江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎

藤田達生著
講談社現代新書 1830、講談社
刊行:2006/03/20
名大生協で購入
読了日:2006/04/08

藤堂高虎本第2弾(第1弾はここ)。 これは歴史家が藤堂高虎の業績をたどった本である。

これを読むと、藤堂高虎が非常に有能で、徳川政権の下で今で言えば 「自民党国対委員長」兼「第○○師団長」兼「ゼネコン社長」兼「県知事」 のような存在であったことが分かる。 「自民党国対委員長」というのは、秀吉の死後、家康がヘゲモニーを確立するに 際して、着々と豊臣包囲網を作り邪魔者を粛清するのに、謀臣本多正信・正純とともに かなり貢献していると見られる点である。 「第○○師団長」というのは、藤堂高虎が歴戦の勇士で、関が原や大坂の陣では かなりの犠牲を出しながらも、先頭を切って家康のために戦っていることを指す。 「ゼネコン社長」というのは、築城の名手と言われたことを指す。 築城の名手というのは、城という大型構造物の設計、物資調達、職人の取りまとめ に長けているということで、要するにゼネコンをやっていたということである。 「県知事」というのは、藩主業であり、巧みな都市計画を行うことで 伊勢商人の繁栄の礎を築いている。

第2章は、関が原から大坂の陣までで、家康・秀忠政権が確立するまでの 粛清の数々が解説されている。これに高虎がかなり関わっていたと見られる。 今まで持っていたイメージでは、関が原が天下分け目で、大坂の陣は付け足し のようなふうに感じていたが、そうでもないことがこれを読んで分かった。 関が原は、豊臣秀頼が直接戦ったわけではないし、東軍にも豊臣恩顧の大名が かなりいたことから、関が原後も豊臣秀頼は他の大名よりも格が上であった。 そのため、家康は、豊臣恩顧の大名を改易・転封することで、大坂包囲網を 作り上げる。これに高虎が深く関わっていたと見られる。伊賀からは 筒井家を追い出し、信頼の厚い高虎を入れる。さらに、駿府とは船の便が良い 伊勢の津からは富田家を追い出して、高虎を入れる。 丹波からは前田家(玄以の子)を追い出し、一門の松平康重を入れる。 その際、丹波篠山城の普請を高虎が行っている。 高虎の工作によって関が原で寝返ってもらった脇坂家には淡路から 伊予大津に移ってもらい、城の建物も洲本から伊予大津(大洲)に移築している。 それに代って洲本に代官を派遣したのも高虎である。このように大坂包囲網の 確立にあたって高虎の名があちこちに出てくる。

家康・秀忠ラインの確立に当たって、幕閣どうしの抗争とキリシタン弾圧が 関わっているという説明も興味深かった。幕閣の大久保氏一門が力を持ってくると、 本多氏の陰謀で大久保氏が失脚させられた。これに高虎が関わっているらしい。 キリシタンの弾圧には、反秀忠勢力になりうる松平忠輝、大久保長安、 大久保忠隣、伊達正宗らがキリシタンの理解者であることが関係していたらしい。 つまり、キリシタン弾圧は、反秀忠勢力の排除に他ならなかった。 松平忠輝に対してはそれだけでは足らずに、改易となった。それに 高虎がどのくらい関係していたかは書かれていない。

第3章では、築城家、藩主としての高虎が語られる。徳川家に関わる多くの 城の普請を手がけたので、江戸の城郭建築のスタイルを決めることになった。 建築監督だけでなく、場所決めから、資材調達まで行っているので、 政府御用達のゼネコンの社長みたいなものである。高虎は政府中枢にいたので、 時代の流れにもまっさきに反応した城作りをしている。天守はもともと 主殿であり政庁であったのだが、今治城の建設に当たって層塔型天守という 新型天守を作ることで、天守が単なる最大の軍事施設となる流れを作った。 政庁の役割は、御殿が担うことになった。さらに、泰平の世になると 天守が不要になってくる。伊賀上野城においては、天守が建設中に暴風で 倒れて以降は、大坂の陣も終わったので不要と見て再建もしなかった。 津城でも、以前からの富田氏の天守をそのまま使い、それが失われた後は 再建されていない。

城づくりは同時にまちづくりでもある。高虎は、平行に走る直線的な街路を中心とした 経済重視の近世的な都市計画をしている。お膝元の伊賀上野、津では、 武家屋敷地区と町屋地区を分けて整然とした都市を作っている。伊賀は 従来上方とのつながりが強かったが、むしろ上野と津を結ぶ伊賀街道を 重視した経済政策を取った。津では、伊勢街道を城下町に引き込んで、 「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」の経済発展の礎を作った。