戸田山「知識の哲学」ノート

第 III 部 知識の哲学をつくり直す

2002/08/09
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2002/08/09
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第8章 認識論の自然化に至る道

  1. 現代版基礎づけ主義としての還元主義
    クワインは古典的な認識論は破綻したと宣言した。19世紀中頃から 20世紀初頭にかけて数学の基礎づけが行われた。その結果、 数学は論理学と集合論に還元された。20世紀前半、他の科学も 同様に基礎づけしたいと考える論理実証主義が生まれた。 論理実証主義者は、世界に関する全ての文を観察文に還元しようとした。
  2. 知識の基礎づけという目標が幻だったなら、 心理学が哲学的認識論のライバルとして現れてくる
    クワインは基礎づけを批判する。クワインによると、基礎づけには 2つの意味がある。
    1. 概念的側面:難しい概念を明らかな概念に還元して意味を明らかにする
    2. 学説的側面:怪しい命題を確実な命題に還元して確実な基礎を与える
    数学は、論理学と集合論に還元されたが、集合論は上の2つの側面に 照らして、明らかで確実ではない。だから、失敗。 論理実証主義も、上の両方の点で失敗。しかし、だとしても 翻訳的還元には以下の2つの意味が残る。
    1. 科学的知識が、どのような観察に基づいているのか明確になる
    2. 理論語と感覚経験の結び付きがより深く分かるようになる
    しかし、それなら、人間の成長過程を心理学で追いかけるという アプローチも考えうる。一方で、論理実証主義者がやろうとしていたことは、 世界の論理的な再構成である。ただし、その再構成がうまくゆくには、 翻訳的還元がうまくゆく必要がある。
  3. 翻訳的還元の不可能性が認識論の自然化を避けられないものにする
    でも、翻訳的還元はできない。個々の理論文は、個別には検証・反証 できない(全体論 holism)。だから、個々の文を観察文に 結び付けることは不可能だ。
    クワインは、認識論を捉え直すことを宣言する。 認識論は自然科学の一部であり、貧困なる感覚から経験を超えた 内容を持つ科学的世界像が生まれてくるのはいかなるメカニズムによるのか? 認識論を自然科学の一部と考えることにより、脳科学や心理学を 利用できるようになる。

第9章 認識論を自然化することの意義と問題点

  1. 自然化された認識論は何についての主張なのか
    われわれには、3つの問いがある。
    1. われわれはいかにして信念に達するべきか(規範の問題)
    2. われわれはどのようにして信念に達しているか(事実の問題)
    3. われわれが信念に達するプロセスは、達するべきプロセスと一致しているか
    伝統的には 1 は哲学者の仕事で、2 は心理学者の仕事。しかし、 1 は 2 と独立ではあり得ないというテーゼが「自然化された認識論」。 最も極端な立場は、1 は疑似問題と考えるもの(一時期のクワインがそう)。
  2. 個別科学と認識論と懐疑論の関係
    伝統的認識論によると、認識論は科学に先立つ。それで初めて、 科学が疑いのない(懐疑論者にやられない)基盤に立つことができる。 しかし、懐疑論は、科学が錯覚を認識したから生じたものであり、 科学で解決すべきだ。科学と哲学は同じ船に乗り合わせていて、 それを外から眺める場所などない。
  3. 認識の規範性と自然化
    では、知識をどう獲得すべきかという規範の問題は どうなってしまうのか?規範は、工学のようなもので、 「何か上位の目的のために、○○すべきだ」となっているはずである。 上位の目的は「真理に到達すること」なのだろうが、果たしてそうなのか?
  4. 進化と認識論的規範
    「われわれのような生物は世界についておおむね正しい認識を 得ることができるだろうか?」という疑いを抱いてみる(懐疑論)。 著者によれば、懐疑論こそ世界に対するある程度正しい知識を 前提としている、と答えるべきだ。ところで、クワインは、それは真なる 信念を形成する能力は進化(自然選択)を通じて獲得されるのだと 答えようとした。しかし、生物の信念形成戦略が時として誤る例を いくらでも見つけることができるから、これはうまくいかない。 ところで、そのような例の意味は、「真理への到達」が必ずしも 生き残りに有利であるとは限らない、ということだ。だから、 そもそも真理の獲得を認識の目的として良いのか?という問題が生じる。

第10章 認識論にさよなら?

