戸田山「知識の哲学」ノート
- 2002/08/04
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- 2002/08/06
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第1章 なにが知識の哲学の課題だったのか
- 知識の古典的な定義
- 知識の古典的な定義は次の3つの条件が満されることである。
- A さんはしかじかと信じている。
- A さんの信念は真である。
- A さんの信念は正当化されている。
ひとことでいえば、知識は「正当化された真なる信念」である。
- 「知っている」のいろいろ
- 「知っている」ということにはいろいろの意味がある。
- 命題知 know-that:命題で表現できる知識。本書で扱うもの。
- やり方を知っている know-how
- ○○とは何であるかを知っている(再認できる)know-what
- ○○とはどんなものかを知っている(体験したことがある)know-what-it-is-like
著者によると、4 は 2 の一種、3 は 4 と 1 の混ざったもの。
- 経験的な知識とア・プリオリな知識
- 哲学では、a priori な知識があるとされてきた。たとえば、
数学的知識、分析的命題、論理的トートロジー、「物体は広がりを持つ」
「出来事には原因がある」などなど。このようなものは
そもそも知識と呼べるかどうかも難しいので、本書では扱わない。
本書で扱うのは経験的知識のみ。
- 認識論的正当化と真理という目的
- 知識の定義で最も難しいのは正当化。そこで、知識の哲学の課題は
課題1:認識論的な正当化をそれ以外のものから区別し、認識論的
正当化のための基準を立てること
その正当化の目的は、真理への接近ということである。
- 知識の哲学のもうひとつの課題
- 正当化の基準を立てようとすると、その基準が「真理への接近」
という目的に照らして正当であるかどうかを判断するメタ正当化基準
が必要になる。
課題2:課題1により取り出された認識論的正当化のための基準が、
真理への接近という目的に照らして適切なものであることを示す。
著者によると、これはこのままの形では答えられない課題である。
第2章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ
- たいていの認識論的正当化は一種の推論である
- 正当化は推論である。推論には、演繹、帰納、アブダクションなどがある。
演繹は素姓が分かっているが、情報量を増やすものではない。
帰納、アブダクションによって情報は増えるが、
推論の素姓がはっきりしない。
- 遡行問題と基礎づけ主義
- 信念が正当となる前提を遡って行くとしよう。基礎づけ主義というのは、
その遡行が、他に依存せず正当化されるような基礎的信念で打ち切られる、
と考えるものである。
- 古典的基礎づけ主義は結局うまくいかない
- 古典的な基礎づけ主義とは、不可謬な基礎的信念があるとするものだ。
そのような基礎的信念には次の3つのタイプがある。
- 数学的、論理学的信念
- 「私は何かを信じている」といったタイプの信念
- 「私には赤いものが見えている」といったタイプの信念
いずれにせよ、このような強い基礎づけ主義はうまくいかない。
不可謬なことがらから演繹的に導かれることは不可謬である。しかし、
不可謬なものは情報を持っていない。たとえば、「テーブルの上に
パソコンがある」という信念は、「テーブルの上にパソコンがない」
ということがありうるからこそ情報がある。
反証されうるからこそ情報がある。
- 穏健な基礎づけ主義にも問題がある
- 基礎的信念の条件をもうちょっと緩くしてみる。基礎的信念は、
他の信念による推論による正当化以外のやり方で正当化されている
ようなもので、他の信念を正当化できるようなもの、である。
ただし、間違っていることはありうる。しかし、経験的信念を
正当化するのに、ア・プリオリな信念だけで済まそうというのは
所詮無理であるから、やはり無限退行に陥らざるを得ない。
第3章 基礎づけ主義から外在主義へ
- 内在主義と所与の神話
- 基礎的信念という考え方は無限退行に陥る。したがって、
基礎となるものは信念ではないという考え方が出てくる。
その典型的なものは、「原初的な認知状態」「直接的な気づき」
「直観」と呼ばれるもので、このようにして認知されたものを
「所与」と呼ぶ。認知状態は心の中のものなので、これは
内在主義の一種である。しかし、この立場も問題がある。
認知状態が内容を持つなら、それは誤りうるからやはり正当化
されねばならず、内容がないなら、他の認知状態や信念を正当化できない。
- 外在主義的な基礎づけと信頼性主義
- いままでの議論がすぐに無限退行に陥る理由は、問題を心の中でだけ
考えていたからだ(内在主義)。基礎的信念の正当化を、
「外界との適切な関係」に置けば良かろう(外在主義)。
