ヤスパース『哲学入門』はたしか学生の時に読んだことがあって、神がかっている気がして
あまりピンと来なかったのだが、この解説で背景を知ってだいぶん分かるようになった。
一口に哲学と言ってもいろいろな種類のものがある。ヤスパースの哲学は、悩みや苦しみのような
個人的な負の体験から出発するタイプのものであり、だからある種宗教的な色彩を帯びる。
私は若い頃は、哲学は宗教的であってはならないと思っていたので、そこが肌に合わないと感じた点であった。
この解説で、ヤスパースは、難病と祖国の社会の崩壊を出発点にしていたということを知って読むと、
それはそれとしてある程度理解ができるようになった。
とはいえ、その神がかりな部分である「包括者」の概念は、自然科学者としての私から見ると、
乱暴すぎて受容しがたい。今の科学的見地から見て、問題だと思うのは、無意識的な思考やホルモンの働きのような
意識では制御できない体や脳の働きが無視されていることである。人が決断を下すとき、
「突然確信が生れる」ことがあるように書かれているが、おそらくそれを準備する無意識的な
脳の作動が事前にあるのだと思う。そうしたことを「包括者」の作用だと一括するのは乱暴だと思う。
人には自由があるとしているが、どの程度自由なのかは精査しないとわからない。
主体と客体の分裂も問題になっているが、もともと自然の産物であるところの人間が
自然の研究をするということが不思議なことなので、その謎を解かないうちに「包括者」を想定しても
あまり意味が無いように思う。主体と客体が分裂して困るように感じているのは、
主体の側の驕りであるような気がする。主体も自然法則の中でジタバタしながら考えているのであって、
「考える」という作用をそれほど特権視することはないと思う。「考える」ことは、もともと生存に有利だから
進化してきた作用であり、そのうちに生存とあまり関係のないことまで考えられるようになってしまったものである。
そのことは実に深遠な自然の働きではあるが、だからといって、それほど考えることだけを特別扱いする必要もない。
「包括者」は「包越者」と訳されることもあるようだ。元のドイツ語は das Umgreifende である。
greifen が「掴む、握る」といった意味の動詞。greifend で現在分詞になり、それを名詞化すると
das Greifende 「掴むもの」になる。接頭辞の um- には、非分離前綴りなら「囲む、包む」、
分離前綴りなら「回る、回す、周囲に、ひっくり返す、方向転換する」等の意味がある。
それらを合わせて「包摂するもの」という意味になる。Ralph Manheim の英訳では
the Comprehensive である。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 哲学とはどんな営みか?
哲学は、当たり前を問い直す。『哲学入門』は、社会秩序が崩壊したドイツ社会に向けて、
ヤスパースが語りかけた哲学のすすめである。
カール・ヤスパース (1883-1969) の生涯と『哲学入門』
- 1883年、ドイツ北部の豊かな名家に生まれる。
- 大学で医学を学び、その時出会ったゲルトルートと結婚した。
- 精神科の医師として、ハイデルベルクで働く。
- 哲学科の大学教授に転身。
- 1937年、ゲルトルートがユダヤ人だったためナチスから敵視され、大学教授の職を追われる。
- 1949年、ラジオ講演『哲学入門』を行う。それがやがて本として出版される。
挫折が哲学の出発点である
人間が挫折をどのように経験するかということは、その人間を決定する要点であります。
「挫折」は単なる失敗とは異なる。それは、それまで当たり前だと思ってきた世界が粉々に砕け散るような体験である。
それを直視して引き受けることが大切。そこから哲学が出発する。
これまで哲学者が哲学の動機としてきたものには (1) プラトンの驚愕 (2) デカルトの懐疑がある。
ヤスパースは、これに (3) 挫折を加えた。
私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に
委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻きこまれているなどというように、たとえ状況の一時的な
現象が変化したり、状況の圧力が表面に現れなかったりすることがあっても、その本質においては
変化しないところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を
限界状況と呼んでいるのであります。
「限界状況」とは挫折や個人が陥る暗黒の状態である。「限界」というのは、人間に乗り越えられないもの、
無かったすることができないような体験である。誰もが「限界状況」に突き当たることがある。
ヤスパースにとっての限界状況は、ドイツ社会の崩壊だけでなく、生まれつきの肺や心臓の難病もあった。
落ち着いて会食もできず、冷え込む日は外出もできなかった。
挫折をすることによって初めて自分だけの生きる意味を考えざるを得なくなる。
限界において感得されうるものを通じて自己の限界を経験することによって、明瞭な対象的知においてのみ、
