北村透谷(本名は門太郎)の妻・ミナの生涯を描いた小説。 新聞連載でも途中で筋がわからなくなることがほとんどなく読みやすかった。 著者が直木賞を受賞した『銀河鉄道の父』と同様の文学者の家族の姿を平易に描いている小説で、 著者の得意分野と言って良いのだろう。
明治時代にこんな女性がいたとは知らなかった。自立する女性である。ミナは、子供の頃から漢文に親しみ、 やがて共立女学校に入って英語を学ぶ。北村透谷と大恋愛の末結婚し、娘の英子(ふさこ)を生んだが、 ミナが 28 歳の時(小説では数え年を用いているらしく 30 歳と書いてある)に透谷が自殺した。 その後、シングルマザーとなったミナは、33 歳のとき娘を義母に預けてアメリカに留学し、 41 歳になって帰国した。帰国後は、英語塾を作り、その後、豊島師範学校の英語教師となる。 生徒の黒坂丈夫(たけお)がミナに恋をして失踪事件を起こすのが小説の最後のクライマックスである。
ミナは、学んだり教えたりするのが好きで、家事には向いていないが、教師が天職である女性として描かれている。 父親が進歩的な政治家であった石阪昌孝(苗字は「石坂」と書いてある文献もあるが、この小説では「石阪」と表記している) であることも大きく影響しているのであろう。 年譜を参考にして、学習・教育歴をまとめてみる。 7 歳で日尾直子の竹陰女塾に入って和漢の学習をし、直子に気に入られてやがて養女にまでなる。 17 (or 18 or 19) 歳 で共立女学校に入って和漢を学び、引き続き 21 歳から英語を学ぶ。23 歳で結婚してからは、 女子学院で英語の勉強を続ける。33 歳でアメリカに渡って、インディアナ州のユニオン・クリスチャン・カレッジ、次いで オハイオ州立デファイアンス・カレッジで学ぶ。41 歳で帰国してからは、英語塾を開き、 43 歳に豊島師範学校の英語教師となる。57 歳で、品川高等女学校(現在の都立八潮高校)の英語教師に転任となる。 65 歳で定年退職となるが、その後も嘱託で教師を続ける。この経歴は、今から見てもすごい。
それにしても、ミナが娘を義母に預けて一人でアメリカに留学してしまうのが驚きである。 しかし、そのために、帰国してから、娘の英子との関係はぎくしゃくしてしまう。小説では、 残念ながら、アメリカでのミナの生活には一切触れられていない。おそらく資料がほとんどなかったのだろう。 どういうカルチャーショックを受けたのかなど知りたいところではあるが、本人がそういうことを 書き残していないのなら、なかなか分かりようがない。
小説の中でミナの生徒として重要な役割を果たすのは、黒坂貫二郎とその従弟の黒坂丈夫(たけお)である。 貫二郎は、ミナが帰国して開いた英語塾の最初の生徒で、やがて大陸で一旗揚げようとして天津に旅立つ。 丈夫は、豊島師範学校の生徒で、ミナに恋をして、失踪と自殺未遂事件を起こし、小説のクライマックス場面を 形作る。その後、貫二郎と丈夫がどうなったのか気になるが、小説では書かれていない。
夫の透谷は、西洋文学に憧れながらもなかなか思うように作品が書けず、高い自尊心と自己否定の間を 激しく揺れ動く人物として描かれている。ミナは、許嫁の医師の平野友輔と結婚して安定した生活を 送ることを選ぶこともできたが、ジェットコースターのように精神が不安定な透谷の方を選んだ。 その結果、透谷は自殺し、ミナは自活するシングルマザーとして生きる道を選ぶことになる。