T はじめに 今回の巡検では、濃尾地震による断層地形と徳山ダムによる水力発電という2つの異なるテ−マが設定されていたが、訪問地がいずれも岐阜県北西部に位置しているので、2つの異なるテ−マを1日で効率的に見学でき、知見を広げることができた。 根尾村の濃尾地震による断層地形については、1987年8月21日に名古屋地理学会の巡検で訪れ、多少は学んだことがあった。井関弘太郎先生(名古屋大学)や岡田篤正先生(当時は愛知県立大学、現在は京都大学)など、多くの先生の案内によって有意義な1日を過ごしたことが17の歳月が経った今日でも思い出される。しかし、その巡検は断層地形だけがテ−マではなく、人文地理学的な事象も数多く盛り込まれていたので、駆け足で通り過ぎることになった。今回の巡検では、これまで疑問に思っていたことがある程度は解決できたこともあり、地球科学のおもしろさをさらに体得することができた。 徳山ダムについては、これまでは訪れる機会に恵まれず、今回が初めてであった。建設の是非が問われていたり、最近になって建設の主要な目的が利水から治水に変更されるなど、社会的にも注目を浴びているダムであるので、この地域に居住している人々の生活と地球環境問題について改めて考えさせられた。 U 根尾村の断層 1 濃尾地震の特徴 濃尾地震は根尾谷断層が水平方向に動いたことによって生じた地震であり、このため根尾谷断層は右横ずれ断層である、ということを事前の説明会で学習した。そして、現地の説明会では、根尾谷断層の断層線が一直線ではなくて、水鳥地区で複雑にずれていて、そのため水鳥地区でぶつかり合うような力が作用して逆断層が生じ、その後の土石の崩落によって正断層のようにみえるようになったこと、断層崖にくらべるとそれほどは注目されていないが、約2mの水平方向の横ずれも生じていたことなどを知った。これらのことが濃尾地震に関する大まかな内容である。 ところが私は、濃尾地震で最も有名な水鳥地区の断層の形状だけから判断して、この断層は正断層であり、引っ張り合うような力が作用して生じたと思っていた。事前の説明会と現地の説明会と2回もハッとした。高等学校の地理の授業(地形の営力)で間違ったことを教えてきたことに気づいた。地理歴史という教科の一つの科目として地理を教えるのであるから、本来は人文科学や社会科学の内容が中心で、自然科学の内容にまでは言及しないはずであり、それほど大したことではない、ということでは許されない。生徒たちに本当に申し訳ないことをしたと思っている。すでに1987年の巡検において中地区で横ずれ断層をしっかりと観察しているだけに、とても反省している。私が物事を深く追求する姿勢に欠けていたとしか言いようがない。 2 濃尾地震の変位 1回の地震による変位はわずか数cmでも、それが長い年月、たとえば第4紀くらいまでの期間を考えると、数百m程度の山地の形成は容易に理解できる。また1回の地震による変位から過去におきた地震の間隔や回数などを推定できるとともに、将来の予知にも応用できることになる。 中地区では、濃尾地震による茶畑や小道のずれが7m〜8m、近くを流れる神所川のずれが28m、C14の分析から神所川の段丘面の形成時期が14500年前、などのことがこれまでの調査から分かっている。すると
14500 ÷( 28 ÷ 7 ) ≒
3600(年) となり、過去において1回の変位が7m前後の地震が3600年前後の間隔で発生していたことになる。濃尾地震が発生したのは1891年であるから、今日で113年が経過している。すると 3600
− 113 = 3487 ≒ 3500(年) となり、あと3500年ほどで再び根尾谷断層が活動すると考えられ、将来の予知に利用できる。 このようなことが過去に発生した地震について研究されているが、実際に自分が現地を訪れて、どこからどこまでが濃尾地震による変位で、どこからどこまでが濃尾地震を含めた過去の変位(神所川の変位)かを歩数で実測して計算したのは初めてであり、大いに感動した。 3 濃尾地震の空中写真の判読 事前の説明会で空中写真の判読について、実体鏡を用いて行った。その中の一つに金原地区の空中写真があった。私はこれまで何度も実体鏡をのぞいて立体視をしたことがあったので、コツは分かっていたし、実際にこの地区の地形をよく立体視できた。 現地では時間の都合もあって、金原地区の説明に多くの時間を割くことができなかったのが残念であった。2kmの変位、河川の流路の変遷、金原が涸れ谷になっていることなどを実際に納得いくまで見学したかった。しかし、中地区や水鳥地区よりも、金原地区の見学には多くの困難や時間をともなうことが予測されるため、やむを得なかった。いつの日にか、金原地区だけを2日くらいかけて訪れてみたい。 4 濃尾地震の保存 17年前の1987年8月21日の写真を見ながら、当時の状況と今日の状況を比較したい。 写真1〜写真3は樽見鉄道の橋脚から断層線が延びる北西方向を撮影したものである。当時は地震断層観察館もなく、樽見鉄道にレ−ルも敷かれていなかった。ここに地震断層観察館が建設されることは聞いてはいたが、今回の巡検でようやく訪れることができた。地下観察館のトレンチでは、地下に掘り下げた断層を観察し、6mの地層の食い違いをみることができた。これが一瞬のうちに動いたことを考えると、相当なエネルギ−が解き放たれたことに思いをはせた。実際に地震の爪痕をみたのは初めてであったのでてても感動した。 写真4〜写真5は水鳥地区の6mの断層(逆断層)である。当時の写真と今回の風景を比べると、それほど変化しておらず、保存に留意されている様子がよくうかがわれる。 