全体的には、比較的淡々と(でも伊勢神宮への尊敬語表現は怠りなく)書かれている。 私の好みとしては、本当はもっと醒めている方が良いかなとも思いつつも、 まあ入門編としては手頃な感じである。私はそもそも式年遷宮さえ あまり知らなかったので、勉強になった。
天照大神は、もともと宮中に祀られていた。祟神天皇のとき(3世紀後半)、 倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら;おそらく現在の桜井市)に神宮を作った。 次の垂仁天皇のとき(3世紀末から4世紀初め頃)に 奉祭役の倭姫命(やまとひめのみこと)が、神宮を伊勢に移した。 これが現在の内宮である。当時、伊勢は大和朝廷の東の前線基地だったと 考えられる。西の前線は摂津の住吉大社だったのだろう。
一方で、外宮の由来は、記紀には記述がない。「止由気(とゆけ)宮儀式帳」 などによれば、雄略天皇のとき(5世紀後半)に豊受(とようけ)大神 (=等由気(とゆけ)大神=止由気(とゆけ)大神=御饌津(みけつ)神)を 丹波から伊勢に移したのが始まりとされる。豊受大神は、食物神、あるいは 広く産業神である。天照大神の農業神的な側面を分離して豊受大神に負わせ、 天照大神を皇祖神として純化したものであろう。
大御饌祭(おおみけさい)は、毎日2回、 外宮の御饌殿(みけでん)において、古式に則って神様に食事を差し上げる 行事である。食事は、水、塩、飯の3つが主といういかにも古来不変なもの。
神嘗祭(かんなめさい)は、稲作関連の数多の祭の中で最大のもので、 その年の初穂を神様に供進する祭祀である。10月に行われる。 日本が稲作農業国であることを典型的に示す祭である。
内宮と外宮の正宮の式年遷宮が定められたのは、持統天皇2年 (688 年) のようだ。 持統天皇は、天武天皇の妃である。天武天皇は、壬申の乱の勝利を 神宮に祈願しそれがかなったことから、伊勢神宮の制度を充実し、持統天皇も それを引き継いだ。さらに奈良時代に入って、式年遷宮が別宮にも広げられた。 その後、奈良末期から平安初期にかけて、摂社にまで拡充された。
室町時代になると、遷宮が滞りがちになり、応仁の乱以降の戦国時代には 100 年余り式年遷宮が全く行われなかった。1563 年、慶光院の清順尼の努力によって 外宮の遷宮が再興された。1585 年、それを引き継いだ周養尼の努力で、内宮と外宮の 両宮の遷宮が行われた。以後、江戸時代から現在まで、式年遷宮は、 ほぼ滞りなく行われている。御木曳(おきひき)、お白石持(しらいしもち)が お祭りのようになったのは、江戸時代からである。