科学の世界と心の哲学 心は科学で解明できるか

小林道夫著
中公新書 1986、中央公論新社
刊行:2009/02/25
名大生協で購入
読了:2009/06/27
著者はデカルト研究の世界的権威であるらしい。しかし、私から見ると、著者はデカルトに溺れて 世界が見えなくなっているのではないかとしか思えない。

第 I 部の「科学の目的と規範」では、科学のごく一部をとらえてあたかも科学の全体であるかのように言い、 科学の限界なるものを説明している。著者にとって、科学とは、デカルトに発する近代科学のみを指し、 古典力学から相対論力学のみを指しているようである。そうでければ当てはまらないことをたくさん書いている。 しかもその理解も怪しげである。おかしいと思えることを列挙してみる。

というようなことで、著者が科学と称しているものはかなり矮小である。

科学をそのように矮小化してしまえば、科学では心は扱えないと言うのは簡単なことである。それが、 第 II 部で言っていることである。しかもそこで使っているメインのレトリックは 以下のように方法論的懐疑を使ってみせる極めて怪しげなものである。

心の科学理論ができたとしよう。しかし、それを私は疑うことができる(方法論的懐疑)。 その疑うという働きは、科学理論をはみ出す。だから心には科学では解明できない部分が残る。
というわけなのだが、これは明らかに子供だましである。今さらデカルトの方法論的懐疑でも ないでしょうと言いたくなる。もし心の科学が完成すれば(もちろんすぐにできるとは思えないが)、 それは、当然疑うという働きの存在も含んでいるはずで、別段その科学理論をはみ出すものではない。 上のレトリックは、自己言及がパラドックスを生むというラッセルのパラドックスのような言語表現上の 問題であるにすぎない。

「物理主義=唯物論=自由意志の否定」と決めつけているのも気になる。 私は、世の中物理法則に従って動いていると信じているものであるが、同時に自由意思を否定するものではない。 たぶんこの本に紹介されている中では、チャーチランドの考えと似たようなものだろうか(私は チャーチランドの著作を読んだことがないからわからないけど)?物理学というのは、 それほど決定論的なものではなくて、いろいろなところで決定論的でない事柄が入ってくる余地がある。 著者は、チャーチランドの著作にいろいろ文句を付けているけど、科学で心が解明され尽くすのは まだまだだいぶん先の話だろうから、わかっていないところを指摘して、あそこがわかっていない ここがわかっていないと文句をつけるのは筋違いである。自由意志の本質も今すぐ分かるとは思えないけど、 それに物理学的な根拠がないとは誰も言えない。要するに科学はまだそんなところまで解明していない というだけの話である。