宮本常一も名前しか知らなかった。が、この放送を通じて、昔の普通の田舎の人々がどうやって生きてきたかを
伝える重要な役割を果たした人だということが分かった。
第2回の「寄りあい」の話は興味深かった。集落で大事なことを決めるときは、皆で集まって、
全員が一致するまで延々話をして決める。話をするといっても、相手を論破しようとするのではなく、
過去の似た経験をみんなで話していくのである。これは、昔の良き自民党政治のやり方に通じるのでは
ないかと思った。論理よりも昔の経験に頼るのは、保守の精神そのものだし、全員くたびれて
一致するまで話をするのは、民主主義の基本だと思う。非効率の極みだけど、
人間というものはそうでもしないと納得が得られないのではないかという気もしている。
民主主義は、論破でも多数決でもない。
第4回の「世間師」も面白かった。昔の田舎の人々は生涯同じ村にいるものだったかというと
そんなこともなくて、移住をしたり、嫁入り前に都会で奉公してみたり、諸国放浪して世間を見てきて
故郷に体験を伝える人がいたりで、そこそこ移動があり、知識を更新していたということである。
今で言えば、海外に行ってみて見聞を広めることに相当するのだろう。日本にもそういう人が一定数いないと
世界から取り残されてしまう。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 もうひとつの民俗学
『忘れられた日本人』introduction
- 聞き書きをしたエピソードがまとめてある。
- 「私の祖父」;祖父の市五郎の毎日の生活が書かれている。市五郎はマメダ(豆狸)の話をしてくれた。
宮本常一の生い立ちと民俗学
- 1907 (明治40) 年、山口県の周防大島で生まれる。
- 1924 (大正13) 年、大阪に出て郵便局員になる。父の善十郎から、「汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ。」
などといった十か条を授けられる。
- 大阪で尋常小学校に勤めるかたわら、方々を歩き回り、聞き書きをした話を「郷土研究」に投稿し始める。
- 渋沢敬三は財界人でありながら、民俗学に深い関心を抱き、アチック・ミュージアムを設立していた。
宮本は、その渋沢に見込まれ、昭和 14 年、教員を辞めて上京し、アチック・ミュージアムに入る。
- 日本の民俗学を始めたのは、柳田国男。柳田と折口信夫は、民間信仰や民間伝承を重視した。
これに対し、宮本は、生活誌や生活を支える技術を重視した。
- たとえば、オシラサマに関して、柳田は伝承を重視したが、宮本は人形の布地に注目した。明治初期から
化学染料が使われていることに気付いた。庶民は、意外にも新しいものをすぐに取り入れる。
- 『忘れられた日本人』の中の「文字を持つ伝承者(1)」は最初期のエピソード。島根県田所村の田中梅治(うめじ)に会いに行く。
田中は、田所村の歴史や農業技術を誇りをもって書いていた。
- 宮本は、80歳以上の古老から話を聞くことが重要だと考えていた。彼らは明治維新を経験していた人々で、
維新による変化を記録しておきたかったからだった。
第2回 伝統社会に秘められた知恵
「対馬にて」
- 宮本が古文書を貸してもらおうとすると、村の人たちは延々と話し合った。
議論をするというより、過去の事例を話して、納得がいくまで話す。
- 対馬の「寄りあい」というのは、合議制度で、満場一致になるまで話し合う。
- 寄りあいによって、みんなで家々の過去の歴史を共有する。
- 寄りあいの場では、複数の議題を話し合う。
「村の寄りあい」
- 福井県の敦賀で、老女たちの観音講が開かれていた。嫁の悪口を言い合ったりする会のようだ。
- 瀬戸内の村で女たちが情報交換をしている。その中では、農作業など共同作業の手順なども決められる。
- このような寄りあいが活発な共同体は、「年齢階梯制」の影響が強い地域である、と宮本は考察している。
その中では、同じ年齢層の村人が集団を作り、それぞれの役割を担う。とくに、年寄りの隠居組が
祭礼行事を取り仕切り、文化伝承の役割を果たしていた。