私たちの意識は明晰でありうるのです。
老いや死など自分では乗り越えられないものを経験することによって初めて、
自分が何者であるかを明晰に意識することができる。「対象的知」とは、
自分自身を対象として理解すること。
現象が私たちに透明になることによって、私たちは現象に結び付けられているのであります。
「透明」とは、自分の表層ではなく自分の内側にある真価を理解できるようになるということ。
人々が限界に直面しているのに、そこから哲学を始められないのは、シンプルに忙しいからだ。
ToDo リストの山が「限界状況」から気持ちをそらさせてしまう。
第2回 他者との交わり
哲学するには、他者との交わりが必須である。
哲学の方法~他者との対話
哲学的な生活態度はつぎの二つの道をとります。あらゆる種類の反省を通じてなされる
孤独な思弁と、共同活動・共同討議・お互いの沈黙、などにおいて
行われるあらゆる種類の相互理解による人びとの交わり、がそれであります。
ヤスパースは、難病を抱える自分を対等に扱ってくれる人を大切にした。
真理は二人から始まるのです。
「挫折」から再生するには、他者と共に考えていくことが必要である。
他の哲学者は、たった一人で考え抜くことが大切だと考える人が多かった。
しかし、真理は思い込みではない。他者に説明出来ることが必要である。
哲学は、他者との関係性の下に成立する。
実存主義の哲学の特徴は、人間の本質は自分自身で作り上げるとしたことにある。
その中で、ヤスパースの特徴は、その決断が孤独になされるのではなく、他者に説明できることを
要請していることにある。
哲学的な対話が成立するためには、他者が自分の意見を率直に言ってくれることが必要である。
その他者との間にはお互いの信頼が必要である。哲学的な交わりは「愛の闘争」である。
「愛の闘争」はお互いを理解するための対話である。論破でもディベートでもない。
「闘争」という言葉を使ったのは、ヤスパースが哲学を自分の存在を懸けた営みだと考えていたからだろう。
「愛の闘争」は完結することのない営みである。哲学は真理を探究することであって、常に途上にある。
哲学の対話では、人がどんな時代にどんな人生を歩んだのかが表現される。
人生は変わるものだから、哲学には終わりはない。
第3回 世界像は多様である
戦争は、世界像や価値観などの文化の違いから生まれる。どうすれば平和が達成されるのか。
世界像
文化の違いにより世界の見え方は異なる。これが「世界像」である。
たとえば、蛇はキリスト教文化では嫌われるが、日本では吉兆と見做されることがある。
世界像は、世界そのものではなく、世界の一断片に過ぎない。
「世界像」は、個々の人間の知識の総体に基づく世界の見え方であって、認識の大本にある。
科学であっても世界の一断片にすぎない。
「世界像」の形成には、歴史が深くかかわっている。これは歴史が絶対だと言っているのではなく、
歴史を知れば、絶対的価値観も相対化できるということである。過去を眺めることで、現在を違った形で
捉えなおし、世界像を訂正することができる。たとえば、恋愛が結婚の必須条件のようになったのは、
日本では戦後になってからのことである。
歴史は、ある種の物語である。歴史の物語は、絶対的な真理ではない。
価値相対主義を超えて
となると、価値相対主義をどう克服できるかが問題になる。どうすれば争いを乗り越えられるのか。
戦争は、世界像の異なる国の間で起こる。
人類の統一という目標であります。(中略)しかもそれは可知的・共通的内容として獲得されるのではなくて、
最高潮に達したとき、純粋の愛の闘争となるところの(中略)歴史的に異なったものの無制限な交わりにおいてだけ
獲得されるのであります。
「人類の統一」は、他者との一致ではない。私と他者は違いがあるまま対話を続ける。
わかりやすくいえば、「人類の統一」とは平和が達成されること。
平和と言っても、論争が止まった状態ではない。常に調整や交渉は継続している。
第4回 「包括者」とは何か?
包括者
哲学をするとき、考える主体(私)と考えられる客体(対象)が分裂する。
しかし、私がその中に含まれる何かを考えるときに問題が生じる。
言葉で考えていると、「考えていること」と「自分」が分裂してしまう。
「私」と「考えられている対象」をつなぐものが「包括者」である。
存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ《包括者》であらねばならない
ということ(中略)は明瞭であります。
包括者を感じるときは、自分を超えたものの中に包まれている感覚になる。それを言葉にすると分裂する。
ヤスパースは、「包括者」を「神」とも言い換える。
決断を下す時に、長い間迷った後に突然確信するということがある。私には選択の自由がある。
しかし、その決断の理由を説明できない。その背後には包括者がある。包括者に促されて、私が選択する。
人は、包括者によって自由が授けられている。
自由と責任
第二次世界大戦の間、ヤスパースは沈黙を守った。
ヤスパースは、戦後、レジスタンスに参加しなかったことに「罪」の意識を感じる。
人は、包括者によって責任も与えられている。自由には責任も伴う。
ヤスパースは、多様性をつなぐ基礎を包括者に求めているのだろう。