戸田山「知識の哲学」ノート
- 2002/08/06
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- 2002/08/08
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第5章 「疑い」の水増し装置としての哲学的懐疑論
- 懐疑論とは何か
- 懐疑論は知識を疑う議論だが、いろいろな種類のものがある。
- グローバルな懐疑論とローカルな懐疑論:グローバルな方は、
知識の全ての分野にわたるもの。ローカルな方は、
たとえば帰納法では知識は得られないとか、未来に対して
何も知り得ないとかいうような部分的なもの。
- 強い懐疑論と弱い懐疑論:強い懐疑論は、知識と正当化された
信念の両方を疑う。弱い懐疑論は、知識の概念を攻撃するが、
正当化された信念の概念は受け入れる。
- 培養槽の中の脳
- 懐疑論のパターンその1:ローカルで強い懐疑論
- 第1段階:あなたは自分が培養槽の中の脳でではないことを知り得ない
- 第2段階:もし P ならばあなたが培養槽の中の脳でないことが
わかるとする。
- 帰結:あなたは P ということを知らない。
この P には、たとえば、「あなたが椅子に座っている」とか「目の前に
パソコンがある」などさまざまのことがらが入る。このようにして、
懐疑が水増しされる。
ここでの議論には次の閉包原理を使用している。
[閉包原理] A さんが P ということを知っており、「P ならば Q」
ということも知っているならば、A さんは Q ということも知っている。
- 間違いからの議論
- 懐疑論のパターンその2:グローバルで弱い懐疑論
あるとき正しいと思っても、後になってみると間違っていることは
しょっちゅうある。正当化された信念でも間違っていることは
いつもありうるので、正しい知識などない。
- ヒューム的懐疑論
- 懐疑論のパターンその3:ローカルで強い懐疑論
因果やら帰納による信念というのは、心の習慣によるものなので、
それは合理的に裏付けられない。したがって、予測のようなことは
正当化され得ない。
第6章 懐疑論への間違った対応
- 方法論的懐疑
- デカルトは、あらゆる懐疑をくぐり抜けるような確固たる特別な
知識を見つけるために、いろいろなものを疑ってみる。これを
方法的懐疑という。これは基礎づけ主義プロジェクトの一環である。
- Step1 : 感覚的知識は、錯覚などがあるから知識の確固たる基盤とは
言い難い。(「間違いからの議論」的懐疑)
- Step2 : 夢と現実の決定的な区別はないから、外界を信用しては
ならない。(「培養槽中の脳」的懐疑)
- Step3 : 欺く神がいるかもしれないから、数学的知識も信用できない。
- 「我思う、ゆえに我あり」
- デカルトの結論 cogito ergo sum:疑う作業をしている限り、その
疑っているものが存在することを否定するわけにはいかない。
欺く神がいても、その対象である私が存在することを否定するわけには
いかない。
- デカルトの循環
- デカルトは、唯一確実な cogito ergo sum からいろいろな知識を
正当化しようとした。しかしまあ所詮は無理な話だった。
デカルトの功績は、徹底的に懐疑論に立ち向かおうとしたこと。
しかし、まずかったのは、絶対確実な知識を探して、それに基づいて
他の知識を正当化しようとする方針そのものである。
しかし、このやり方が、内在主義的で基礎づけ主義的な知識の哲学が
その後はびこる源となった。
- デカルトの基礎づけプロジェクトの意義
- デカルトの考えでは、われわれが世界を明晰に捉えられるように、
神様が数学を作ってくれた。だから、数学によってのみ外界を
研究しうる。この考えの意義は、数学が世界を知るのに役立つのは
なぜか?という問題が存在することをはじめて認識したこと。
- デカルトによれば、「神は欺かない」はずだから、われわれは
きちんと世界をとらえることができる。では、われわれにとっての
神とは何か?そういう役割をしてくれるものはあるのか?
第7章 懐疑論をやっつける正しいやり方
- ノージックによる知識の定義を理解する
- ノージックは「培養槽の中の脳」タイプの懐疑論をやっつけた。
まず、ノージックは知識を次のように定義する。
A さんが P を知っているということは
- A さんは P と信じている
- P は真である
- もし仮に P が真でなかったとしたら、
A さんは P と信じなかっただろう。:
この際のポイントは、 P でないというときには、P ではないが
それ以外のところは現実とほぼ同じであるような、P に最も近い
世界だけローカルに探索すれば良いということである。
- もし仮に、現実とほんの少しだけ事情が変わっているにも係わらず、
依然として P が真であるような状況に置かれたとしても、
A さんはやはり P と信じただろう。
ポイントは後ろの二つ。現実と違った可能世界で、現実と近いものでは、
P が真ならば A さんは P を信じるし、P が偽ならば A さんは P を
信じない。このような robustness (ノージック用語では、「知識は
真理を tracking する」)が信念の信頼性を外在的に保証すると考える。
- ノージックによる定義を使ってみる
- ノージックの定義では、たまたま真であったことが知識になるという
ゲティア問題を回避することができる。たまたま真であることは
ちょっと違った可能世界では偽になってしまうので、この定義が
要求する robustness を満さない。また、この定義では、
「あなたは培養槽の中の脳ではない」は知識ではない。
- ノージックの懐疑論論駁
- ノージックは閉包原理を拒否することによって、「培養槽の中の脳」
タイプの懐疑論を回避する。それは、「(P)あなたが椅子に座って本を
読んでいる」を知っているためには、「あなたが床に座って本を読ん
でいる」ような日常的な P でない場合に関してのみ、P と信じなけ
れば良いからである。P を知っているというときに、「培養槽中の脳」
のような SF 的な P でない場合まで想定する必要はない。
- ノージックの議論を評価する
- ノージックの議論は「培養槽の中の脳」タイプの懐疑論には有効だが、
「間違いからの議論」タイプの懐疑論には有効ではない。
そもそも「あなたが培養槽の中の脳であるかもしれない」ことを
認めている以上、間違いを犯す可能性があることを認めている。
(吉田注)閉包原理とノージックの議論に関する私のまとめ
- ノージックの議論に関して
- ノージックの知識の定義では、われわれが何かを知っているというときに
「P を知っている」世界と「P が真である」世界の境界が、現実という点と
その近傍でローカルに一致することを要求する。
P を知っているためには、
P が真であるような似たような世界でも P が真だと信じるし、
P が偽であるような似たような世界では P が真だと信じない。
つまり、知識というのは、ローカルに真であるような信念である。
- 閉包原理とノージックの議論
- 「P ならば Q」のときは、P が真である世界は、Q が真である世界を
含む。つまり、P が真である世界より、Q が真である世界の
方が広い。したがって、P の近傍よりも Q の近傍の方が大きい。
だから P の近傍を考えるときに、Q の近傍には思い至らない。
したがって、P に関する知識と Q に関する知識とは別物である。
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