- 二十三夜講は、勢至菩薩を信仰するという名目の講だが、働き盛りの女性が愚痴を言い合う会。
それと同時に、養蚕技術の情報交換もしている。
「子供をさがす」
- 周防大島の農村の出来事。
- 子供が母親に怒られていなくなると、村人たちはめいめい自分の心当たりのある所に探しに出かける。
結局、その子は家で隠れていた。ところが、その子を探しに行った若い男が一人帰ってこない。彼は吞兵衛で子供に人気があった。
彼は、その子と仲の良い友達のいる山寺まで探しに行っていた。
「女の世間」
- 周防大島にはかつて、村の若い女性が、家を出て奉公などをする秘密の慣わしがあった。
これは、嫁入り前に一度は別の地方(都市)に行って、そこの習慣や方言を体験するというもの。
このことを「世間をする」と呼び、一種の社会教育だった。
昔の知恵を現代に生かす
- 昔は村の人々はお互いのことを良く知っていたということは、逆に言えば、息苦しさもあった。
それで現代の都市社会は、お互いのことを知らない社会になった。
- その現代社会でも、いったん災害が起きると、お互いのことを知らないと困る。
結局は、プロに救助を頼むということになる。
第3回 無名の人が語りだす
今日のテーマは、名も無き人々の語りから日本人の過去を探ること。
「土佐源氏」
- 土佐の橋の下で暮らす盲の老人の話。老人は、「ばくろう(馬喰)」だった。牛を飼って、売り歩いていた。
- 老人は、女性遍歴を話す。庄屋の奥方との逢引の話など。
- 土佐源氏のモデルの人物は確かにいたが、一部に創作が混じっている可能性がある。
- 「ばくろう」は、社会のアウトサイダー。
宮本の大阪での体験
- 宮本は、大阪で釣鐘町に住んでいた。同じ長屋には、貧しく、読み書きができない老人がたくさんいた。
宮本は、彼らの代筆や代読をした。彼らは、気が弱かった。宮本は、いろいろ考えさせられた。
- 周防大島では、島民の間での格差はそれほどなかった。それが、大阪に来てみると、凄まじい格差があった。
それが、宮本が貧しい人々に関心を持つきっかけとなった。
- 宮本は、クロポトキンの「相互扶助」の考えに惹かれていた。
「名倉談義」
- 宮本は、昭和 31~32 年、愛知県の名倉を訪れる。宮本は、古老たちと座談会を開く。
- その中から、さりげない相互扶助の姿が見えてきた。
- 没落した家に、戦後、息子が帰ってきた。ある朝、その家から後光が差していた。朝日が反射しているだけのことではあったが、
その後その家には良いことが続いた。
第4回 「世間師」の思想
「世間師」とは、外の世間を渡り歩く人々のこと。
「梶田富五郎翁」
- 対馬の浅藻(あざも)集落に梶田富五郎翁を訪ねる。
- 梶田富五郎は、周防大島に生まれ、明治9年7つのときに対馬に来た。
- 富五郎たちは、仲間たちと30年かけて浅藻に港を作り、浅藻は活気のある漁村になった。
- 日本人は、必ずしも皆定住民というわけでもなく、移住する人々もいた。
- 周防大島では、出稼ぎは珍しくなかった。ハワイ移民も多かった。
「女の世間」
- 周防大島の若い女は、女中奉公に出る習慣があった。嫁入り前の社会教育になっていた。
そして、島の人たちが知らない知識を持つことを誇りにした。
- 共同体の外側の社会の価値観を学ぶ人がいることは、共同体にとっても意味のあることだった。
「世間師(二)」
- 左近熊太翁は、河内国の滝畑という山村に生まれた。貧しい家に生まれた。
- 明治8年に滝畑の野山が官有林にされる。下げ戻しをしてもらうために、文字と法律を学び、
20年かけて官有林の払い下げに成功する。
- 56歳の時から70歳の時まで地方を放浪した。それでようやく世間のことがわかるようになった。
- こうした世間師がいたことで、日本の村々は少しずつ進歩していった。
世間師としての宮本常一
- 宮本は、人々の生活を数多くの写真に撮った。
- 宮本は、人々の生活向上のために、自ら得た知識や経験を伝え歩いた。
- 宮本は、地域の再生に力を尽くした。離島振興法 (1953 年施行)の制定に尽力した。
- 1980 (昭和 55) 年、周防大島で郷土大学を発足させた。