  1. 信念と真理と認識論のキワドイ関係
    そもそも認識論の問題設定には「真理」と「信念」が不可欠だ。 しかし、それらがそもそも何かを疑ってみる必要がある。
  2. 分析的認識論は無用である
    哲学の方法として大事なものに概念分析というものがある。 それは日常的な概念を分析して、そのコアを取り出すというものだ。 たとえば、日常的な「知識」という概念を分析した結果、 「知識は信頼できるプロセスによって形成された真なる概念である」 という構成要素が取り出せる、というもの。こういうことを 方法論とする認識論を分析的認識論という。しかし、 どういうものが知識であるべきかという概念分析をしようとすると、 それは文化や社会に相対的であるから、分析的認識論は 規範に対する問いに答えることができるはずがない。
  3. 認識における内在的価値と道具的価値
    まず、2つの言葉を定義
    1. 道具的価値:お金のように道具として価値があるもの。
    2. 内在的価値:それ自体として価値があるもの。たとえば「幸せ」。
    さて、正当化という概念には内在的な価値はない。それは、 文化などに依存する恣意的なものだからである。では、正当化は 道具的価値か?進化に訴えるのはうまくいかない。それは、進化が 必ずしも最良のものを選ばないからだ。
  4. 信念の内容と心理的意味論
    正当化された信念に内在的価値はないかもしれないが、 「真なる信念」には内在的な価値があるかもしれない。 しかし、「信念」をどう解釈するかは一筋縄ではいかない。 スティッチによると、信念は実在的な心理状態である。 それは脳の物理的状態である。すると、脳の状態と真偽とを どうやって結び付けるかに問題がある。それを結び付ける関数を 解釈関数と呼ぶ。頭の中には心的な文があって、心の中では それがいろいろ統語論的に操作されているのだと考える。 そうすると、その心的文に真理条件をどう対応させるかという話になる。 名詞や述語は「指示の因果説」で対応させられる。接続詞や 量化詞は、他の心的文との間に示す相互作用のパターン(これを 「因果的機能」とよぶ)によって対応させられる。
  5. 真理は認識論の目標ではない?
    しかし、上のような解釈関数に関する考えでは、心的語・心的文の すべてを捉えることができないし、解釈に恣意性がある。 ということは、信念に真理条件を与えるやり方にはいろいろあるし、 真理条件をもたないものもある。
    著者によれば、結局、認識論は、真理に内在的価値を置くような 生き方の勧めであった。
  6. 認知的プラグマティズム
    スティッチは、道具主義的な認知観を取る。認識は目的を達成するための 道具であり、その目的はいろいろあってよく、したがって、認知プロセスも いろいろあってよい(規範的認知多元主義)。
    チャーチランドによれば、脳の働きは4つのF(餌を取ること、 逃げること、闘うこと、子孫を残すこと)に生物を成功させること。 また、チャーチランドは、脳の情報処理は文という単位で行われていない、 と考えているから、そもそも真理という概念が重要でないことになる。

第11章 知識はどこにあるのか?知識の社会性

  1. 認識論の個人主義的バイアス
    これまでの認識論は個人主義であった。
    1. A: 知識はひとりひとりの個人の心に宿る 心的状態=信念の一種として実現される
    2. B: それが知識であるための正当化も各個人が 所有していなければならない
    これは、たとえばデカルトの方法的懐疑が外界の存在を疑ってしまう ようなところから来ている。 しかし、普通われわれが持っている知識の大部分は B を満していない。 さらに、良く考えると A も満していない。一番困るのは、科学的知識が この両方を満していないことだ。
  2. 認識論的依存
    知識の個人主義は成り立たない。たとえば、しろうとが 素粒子物理学の話を聞くことを考える。しろうとは、これを かなり弱い意味でも正当化することはできない。その話をしている 人が、エキスパートであるということを社会制度が保証している というようなことが、信頼性を保証する。そういうようなわけで、 認識論の社会化が必要である。
  3. 知っているのは誰?認知作業の社会的分業
    科学の研究では、とくに素粒子実験などでは百人くらいの共同研究が 行われる。そのような共同研究では、どのメンバーも研究の全貌を知らない。 そのような場合取りうる道は次のいずれかである。
    1. A さんは P ということを知っている。ただし、その証拠は 他人に依存している(認識論的依存)。
    2. A さんたちは P ということを知っている(集合的知識)
  4. 信念の内容は心の中だけで決まるのか
    信念は心の中の状態だとしても、信念の内容や真理条件は 世界のあり方に依存して決まる。[双子地球の議論]
  5. そもそも認識論は心の中の話なのか?
    心のモデルに、コネクショニズムというものがある。心の中には 心的文と言えるものはなくて、ニューロンの活性化パターンだけが あるという立場だ。すると、信念とは何かわからなくなる。 また、たとえば、DNA の塩基配列の表は知識であると言えるが、 信念であるとはとても言えない。信念は、存在するにしても、 知識を実現するひとつのやり方に過ぎない。

終章 認識論を作り直す

  1. 新しい認識論は自然化された認識論である
    自然化された認識論は、認識論である限り、どのように知識を 獲得すべきかという問題を問う。ただし、それは われわれがどのように知識を獲得しているかに照らして テストされる。テストの方法は難しいが、科学史の研究とか 心理学的なテストが考えられる。
  2. 新しい認識論の研究手法としてのコンピュータ
    認識論的規範を人工知能で(つまり計算機上で)試してみる という方法がある(計算論的科学哲学)。さらに、 コンピュータを使うと、人間にはできないような「合理的」 アルゴリズムを試してみることもできる(アンドロイド認識論)。
  3. 新しい認識論は社会化された認識論である
    科学をはじめとする知識生産活動は、社会的分業を通じて行われている。 それがどのようにするとうまく行くのかを調べる必要がある。
  4. 新しい認識論は「信念」を中心概念にしない
    信念は、知識の実現の仕方の一つ。データベースや図書館も 知識の倉庫の一つ。「情報」が信念に代わるキーワードになるだろう。
  5. 新しい認識論は「真理」を中心概念としなくなる(かもしれない)
    古典的には、知識と思考は文を単位にして考えられていた。 しかし、脳はそういうふうに働いていないかもしれない。 すると、外界を心の中に正確に表象すること、すなわち真理への 到達は認知活動の目的ではなくなる。しかしそうだとしても、言語が 科学の共同研究で用いられているのだから、言語の道具的価値は何か? という問題が現れる。
  6. 認識論の再構築に向けて
    このようにして新しい学際的な認識論が生まれるはずだ。

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