「信念と外界との適切な関係」の一つの考え方は、法則的な
関連だ。2つのことがらの法則的な関連とは、一方が他方の原因であるとか、
両方が共通の原因から生じているとかいったことだ。
法則的連関が成り立ってくれるような過程を信頼のおけるプロセスと呼ぶ。
このタイプの外在主義を信頼性主義と呼ぶ。
- 外在主義をとりたくなる動機とゲティア問題
- 信頼性主義の利点の一つは、信頼のおけるプロセスの正当化を
本人が知らなくて良いということだ。これによって、無限退行が
生じなくなる。
外在主義に関連して、ゲティア問題というものがある。
ゲティア問題というのは、知識の古典的定義「正当化された真なる
信念」に反例があるというものだ。それは、正当化され真であっても、
その正当化の理由があとで嘘だとわかってしまったような場合である。
理由が嘘であったため当該命題がそれで嘘になるなら良いが、
その命題自体は依然として真であるような場合がある(偶然の一致)。
このような命題はどうみてもとても知識とは言えないが、知識の
古典的定義にはあてはまるので、その意味では知識ということになる。
- ゲティア問題への対応
- ゲティア問題への対応は、知識の定義に外在主義的な条件を
加えることである。以下にそのような条件の例を2つ挙げる。
- A さんの P という信念は、世界に生じている P という事態が
原因となって引き起こされたものである(知識の因果説):
ただし、これは、数学的な知識には使えないし、未来の予測にも
使えないし、どのような因果関係を適切とするかという問題も残る。
- A さんが P ということを信じるために持っている理由 R が次の
条件を満たす。すなわち、もし現実の事態が P でなかったら、
A さんは R をもたなかっただろう(反事実的な分析):
これは信頼性主義に近い。なぜなら、R と P の間の法則的関連が
あることが含意されているようなものだからである。
第4章 知っているかどうかということは心の中だけできまることなのだろうか
- 内在主義者が外在主義者を批判する
- 外在主義が内在主義と最も違う点:外在主義においては、知識の
正当化の根拠となる信頼できるプロセスをその人自身が知らなくても良い。
内在主義者は、情報の信頼性が本人に分かっていないんぢゃあ
おかしいぢゃないか、と批判する。
- ラディカルな外在主義
- 内在主義者の批判に対して妥協してしまうとおかしなことになるから、
開き直って、信念が知識であるためには正当化は不要だとするのが
ラディカルな立場。正当化は知識の構成要件ではなく、知識の
拡大のために便利な道具であると考える。こうすると、たとえば、
動物の持っている「知識」も知識となる。動物は、自分自身の
知識を正当化できなくても、いろいろな知識を持っていることは確か。
- 情報の流れとしての知識
- ドレツキは、知識を「情報によって生み出された信念」とする。
A さんが P ということを知っている、というのは、A さんの P という
信念が P という情報によって因果的に引き起こされた、ということである。
ここで、
F という情報が出来事 E を引き起こすということは、F を担っている
出来事 G が、出来事 E を引き起こすということである。
ここで、
出来事 G が F という情報を担っているということは、G が起きたとき
必ず F という情報が流れるということである。
だから、まとめると
A さんが P ということを知っている、というのは、A さんの P という
信念が P という出来事に伴って起こる因果的な情報の受け渡しを通じて
形成された、ということである。
- ドレツキの知識の理論を評価する
- ドレツキは「客観的な」情報の流れにより知識を定義しようとしたのだが、
ある出来事の情報は、情報の受け手がすでに持っている知識とか、受け手や
出来事をとりまく周囲の状況によって意味が変わってくる。だから、
情報とそれが伝える出来事との関係は単純ではなく、ドレツキの定義は
うまくいかない。
- われわれがドレツキから学ぶこと
- ドレツキの知識論の優れている点は、知識を自然界での情報の流れの
一コマとして位置づけようとしたこと。知識の哲学という文脈での
ポイントを3点挙げる。
- 知識を自然現象の中で考えるようになる。たとえば、
免疫系が抗原を「認識」すると言った場合の認識と、
人間の認識とはどうちがうのか?
- 伝統的には、知識は、信念のうちのエライもの、であった。
しかし、動物は知識を持っているわけだし、むしろ間違ったことを
信じるのは人間の特権であるともいえる。だから、知識ではなく、
むしろ間違った信念の獲得メカニズムを調べる方が
本質的ではないだろうか?
- ラディカルな外在主義の立場では、正当化は知識の要件ではなく、
知識の使い勝手が良くなるための道具である。
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