写真6〜写真9は中地区の茶畑や小道の横ずれ断層である。根尾村教育委員会による濃尾地震を説明する看板も新しくなり、行政による保存の姿勢が分かる。また当時の写真を見ると、茶畑を含めた土地利用などもそれほど変化していない。 とくに水鳥地区の断層(逆断層)は国指定特別天然記念物になっているが、後世の人々や研究者のためにも、ぜひとも保存を心がけていただきたいと思う。 V 徳山村のダム 1 水没する村 前述の1987年の巡検では当地へは足を伸ばさなかった。おそらくは工事そのものが始まっていなかったから、見学の意義が薄れると担当者たちが判断されたのではなかったかと推察される。工事が始まっていなかったからこそ、徳山ダムの建設予定地を見る価値があったのではないかと思う。今となっては、工事が始まる以前の状況をみることはできない。しかし、水没する村民たちへの補償として、大垣市やその周辺に代替住宅の建設が予定されていて、そこを訪れ、かなり広い敷地を補償してもらったのだなあ、という印象を受けた記憶をもっている。 村民のすべてが移転したとのことであるが、生まれ育った郷土を離れる心境はどうだったのであろうか。今春に名古屋大学文学部地理学教室を卒業された方のなかに、自らの卒業論文において、徳山村在住の増山たづ子さん(87歳)という一人の語り部に焦点をあて、この地域を人文地理学の観点から研究した卒業生がおられ、その研究の概要を卒業論文発表会で聞く機会を得た。卒業論文では雪深い山里での生活を紹介されていたが、その話が思い起こされた。私はダムの建設現場から奥地に入ったことはないので、徳山村の中心集落にまで足を伸ばし、やがてダム湖の湖底に水没していくことになる集落を見てみたいが、果たしてそのような時間的な余裕があるのであろうか? 2 ダムの特徴 徳山ダムは自然の岩や土を盛り立てることによってつくるロックフィルダムという型式である。建設資材の運搬が困難なところで、しかも岩が近くにあるところで採用されている型式である。ロックフィルダムはコア、フィルタ、ロックの3つのゾ−ンからなるが、幸いなことにコアやフィルタをほぼ一直線状に眺めることのできる高台に上がることができた。ロックをつくるために建設資材の岩を削り取る作業を見ることができなかったが、巨大なダンプカ−によってその一端をかいま見ることができた。 3 ダムの役割と目的 今から約40年前に計画が発案されたが、当初の目的は、洪水調節、流水の正常な機能、新規利水、発電などで、なかでも新規利水や発電に重点が置かれていた。しかし、その後の経済成長の減速、電力需要の低迷などから、2004年4月になって新規利水や発電よりも洪水調節の機能が強調されるようになった。しかも事業費が増額されたことが、さまざまな議論を巻き起こすきっかけになり、本当に必要性のあったダム建設であったのかどうか、流域の住民の一人として考えてみたい。 計画が発表された当時の日本は高度経済成長時代の真っ只中にあり、水需要や電力需要がさらに伸びることを誰しもが予想した。ただ今日にいたるまで、その後の経済や水需要や電力需要の動向を知ることができなかったはずはなく、たとえ計画や建設の途中であっても勇気をもって再検討することが必要だったのではないだろうか。そうすれば建設の途中から建設の目的が変わってくるというような混乱は防ぐことができたと思う。 何はともあれ工事が着々と進んでいるのが現実である。とすれば、どのようなダムにするのが理想的であるのかを考えてみることが必要である。揖斐川の上流域は木曽三川のなかでも有数の多雨地帯であるし、下流域は輪中地帯をなし、これまた有数の水害の常襲地帯となっている。そのための洪水調節の役割は重要になっている。 さらに夏季の渇水に備えるという機能も重要である。ここからの水が岐阜市などの生活用水として利用されるならば、それは有意義な事業になる。最近では夏季の渇水期に、一時的にではあるが、水が余剰になっているダムから水が不足しているダムへ供給できるように、2つのダムをつなぐことが試みられている。1994年と1995年の異常渇水を契機に検討されたことである。現地の説明者にそのことをたずねたが、検討事項だという返事だった。 これらの点を考慮したダム建設になれば、多くの住民の合意が得られると思う。 4 環境への配慮 ダムの建設にはさまざまな経緯があったため、また環境問題が注目を浴びている時代にあるため、さまざまな環境保全の取り組みが進められている。ダムの建設の理念は自然と共生したダムづくりにあり、そのために流域全体として調和のとれた自然環境を保全することを目的として、以前から生育・生息していた動植物である郷土種を尊重することがはかられている。具体的には、河川環境の保全、生物多様性の保全、モニタリング体制の整備、流域全体の適正な管理などが行われている。現地ではそれらの一つ一つについて確かめることはできなかったが、ダンプカ−の色彩が当地に生息している鳥類に配慮したものだとの説明を受けた。当たり前といえばそれまでであるが、自然と共生したダムづくりに意を尽くしてもらいたい。 W おわりに 今回の巡検では、自分の専門領域外の断層地形、自分の専門領域内の水利用の両方について見識を深めることができた。 根尾村の変動地形は、まずは自分の誤解を正すことができたことは何よりであったが、多くの地形学者の研究があるので、新しく得た知識を基礎にしてそれらの研究に目を通してみたい。徳山村の水利用は流域全体にわたる広い視野と将来を見通すことの重要性を考えさせられた。水収支などを考えるときの参考になると思う。