デューイ「論理学」ノート

第8章 直接的な知識―理解と推理

2001/12/24
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2002/01/05
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保証付きの言明には、すべて推理の働きが含まれている。 従来、直接的な知識(immediate knowledge)があるとか、 それが全ての知識の前提であるとかいった 考え方が行き渡っていた。合理論も経験論もそうである。ただし、 合理論と経験論とでは、その直接的知識の内容が異なる。
合理論における直接的知識
普遍的性格を持った究極原理が直接的知識である。理性がこれを把握する。
経験論における直接的知識
感覚に与えられたもの。いわゆる感覚与件(sense-data)。

しかし、直接的な知識があると考えるのは誤りである。

  1. 探究においては、以前の探究の結果が利用される。この以前の結果が 直接的な知識と混同されることが多い。
  2. 最終判断は、中間の部分的な判断の連続によって構成される。 こうした中間的判断の命題は、最終判断に達するための道具なのだが、 道具であることを忘れると、これが直接的な知識の対象であるように 思えてくる。
以上のことが誤りであるわけは次の通り。
  1. 以前の探究で決定された事実や概念は、次の探究では再構成の必要が あるかもしれない。
  2. 探究の過程で利用される命題は、問題によって有効であることと 有効でないことがある。たとえば古典力学の命題は、光に比べて 遅い現象では有効だが、高速の現象では有効ではない。 別の例では、ユークリッド幾何学の公理は、昔は真だと思われていたが、 今では、単なる前提であることがはっきりしている。

仮説は真でなくても良い。事実は、真偽のゆえに有効であるのではなく、 研究を進める暫定的な作業手段とされたとき、より適切でかつ重要な 他の事実の発見に導くゆえに有効である。

しばしば、直接的知識の必要性を説くために次のように言われる。 推理は、認識された事物を基礎とし、出発点としている。 したがって、そのような基礎となる真の前提がない限り、 いくら正しい推論をしても、真の結論に達することができない。 そこで、無限後退を避けるためには、直接知られる真理が 存在しなければならない。しかし、この論証は、次のように反駁できる。 仮説的な素材があれば、事実あるいは概念に関する新しい素材が 発見されるような道筋に探究を導く。この新しい素材は、出発点となった 初めの事実や概念よりも、より適切で実りの多いものとなるであろう。

言葉の使い方の問題:知識(knowledge)は、 最も厳密には保証付きの言明(warranted assertion) の意味で使われるべきである。しかし、知識を、理解(understanding) や了解(apprehension)の意味で使うこともある。

たとえば、ケンタウルスという観念を私は理解できる。しかし、 それが存在する根拠があるという意味で知っているわけではない。 これは、理解が保証付きの言明とは異なることを示す例である。 この両方に知識という言葉を使ってしまうと混乱が生じる。

また、経験があれば、これは本だとか、これはタイプライターだとか いったようなことは、直接疑問なしに分かる。このような知識を、 私は了解(apprehension)とよぶ。ここで、大切なのは、 これが本であると分かった結果、単に本を取り上げる、ということに なるだけなのか、探究行為の一部になるのか、ということである。 後者の場合、直接的に了解されたことは、正しいという保証がない ことに注意すべきである。かえって探究の妨げになる場合さえある。

以下では、歴史的な知識に関する理論の議論に移りたい。

(1) ミル(Mill)の経験主義的理論

ミルは、ア・プリオリな真理を否定する。しかし、一般的な真理の存在は 否定しない。真理の根拠は、直接的に知られる感覚(sensation)や 感情(feeling)にあるとする。しかし、直接的な知識の例として ミルが挙げているものは、明らかにおかしい。たとえば、「私は 昨日いらいらした」という文章がある。ここで、「私」の意味は、 長い間論争のテーマになったくらいで、直接的では全くない。 「昨日」も直接知られることではない。「いらだち」も、人間が 成長して行く中で習得される感情である。このようなことが自明に 見えるということは、実際的には重要だが、知識という意味では 全く自明ではない。

(2) ロック(Locke)の場合

ロックは、感覚(sensation)が知識の基礎であるとしながら、 感覚には物の真の構造を見出す力がないことを認める。 そこで、「自然の対象に関して一般的で、新しい知識を与える 確実な真理を発見することは決してできない」と結論する。

