のように狂気と描写している (pp.62-63、()内は私が加えたもの)。
(家康は)およそこどもくさいことを言った。
「敵がわが郊野を踏みつけつつ通りすぎてゆくのに、一矢も酬いずに城にかくれているなどは男子ではない」
というのである。(中略)家康というこの人間を作りあげているその冷徹な打算能力が、それとはべつに
その内面のどこかにある狂気のために、きわめてまれながら、破れることがあるらしい。
とはいえ、狂気では説明にならない。NHK の番組「歴史探偵」の「どうする家康コラボスペシャル」(2023/01/01) では、
以下の説明をしていた。武田信玄は、浜名湖に向かっていた。浜名湖を押さえられると、三河からの物資の供給路を
絶たれて浜松城が干上がってしまうので、家康はやむを得ず打って出た、というのである。
この説と本書の記述を総合して考えると、家康は、せっかく得た遠江を死守したくて、織田・徳川連合軍の
防衛ラインが天竜川だと思っていたのに、信長にとっては松平領はどうでもよく、防衛ラインを
境川(尾張と三河の境界)か矢作川(岡崎城)あたりだと思っていたのが、家康にとっての不幸だったということではあるまいか。
本書によれば、信長の援軍はまるで戦意がなかったようだ。
- 長篠の戦いの記述はほとんどない (pp.104-105)。武田が滅んだわけではないので、そこまで重要ではないと
見ているようである。
- 築山殿と長男信康を殺させた事件は詳しく書かれている (pp.91-147)。
Wikipedia によると、この事件の解釈には諸説あるようである。
本書での描き方は、おおむね以下の通り。築山殿はプライドが高く、何かと三河衆を見下していたので、
家康は手を焼いていたし、三河衆からは嫌われていた。家康との関係が冷え切り、信長の娘の徳姫が
長男信康に嫁入りして尾張衆が入って来てからは、築山殿はますます居場所がなくなった。
そこで、築山殿は、武田勝頼と内通し、信長と家康を暗殺する計画を立てた。これが徳姫を通じて
信長にバレて、かねてから信康を快く思っていなかった酒井忠次が家康側の使者になったために、
信長は信康を殺せという命令を出した。それでやむを得ず、家康は、築山殿と信康を殺せという命令を発した。
- その次が武田氏滅亡である (pp.148-176)。武田勝頼は猛将だったが、民政や部下との人間関係の作り方に
およそ能が無かったので、武田軍は内部崩壊し、天正十年に織田・徳川連合軍が攻めていくと、寝返りや逃亡が相次ぎ、
天目山の戦いで勝頼は自害した。侵攻において、織田軍と徳川軍のやり方が対照的に描かれている (pp.172-175)。
信濃から入った織田本隊は、武田一族を皆殺しにし、武田家に関係した建物には放火をした。
駿河から入った徳川軍は、まず駿河の穴山梅雪を調略して味方に引き入れ、甲州侍も大量に受け入れた。
家康は、信長から駿河を与えられ、穴山梅雪は甲斐の巨摩郡を与えられることになる。
- 本能寺の変の後のいわゆる神君伊賀越えでは、周囲にいた人がうまい具合にいろいろな役割を果たしてくれた
おかげで三河に逃げ帰れた様子が描写されている (pp.205-235)。本能寺の変の時、家康は信長に招かれて
堺見物をしていた。家康は、京に戻ろうとしていた時、事変が起こったことを聞き、明智方に襲撃されかねない
状況の中で三河に戻った。一緒にいた穴山梅雪は、家康と三河衆を信用できずに単独行動を取ったため、
明智方に家康と間違われて討たれ、結果的に家康の身代わりになった。家康の案内役を務めていた長谷川秀一は、
信長の秘書だったおかげで顔が広く、安全なルートと宿泊場所を探した。京都から逃げてきた織田家の政商の
茶屋四郎次郎は、家康一行に合流して、人々の懐柔や船の借り出しを行った。若くて武勇に優れた本多平八郎忠勝は、
先頭に立って家康を守った。家康は、父親が伊賀出身だった服部半蔵正成を部下にしており、その配下に伊賀者が
多かったことから、伊賀では地侍に守ってもらえた。
- 信長がいなくなって空白地帯となった甲斐と信濃をめぐって徳川と北条が争う(天正壬午の乱)(pp.245-266)。
ここでは、徳川軍八千が北条の大軍五万と対峙し、家康が有利な条件で講和することに成功した。これは、老練な家康と
暗愚な氏直の差であるように書かれている。家康は、甲斐と信濃を得た。
- ところで、家康の甲斐獲得の過程で、河尻与四郎鎮吉に本多百助が討たれる事件が出てくる。ここで、本多百助の名前を
司馬は本多百助忠俊 (p.252) と書いているが、これは間違いかもしれない(単なる誤植かもしれないが)。
Wikipedia によると、本多百助の別名は、信俊、光俊、忠政だそうである。ネットでざっと検索すると、
信俊か忠政を使っているものが多い。ただし、忠政は本多平八郎忠政と混同しそうなので要注意である。
- 家康は、甲斐を獲得したのちは、秀吉との関係をどうするかに腐心する (pp.266-341)。これが「小牧・長久手の戦い」
