しかし、直接的な知識があると考えるのは誤りである。
仮説は真でなくても良い。事実は、真偽のゆえに有効であるのではなく、 研究を進める暫定的な作業手段とされたとき、より適切でかつ重要な 他の事実の発見に導くゆえに有効である。
しばしば、直接的知識の必要性を説くために次のように言われる。 推理は、認識された事物を基礎とし、出発点としている。 したがって、そのような基礎となる真の前提がない限り、 いくら正しい推論をしても、真の結論に達することができない。 そこで、無限後退を避けるためには、直接知られる真理が 存在しなければならない。しかし、この論証は、次のように反駁できる。 仮説的な素材があれば、事実あるいは概念に関する新しい素材が 発見されるような道筋に探究を導く。この新しい素材は、出発点となった 初めの事実や概念よりも、より適切で実りの多いものとなるであろう。
言葉の使い方の問題:知識(knowledge)は、 最も厳密には保証付きの言明(warranted assertion) の意味で使われるべきである。しかし、知識を、理解(understanding) や了解(apprehension)の意味で使うこともある。
たとえば、ケンタウルスという観念を私は理解できる。しかし、 それが存在する根拠があるという意味で知っているわけではない。 これは、理解が保証付きの言明とは異なることを示す例である。 この両方に知識という言葉を使ってしまうと混乱が生じる。
また、経験があれば、これは本だとか、これはタイプライターだとか いったようなことは、直接疑問なしに分かる。このような知識を、 私は了解(apprehension)とよぶ。ここで、大切なのは、 これが本であると分かった結果、単に本を取り上げる、ということに なるだけなのか、探究行為の一部になるのか、ということである。 後者の場合、直接的に了解されたことは、正しいという保証がない ことに注意すべきである。かえって探究の妨げになる場合さえある。
以下では、歴史的な知識に関する理論の議論に移りたい。
(1) ミル(Mill)の経験主義的理論
ミルは、ア・プリオリな真理を否定する。しかし、一般的な真理の存在は 否定しない。真理の根拠は、直接的に知られる感覚(sensation)や 感情(feeling)にあるとする。しかし、直接的な知識の例として ミルが挙げているものは、明らかにおかしい。たとえば、「私は 昨日いらいらした」という文章がある。ここで、「私」の意味は、 長い間論争のテーマになったくらいで、直接的では全くない。 「昨日」も直接知られることではない。「いらだち」も、人間が 成長して行く中で習得される感情である。このようなことが自明に 見えるということは、実際的には重要だが、知識という意味では 全く自明ではない。
(2) ロック(Locke)の場合
ロックは、感覚(sensation)が知識の基礎であるとしながら、 感覚には物の真の構造を見出す力がないことを認める。 そこで、「自然の対象に関して一般的で、新しい知識を与える 確実な真理を発見することは決してできない」と結論する。
(3) 原子的実在論(Atomic Realism)
(訳注)「原子的実在論とは、
ウィトゲンシュタインやラッセルの「論理的原子論」のこと。
もはや分解できない「原子命題」が存在し、一般の命題は
それの組合わせである。これに対応する「原子事実」が
存在し、世界は原子事実の総体である。
原子的実在論では、直接的な単純性質の了解は、原子命題を構成する。 たとえば、「これは赤い」のような命題である。しかし、この命題の 「これ」は、記述的な限定 (descriptive qualification) を意味しない。 意味するとすれば、それはすでに単純ではない。一方、「赤い」という ことを保証するには、多くの実験が必要であり、単純ではない。
「これは赤い」というような単純性質に関する命題は、 何かの問題解決のための証拠の一つと見るべきである。 原子的実在論では、命題が生じる脈絡を排除している。
問題を別な角度から眺める。従来の考え方
論理学にとっては、単純な内容に還元された与件(data)(Locke のいう 単純観念(simple ideas)、感覚(sensations)、Hume のいう印象(impressions)、 現代の理論のいう感覚与件(sense-data)、本質(essences))を考えるのは 誤りである。これらは、孤立している。これは、もともと、ある行動が 起こるときに、着目される対象を取り出して考えるという、心理学的な状態を 論理学に移し変えただけのものである。
次に、直接的な知識という概念を実証されるとされる議論を取り上げて 批判する。
単純なものは、独立に存在するのではなく、探究のための道具である。 複雑な物事を単純な物事に分解することによって、探究が効果的に 行われるようになる。しかし、そうして得られた単純なことを実体化するのは 誤りである。
(4) 理解(Understanding) と会得 (Comprehension)
まとめると、以下の2つの説は相伴っており、どちらも誤りである。
自明の現実的な「事実」という仮定は、自明の合理的な「真理」という仮定と相伴う。 実際、原子的経験論者であるラッセルは、ア・プリオリな一般的真理があるとする。 それは、たとえば以下のような論理形式である。「もし、あるものが性質 A を持ち、 性質 A を持つものは全て性質 B を持つものとすれば、そのあるものは 性質 B を持つ。」
しかし、このような論理形式の解釈は自明とはいえない。たとえば Peirce は 次のような解釈をし、私もその立場をとる。論理形式は、指導原理であって、 前提ではない。それは、探究操作を定式化したもので、これまでの事例で 確かめられた仮説である。論理形式に関する命題は、機能であり手続きである。 それは真でも偽でもなく、利用されてテストされるものである。
最後に補足