対話・心の哲学     京都より愛をこめて

冨田恭彦著
講談社現代新書 1817、講談社
刊行:2005/11/20
名大生協で購入
読了日:2006/08/19

前作「観念論ってなに?」 がわかりやすかったので、この新作を読んでみようと思った。 今回もわかりやすい。

全体の内容をひとことでまとめれば、基礎づけ主義を捨てて、自然主義を 取ろうということで、それが哲学の歴史から語られる。ロックは、 今で言えば自然主義のようなものだったのだが、バークリやカントらの 観念論系列に入ってねじ曲げて理解されて否定された。 しかし、クワインやローティなどの現代アメリカ哲学によって 自然主義が新たな形で復活した。著者は自然主義の立場で ロックを再評価している。

以下、各章ごとの簡単なサマリー(プラス私のメモ)


各章のサマリー

第1章 おまかせのデカルト

「観念=イデア」という言葉の説明をめぐって話が進む。プラトンにおいては、 この言葉は、日本語の「概念」ということばとほぼ同じ意味である。 デカルトにおいてはそれよりも拡張されている。

デカルトは、すべての知識を基礎づけようとして「われ思うゆえに、われあり」 に行ってしまったわけだけれど、当然のことながらこの基礎付けは破綻している。 結局のところ、彼の哲学には彼の自然観が反映されている。それは「心身二元論」 と呼ばれる。デカルトにおいては、心と物体(身体は物体の一部)の2つの種類の 実体がある。これらの2つは全く別のものととらえられる。デカルトの物体の概念は、 現代のわれわれが持っているものとだいぶん異なる。物体が持っているのは、 延長、形、位置、運動といったような力学的・幾何学的性質のみであるとする。 色のような性質については以下のように考える。光という微細な物質があって、 それが物体に当たることである種の回転運動を持つことになる。 それを目がキャッチし、脳に伝えられることで、心に色の「観念」を引き起こす。 ただ、正確に言えば、「引き起こす」と言ってしまうと、脳という物体と 心の間に因果関係ができてしまうので、心と物体はまったく別のものという 考えに反する。そこで、脳に伝えられた運動が「機会」となって、心が色を感じる といったような持って回った言い方をする。これでわかるように、デカルトの 「観念」には、概念に相当するものだけでなくて、感覚されるものも含んでいる。

デカルトの「観念」をまとめると、心の在り方と、それによって表象されたものの すべて、である。たとえば、「赤」という色に関しては、「赤」と感じる心の状態と、 それによって心の中で表されているものが「赤」である。これに対応する物体としての 実体は存在しない。「神」に関しては、神を感じる心の状態と、心によって 考えられた神が「観念」で、これは実在している神とは区別される。

[吉田感想:哲学と自然観が不可分のものであることがよくわかった。 昔の哲学書がわかりにくいのは、自然観が異なるせいであることがよくある。 そういうことは、ちゃんと教科書で説明してあるべきだと思う。そこに ちゃんと気付かせてくれるのは本書の良い点である。ただ、 現代の自然観と対比されているともっと良かったかもしれない。 現代でも、色は直接物体と結び付いているわけではない。目という感覚器の 性質がどうなっているかを理解することがが色を理解する上で重要である。]

第2章 そして京都

知識や信念は1つだけ取り上げても真偽を論じることはできないという考え方を 全体論(ホーリズム)と呼ぶ。デュエムとかクワインとかがこの立場を取った。

クワインの高弟のデイヴィドソンは、「真理の対応説」を以下のように批判した。 「真理の対応説」とは、「信念が真であるのは、信念と事態が一致してるときである」 という考え方である。ところが、この「事態」というものは、それ自身が信念である。 たとえば、「雪が降っている」という事態なるものは、「「雪が降っている」という 事態が成立していることを信じている」ということと同じである。そう考えていくと、 観念論的になってくる。ただし、デイヴィドソン自身は、「真理の整合説」に 近い立場なので、観念論者ではない。さらに、デイヴィドソンは、実在については、 直接実在論的で、さしあたって特に理由がない限り、たとえば、 そこにピザがあるときには、それを信じて良いとしている。つまり、 その信念は暗黙のうちに他の様々な信念に支えられていると考えている。

そうすると、デカルトが絶対に正しいと考えた「私は存在する」も、 他の信念に支えられているのではないかという疑問が出てくる。 実際、よく考えると、デカルトの論理では、「私」を語るときに、 私以外の存在も前提にしている。

物と心の関係に戻ると、デカルトやロックにおいては、観念は物と心の 間に入るものであった。心が直接扱うのは観念で、物は間接的に観念を 惹き起こす物である。時代を下って、クワインは、外界と科学理論を つなぐものとして「体表刺激」を考えた。一方、デイヴィドソンは、 世界と理論の間に観念だの体表刺激だのの仲介物(「第三のもの」)を 入れることを、世界の在り方を分からなくする懐疑論だとして退けた。 観念しかわからないのなら、実際の物の存在はわからなくなるし、 体表刺激だけでは、外の世界の在り方がちゃんとわかるかどうか疑問である。 ところがこの考えは当たっていない。というのも、デカルトにしても クワインにしても、世界がおおよそどんなものかという自然観が 先にあるからである。世界の在り方をわからなくするのではなくて、 世界はだいたいすでにわかっているのである。

第3章 これがロックです

ロックが考えている物の認識の仕方を「知覚表象説」と呼ぶ。 物は直接知覚されるのではなく、それを表象する観念が知覚される。 これは外界の存在をわからなくするものだという批判が長いことあった。 ところが、現代科学でも、電子や陽子など直接知覚できないものの存在を 認めていることから分かる通り、直接知覚できるものだけを存在すると 言ってしまってはあまりにも世界が狭くなってしまう。ロックの哲学も、 粒子仮説という原子論の一種を元に作られていることを考えると、 実は自然な考え方なのである。ロックによれば、物は形や大きさなどの 「一次性質」だけを持つ。その他の性質(「二次性質」)については、 たとえば色は次のように説明される。光の粒子が物体の表面に当たって、 あるスピンを持つようになる。それが目に当たって(なぜかは知らないが) 色の観念を心に産み出すとする。われわれが知っている「物」は 色や温度などのさまざまの観念を複合したものだから、 ロックは「実体の複合観念」と呼んだ。

[吉田感想:ロックの自然観が、現代科学とも整合性があるものであることを 知って驚いた。光の持つスピンを周波数(あるいはエネルギー)で置き換えれば、 現代物理学の説明としてもだいたい成り立つ。]

第4章 なにかが変わった

バークリ、ヒューム、カントと続く観念論では、ロックの哲学から 粒子仮説の意味での「物そのもの」を否定して、観念と心だけを残している。 これはゆがんだ哲学だ。

第5章 基礎づけ主義再考

フッサールは、科学の基礎を考えるのに科学を使うことを拒否した。 クワインは、逆に、科学を用いて科学を考える自然主義を積極的に推進した。 そもそも絶対的真理などないであろう。仮にあったとしても、それを 具体的に適用しようとすると、状況に応じた知識が必要なはずである。 たとえば、「いまここでアップルティーを飲むべきかどうか?」という ことと「絶対的真理」を結び付けるにはいろいろな判断が必要なはずである。 絶対的真理があると信じる人々は、自分の信念が絶対正しいと思ってしまいがちで、 往々にして抑圧的になる。