(3) 原子的実在論(Atomic Realism)
(訳注)「原子的実在論とは、 ウィトゲンシュタインやラッセルの「論理的原子論」のこと。 もはや分解できない「原子命題」が存在し、一般の命題は それの組合わせである。これに対応する「原子事実」が 存在し、世界は原子事実の総体である。

原子的実在論では、直接的な単純性質の了解は、原子命題を構成する。 たとえば、「これは赤い」のような命題である。しかし、この命題の 「これ」は、記述的な限定 (descriptive qualification) を意味しない。 意味するとすれば、それはすでに単純ではない。一方、「赤い」という ことを保証するには、多くの実験が必要であり、単純ではない。

「これは赤い」というような単純性質に関する命題は、 何かの問題解決のための証拠の一つと見るべきである。 原子的実在論では、命題が生じる脈絡を排除している。

問題を別な角度から眺める。従来の考え方

  1. 常識の世界と、知覚的である(perceptual)科学的対象の領域を区別する。
  2. 知覚(perception)を認識(cognition)のひとつの方法とみなす。
  3. 知覚されたものを、身分と能力において認識的(cognitive)なものとみなす。
これらは誤りである。
  1. 常識も知覚された対象を含む。ただし、これらは環境という脈絡でのみ 理解できる(環境という言葉については第2章参照)。 環境は、事物と生物の相互作用によってできている。環境の構成要素は 利用と享受の対象であり、知識の対象ではない。
  2. 知覚に関連していえば、環境は、時間的・空間的に広がった場を形成する。 それは時間的・空間的に孤立しているわけではない。

論理学にとっては、単純な内容に還元された与件(data)(Locke のいう 単純観念(simple ideas)、感覚(sensations)、Hume のいう印象(impressions)、 現代の理論のいう感覚与件(sense-data)、本質(essences))を考えるのは 誤りである。これらは、孤立している。これは、もともと、ある行動が 起こるときに、着目される対象を取り出して考えるという、心理学的な状態を 論理学に移し変えただけのものである。

次に、直接的な知識という概念を実証されるとされる議論を取り上げて 批判する。

  1. 体験して知っていることと、頭で知っていることを区別する。 これは欧米語では単語としても区別されている。たとえば、ラテン語の cognoscere と seire、フランス語の connaitre と savoir、ドイツ語の kennen と wissen、古い英語の ken と wit などである。体験した知識が 直接的かというとそうではない。第一に、それは獲得されたもので、 以前の経験に依存する。第二に、そのような知識は、保証付きの言明が 可能であるという意味での知識ではない。それは批判的な探究や改訂を 免れない。
  2. 実際上瞬間的である見分け(recognition)が存在する。たとえば、 あまり人を見分けたりする場合がそうである。しかし、それも、本当に 正しいかどうかは、きちんと探究してみないとわからない。

単純なものは、独立に存在するのではなく、探究のための道具である。 複雑な物事を単純な物事に分解することによって、探究が効果的に 行われるようになる。しかし、そうして得られた単純なことを実体化するのは 誤りである。

(4) 理解(Understanding) と会得 (Comprehension)

今までの議論
了解(apprehension)、すなわち 存在する題材の把握に関すること
ここでの議論
理解(understanding)会得(comprehension)、すなわち 意味や概念構造の直接的把握に関すること
われわれは、瞬間的に理解したり洞察したりすることがある。 しかし、これを保証付きの言明と混同してはならないことは、 対象やその性質の了解について述べたことと同様である。

まとめると、以下の2つの説は相伴っており、どちらも誤りである。

自明の現実的な「事実」という仮定は、自明の合理的な「真理」という仮定と相伴う。 実際、原子的経験論者であるラッセルは、ア・プリオリな一般的真理があるとする。 それは、たとえば以下のような論理形式である。「もし、あるものが性質 A を持ち、 性質 A を持つものは全て性質 B を持つものとすれば、そのあるものは 性質 B を持つ。」

しかし、このような論理形式の解釈は自明とはいえない。たとえば Peirce は 次のような解釈をし、私もその立場をとる。論理形式は、指導原理であって、 前提ではない。それは、探究操作を定式化したもので、これまでの事例で 確かめられた仮説である。論理形式に関する命題は、機能であり手続きである。 それは真でも偽でもなく、利用されてテストされるものである。

最後に補足

  1. 推理された解釈は、特殊によって検証されるわけではなく、 特殊を全体に秩序づけて組織する能力によって検証される。
  2. 推理だけでなくテストも論理形式の重要な機能である。

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