につながり、本作品後半の主たる内容になる。当初、家康は、信長の跡目争いは長く続くと見ていて、静観するつもりだった。ところが、
秀吉が急に躍進したので驚き、賤ケ岳の戦いの戦勝祝いとして、とりあえず、信長からもらった茶入銘「初花」を秀吉に贈った。
「初花」は、天下三肩衝の一つという名品である。この
「初花」は、その後巡り巡って徳川将軍家に戻って来て、現在は徳川記念財団の所蔵品になっている。
- 秀吉にとって、柴田勝家の次に打ち負かす必要があったのが織田信雄であった。しかし、信雄は主君筋なので、
自分から手を出すわけにはいかない。そこで、デマなどを用いて信雄を挑発した。家康としては、尾張・伊勢を領有する
信雄が自滅すると直接秀吉と対峙しないといけなくなるので、信雄と手を結んで支えた。これも秀吉の計算通りだった。
秀吉は、巧妙に信雄の三家老が秀吉と内通していると信雄に知らせ、信雄がその三家老を殺すように仕向けた。
これをきっかけに「小牧・長久手の戦い」(pp.332-480) が始まった。家康・信雄は、すばやく清洲城に入った。
- 「小牧・長久手の戦い」では、まず、秀吉方の池田勝入斎が犬山城を落とす。次に、
秀吉方の森武蔵守長可(ながよし)が小牧山を占領しようとして進軍したが、家康に先を越され、
羽黒で酒井忠次が指揮する家康軍に大敗を喫する (pp.341-368)。司馬は、森長可の将としての未熟さと不用意が敗因である
ように描いている。長可とその舅の池田勝入斎は、汚名を挽回しようと、敵の裏に回って岡崎城を攻略しようとする。
秀吉方のこの機動軍は二万であった。家康はこの動きをいち早く察知し、一万四千弱の機動軍を編成し、秀吉方機動軍を
後ろから襲撃した。この「長久手の戦い」(pp.368-451) で家康軍は秀吉方機動軍に大勝した。長可と勝入斎は戦死した。
司馬は、数で劣る家康軍がこの戦いに勝った理由は、家康の優れた戦場諜報能力にあるとしている。
長久手の戦いでは、一通り描写が終わった後で、安藤彦四郎直次と本多平八郎忠勝の活躍を説明して (pp.398-451)、
彼らのキャラも戦いを勝利に導いた理由の一つだとしている。
- 「小牧・長久手の戦い」はその後もじりじり続く。秀吉方が信雄の領地をじりじり侵食していくうちに、
信雄は秀吉が出した講和条件に勝手に応じてしまう。そこで家康も講和を余儀なくされ、長い戦いが終わる。
講和にあたって、家康は、秀吉に息子を人質として出すけれど臣従しないという珍しい態度を取った。
これには秀吉も困って、今度は秀吉が家康に母と妹を人質として出すという奇策を考えて、家康に上洛を促す。
- いわゆる「小牧・長久手の戦い」の見方は近年大きく変わっているらしい(たとえば、
YouTube 1、
YouTube 2)。
まず、長久手の戦いは、長い戦いの始めの方で起きた局地的戦闘だったので、それが全体を代表するかのような
名称にするのは不適切で、全体の戦いは「小牧合戦」と呼ぶ方が適切とのこと。
全体の構図としては、秀吉と織田信雄による「天下分け目の戦い」で、全国の大名を巻き込んだ戦いだった。
勝ったのは秀吉で、信雄が追い詰められて降伏し、そのために、秀吉が天下人となったと見るもののようである。
従来、「小牧・長久手の戦い」として、家康が勝ったかのように言われていたのは、徳川家による宣伝の結果なのだろう。
家康は、たしかに緒戦の「長久手の戦い」に勝ったのだが、その後じわじわと追い詰められており、
不利な講和を結ぶしかなくなった。そう言われると納得ができる結末である。
- 「長久手の戦い」における秀吉方機動軍の行動にしても、NHK「歴史探偵」によると、最近は少し違う見方がなされているようだ。秀吉の作戦の目的は、
家康を小牧山城からおびき出すことで、秀吉はそれには成功している。ただし、家康軍が、小牧山城に造った秘密の通路を使って
秀吉に覚られないように小牧山城から抜け出したのが、家康軍の勝利につながったということだ。
秀吉が家康軍の動きに気付くのが遅れたため、秀吉本隊は家康軍を攻撃できなかった。
- 家康が秀吉に臣従することになったのには、天正地震の影響が大きいというのが最近の見方のようである。
NHK「歴史探偵」によると、小牧・長久手の戦いの翌年、秀吉は大軍団で家康を攻め潰すつもりだったが、
11 月に大地震が起こって、前線になるはずの長島城や大垣城が全壊したので、戦争ができる状態ではなくなった。
そこで、秀吉は人質を家康に送るという奇策を用いて家康に臣従を促す作戦に変えた。家康としても、
これ以上抵抗を続けてもいずれ潰されるだろうから臣従せざるを得なかった、ということのようである。
- 「小牧・長久手の戦い」とその後の講和交渉にケリがついた天正 14 (1586) 年から、最晩年の元和元 (1615) 年に
話が飛ぶ。そして家康が胃癌と見られる病気で死んでゆく様子が描かれて、小説が終わる。