福沢諭吉 福翁自伝
著者
齋藤 孝
シリーズ
NHK 100分de名著 2025 年 9 月
発行所
NHK 出版
電子書籍
刊行
2025/09/01(発売:2025/08/25)
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読了
2025/09/28
『福翁自伝』は読んだことが無いが、解説を聞いて、福沢が無類の勉強好きだったことを知り、 嬉しくなった。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 カラリと晴れた独立精神
『福翁自伝』という作品
口述筆記で新聞連載された自伝をまとめたもの。
爽やかで率直な語り口が魅力。
福沢諭吉 (1835-1901)
1835 年、大阪に生まれる。
少年時代は、大分県の中津で過ごす。
1854 年、蘭学を志して長崎に出る。
1855 年、大阪の適塾に入門。
1860 年、咸臨丸で渡米。
1862 年、幕府の通訳として渡欧。
1867 年、二度目の渡米。
1901 年、死去。
少年時代の福沢諭吉
福沢諭吉は、豊前中津藩の下級武士の次男として生まれる。
中津藩の武士には100余りの階級があった。上士(上級武士)と下士(下級武士)に大別されていた。
諭吉の父の百助は学問好きで、「諭吉」の名前の「諭」は、中国の法令集『上諭條例』から取った。
諭吉は早くに父親を亡くし、母子6人で貧しい生活を送っていた。諭吉は内職をして家計を助けていた。
諭吉は門閥制度を憎んでいた。「門閥制度は親の敵(かたき)で御座(ござ)る。」 この怒りが後年の自由平等思想につながっているのだろう。
ある日、少年諭吉は藩主の名前が書かれた紙を踏んで叱られた。そこで、皆がありがたがるものを踏んで、 罰が当たるかどうか試してみた。御札を踏んでみたところ、何ともなかった。 お稲荷さんの御神体の石を捨てて、代わりに別の石を入れてみた。これも何ともなかった。
このように、諭吉は、少年時代から合理的だった。大人になってからも、殿様からもらった御紋服を たいした価値のあるものだと思わず、それよりお金の方が良いと書いている。
諭吉は初め勉強嫌いだったが、漢学を勉強するようになって学問の面白さに気付く。
諭吉はとある漢書の中の言葉「喜怒色に顕(あら)わさず」が気に入って、一生のモットーにした。 他人の評価に振り回されないということで、後年の「独立自尊」につながる。
1853 年、ペリー来航。全国で砲術を学ばなければという機運が高まる。 諭吉に長崎遊学の誘いが舞い込む。
福沢は、子供の時から大人になるまで莫逆(ばくげき)の友というような人はいない、と書いている。 他人との距離感は適度に保つ。
第2回 自分を高める勉強法とは
青年時代の福沢諭吉
1855 年、大阪の適塾に入門する。適塾は、蘭学の緒方洪庵による私塾だ。
適塾には全国から医学を志す学生が集まり、勉学に打ち込んだ。枕をして寝たことがないほど 本ばかり読んでいた。
適塾の勉強法は、「素読→先輩による講釈→会読(口頭試験のようなもの)」を繰り返すものだった。 試験の結果で席次が決まった。
緒方洪庵は、天然痘に対する牛痘接種を普及させたことで有名。
福沢諭吉は、オランダの築城術書を盗み写した。緒方洪庵は、それを諭吉に訳させることで、お金がない 福沢を学費免除にしてやった。
福沢は、無類の酒好き。酒を止めるために煙草を始めたら、酒も煙草もやるようになった。
1858 年、福沢は江戸藩邸で蘭学塾を開く。
1859 (安政6) 年、横浜に行った福沢は、オランダ語が通じないことにショックを受ける。当時、 横浜では英語が使われていた。福沢は、英語の必要性を痛感し、英語を勉強し始めた。
福沢は、英語がオランダ語に似ていることに気付き、オランダ語の勉強も無駄ではなかったことを知った。
福沢は、適塾時代を、目的なく苦学する時間は幸せだったと述懐している。 「ただ苦ければもっと呑んでやる」
第3回 人生の困難を切り拓く
壮年時代の福沢諭吉
1860 年、咸臨丸で渡米。
福沢は、友達のつてを頼って咸臨丸の艦長木村摂津守にお願いして、連れて行ってもらうことにした。
この方法は、ハーバード流交渉術を思わせる。(1) BATNA (Best Alternative to a Negotiated Agreement) =諭吉の場合は、交渉が失敗して咸臨丸に乗れなくても別に困ることはなかった。 (2) 関心利益=福沢からすれば経験値が得られ、木村からすれば従者が得られる=Win-Win。
咸臨丸の航海は、苛酷だった。でも、福沢は沈没の心配などしなかった。
サンフランシスコでの経験は驚くことだらけだった。 とくに、レディー・ファースト(女尊男卑)の文化にショックを受けた。
4か月の滞在を経て、帰国した。福沢のチャレンジ精神が成功した。
1862 年、幕府の通訳として渡欧。
福沢は、自分の経験値を上げようとした。
イギリスでは、議会制民主主義に学んだ。
1862 年、生麦事件。1864 年、禁門の変。
攘夷が吹き荒れる中、洋学者の福沢はおとなしくしていた。福沢は、幕府にも新政府にも加担しなかった。
福沢は、新政府からの出仕要請を固辞し続けた。
第4回 事業の達人に学べ
ゲスト:永松 茂久(実業家・作家)
明治時代の福沢諭吉
慶応4・明治元 (1868) 年、中津藩江戸藩邸で始めた塾を移転して、「慶應義塾」と命名。 福沢は、独自の現代的カリキュラムを組んだ。日本初の授業料制を導入した。
福沢は、慶應義塾ではプロデュースだけして、具体的な教育は教師に任せた。
慶應義塾では、生徒が少なくなったり教員が足りなくなったこともあったが、そんなことでは動じない。 福沢のメンタルはタフ。覚悟を決めていた。
永松が『福翁自伝』から学んだ執筆の5原則 (1) 読む人に分かりやすく (2) 語りかけるように (3) 読者を見下さない (4) エゴではなく読む人に役立つことを (5) 伝えるために
福沢は、明治2 (1869) 年、出版業に着手する。紙を千両分一度に買った。それまでの慣例では書店が利益を得ていたが、 出版社と著者が利益を得る仕組みにした。
福沢は、借金をしない。福沢は独立を侵されたくなかった。
明治15 (1882) 年、福沢は「時事新報」という新聞を創刊する。気象情報を初めて掲載するなど、 内容はバラエティーに富んでいた。
中津市歴史博物館に福沢の『縣内士民江告諭文』が保存されている。中津の人々に学問を奨励する文章で、 これを基にして『学問のすゝめ』が書かれたと言われている。
福沢は、故郷の近くの耶馬渓の競秀峰を、保全のために私財を投じて買う。現在のナショナル・トラスト運動に通じる行為だった。
福沢は、バランスが取れた人だった。