伊勢神宮

所功著
講談社学術文庫 1068、講談社
刊行:1993/04/10
文庫の元になったもの:1973/10 新人物往来社刊「伊勢の神宮」
名古屋本山の古本屋大観堂書店で購入
読了日:2006/12/22

伊勢神宮の諸相の解説。もともと 1973 年(第 60 回遷宮の年)に書かれたもので、 文庫化はそれから 20 年後の 1993 年(第 61 回遷宮の年)である。 文庫化の時に多少の加筆修正はなされているようである。

全体的には、比較的淡々と(でも伊勢神宮への尊敬語表現は怠りなく)書かれている。 私の好みとしては、本当はもっと醒めている方が良いかなとも思いつつも、 まあ入門編としては手頃な感じである。私はそもそも式年遷宮さえ あまり知らなかったので、勉強になった。


サマリー

第1章 神殿の原型

伊勢神宮の建物の原型は、高床穀倉建築であるという説明。

第2章 鎮座の由来

なぜ、神宮が伊勢にあるかということを記紀をたどりながら 説明している。ここでの立場は、おおむね記紀を信用している。神話の部分にも 何かの史実があるという考えに基づいている。
(吉田注)ここは、記紀を信用しすぎの感もある。 たとえば、神功皇后の新羅征伐は史実に基づくと考えている。 しかし、前に読んだ井上秀雄「古代朝鮮」 によると、継体王朝より前(5世紀以前)の日本と朝鮮との関係に関する 日本書紀の記載はおそらく歴史が改竄されたものであろう。

天照大神は、もともと宮中に祀られていた。祟神天皇のとき(3世紀後半)、 倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら;おそらく現在の桜井市)に神宮を作った。 次の垂仁天皇のとき(3世紀末から4世紀初め頃)に 奉祭役の倭姫命(やまとひめのみこと)が、神宮を伊勢に移した。 これが現在の内宮である。当時、伊勢は大和朝廷の東の前線基地だったと 考えられる。西の前線は摂津の住吉大社だったのだろう。

一方で、外宮の由来は、記紀には記述がない。「止由気(とゆけ)宮儀式帳」 などによれば、雄略天皇のとき(5世紀後半)に豊受(とようけ)大神 (=等由気(とゆけ)大神=止由気(とゆけ)大神=御饌津(みけつ)神)を 丹波から伊勢に移したのが始まりとされる。豊受大神は、食物神、あるいは 広く産業神である。天照大神の農業神的な側面を分離して豊受大神に負わせ、 天照大神を皇祖神として純化したものであろう。

第3章 恒例の祭祀

神宮で行われる恒例祭祀のうち、神宮独自のもので重要なものとして、 毎日朝夕の大御饌祭(おおみけさい)、および10月の神嘗祭(かんなめさい)を 中心に紹介している。

大御饌祭(おおみけさい)は、毎日2回、 外宮の御饌殿(みけでん)において、古式に則って神様に食事を差し上げる 行事である。食事は、水、塩、飯の3つが主といういかにも古来不変なもの。

神嘗祭(かんなめさい)は、稲作関連の数多の祭の中で最大のもので、 その年の初穂を神様に供進する祭祀である。10月に行われる。 日本が稲作農業国であることを典型的に示す祭である。

第4章 遷宮の歴史

式年遷宮とは、20年に一度、神殿を全部造り替えることである。 「式年」とは、式(律令の施行細則)で規定された年限のことで、 この場合20年である。「遷宮」とは、新しい神殿に御正体を遷すことを指す。

内宮と外宮の正宮の式年遷宮が定められたのは、持統天皇2年 (688 年) のようだ。 持統天皇は、天武天皇の妃である。天武天皇は、壬申の乱の勝利を 神宮に祈願しそれがかなったことから、伊勢神宮の制度を充実し、持統天皇も それを引き継いだ。さらに奈良時代に入って、式年遷宮が別宮にも広げられた。 その後、奈良末期から平安初期にかけて、摂社にまで拡充された。

室町時代になると、遷宮が滞りがちになり、応仁の乱以降の戦国時代には 100 年余り式年遷宮が全く行われなかった。1563 年、慶光院の清順尼の努力によって 外宮の遷宮が再興された。1585 年、それを引き継いだ周養尼の努力で、内宮と外宮の 両宮の遷宮が行われた。以後、江戸時代から現在まで、式年遷宮は、 ほぼ滞りなく行われている。御木曳(おきひき)、お白石持(しらいしもち)が お祭りのようになったのは、江戸時代からである。

第5章 遷宮の歴史

遷宮関連の儀式の説明。遷宮は20年に一度とはいえ、前後たくさんの一連の 儀式がある。神様を移す遷御の8年前から儀式が始まり、別宮、摂社まで入れると その後2年くらい儀式が続く。準備期間まで含めると、結局20年くらい かかってしまうわけで、要するに神宮にとっては常に遷宮関連の仕事がある ということらしい。さらに、20年に一度作り直すのは、神殿だけではない。 装束や神宝まで作り直すので、さまざまの作業が含まれる。

第6章 神宮の英知

最後に遷宮の意味などを考えつつ、神宮礼賛で終わる。もともとおそらく 20年という数字は、太陽暦と太陰暦が合致することが20年に一度起こることから 始まった。遷宮には、生命の甦りという意味もあり、伝統の伝承という意味もある。