風姿花伝
世阿弥 著、野上豊一郎・西尾実 校訂
岩波文庫 青 1-1, 33-001-1、岩波書店
刊行:1958/10/25、刷:第 58 刷 (1998/05/15)
文庫の元になったもの:1400 年ころ成立、底本は 16 世紀半ばころの「宗節本」
どこで購入したか忘れた
読了:2014/03/28
世阿弥 風姿花伝
土屋惠一郎 著
NHK 100分de名著 2014 年 1 月、NHK 出版 [電子書籍]
刊行:2014/01/01(発売:2013/12/24)
電子書籍書店 honto で購入
読了:2014/03/29
原作
「風姿花伝」は、だいぶん前に読んで、それなりに面白かった気がする。
能と言えば、幽玄とかわびさびとか高尚なイメージがあるが、実は読んでみると、
劇団経営のハウツー本みたいな感じなのでおもしろい。今回、「100 分で名著」で取り上げられたのを機にもう一度読んでみた。
全体としては以下のようなことが述べられている。
日々研鑽を積んで、広いレパートリーを持て。それらを工夫していろいろ組み合わせて常に新しい趣向を見せることで、
観客を引き付けよ。観客の雰囲気をちゃんと読んで、それに合わせて演じよ。
このような考え方のもと、観客を引き付けるための心得がいろいろ書かれているというところが印象深い。
「花」や「幽玄」がキーワードである。
「花」は、優れた演者や演者が光っていることを花にたとえたものである。
「時分の花」は、若さゆえに光っていることである。
「まことの花」は、実力があって長い間光っていられることである。
「幽玄」という言葉は、今ふつうに使われているような高尚な意味で使われているのではなくて、
すうっと美しい姿のことを指している。「かわいい」とか「きれい」に近い。
たとえば、年来稽古条々の「十二、三より」では、「童形なれば、何としたるも幽玄なり」
(子供の姿なので、何をやっても美しい)と書かれている。ただし、
この時代に「幽玄」という言葉がいつでもそういう意味につかわれていたかというと、
そうでもないようだ。松岡正剛によると、
「方丈記」では、「幽玄」とは、目には見えないけれども、
そこはかとなく心に感じ入るような感覚が起こることであると説明されているそうだ。
ところで、上述の書評家の松岡正剛による書評によれば、
この本の根本思想は「秘すれば花」だそうである。しかし、それを根本と考えるのには違和感がある。
「秘すれば花」は、隠し玉を持っておけよ、というということで、これは「珍しきが花」を実現するための手段であるように私には読める。
サマリーを作ってみた。
- 第一 年齢ごとの御稽古の仕方
- 七歳:御稽古を始める歳。このころは、姿が可愛いので、自由にやらせるのが良い。
基本だけやらせて、あまり怒らないこと。それでやる気を無くしたら元も子もない。
- 十二、三より:だんだん曲を教えること。姿も声も、子供だからもともと美しい。
身のこなし、歌、舞の基本を一つずつきっちりとこなせるようにすること。
- 十七、八より:声変わりして、体つきも大人になるため、
アンバランスさが出てきて笑われることもあったりして、挫折しがちである。踏ん張りどころである。
- 二十四、五:この頃、姿や声が定まる。褒められても図に乗ってはいけない。
奢らず稽古をたくさんして、細かな演技までチェックすべきである。そうでないと、長続きしない。
- 三十四、五:このころが能の絶頂期である。このころ名声を得ることができるようでなければしょうがない。
- 四十四、五:年を取ってくるので、外見は衰えてくる。直面(ひためん、素顔で演じること)など、見るに堪えない。
良い共演者を持つようにしないといけない。共演者に花を持たせて、自分はあまり細かい演技をしてはいけない。
身の程を知ること。
- 五十有余:衰えてしまっているけれども、名手ならば花は残っている。
- [感想] 三十代半ばを境に上り坂から下り坂になるとしている。当時の平均寿命は短かったということもあるのだろうけれど、
五十代はもうお爺さんという感じなのが面白い。今の能だと、年寄りの方が芸が円熟して偉いというような感じになっているけれど、
もともとはそうでなかったことがわかる。その点、今の能は、若手を大事にしていない感じがする。それが人気が無い一因であろう。
- 第二 物まねのいろいろ
- 物まねは能の基本。位が高い人のまねは、いろいろな人の意見を聞きながら細かに行う。位が低い人のまねでは、下品な部分は似せないこと。
- 女:扮装と着こなしがとくに重要。柔弱さを出すこと。
- 老人:年功を積まないと難しい。縮こまるとつまらなくなる。花があって、なおかつ年寄りに見えるように注意する。
- 直面(ひためん):顔つきを似せるわけにはいかないから、振る舞いと雰囲気を似せるようにする。
- 物狂(ものくるい):非常に面白い。いろいろな狂い方があるので、その狂人の気持ちをしっかりと自分のものにすること。
女の狂人に修羅が憑いたり、男の狂人に女の心が憑いたりするのは、不自然で似合わない。直面の狂人は難しい。
- 法師:そんなに多くは無い。位が高い僧は、気高く、位が低い僧は、修行に励んでいる様子が分かるように演じる。
- 修羅:多いけれどもそんなに面白いわけではない。鬼や舞のようにならないように。
- 神:舞うようにするのも良い。衣装や着付けはしっかり整えること。
- 鬼:強く恐ろしく見えるように演ずること。
- 唐事:肝心なのは、扮装をそれらしくすることである。
- [感想] 能では、役に扮することを「物まね」と言う。能はリアリズムではないので、「物まね」というのも
変な感じがするが、能のような象徴的な演じ方も物まねということになるようだ。昔はもっと写実的だったのかもしれないけれど。
- 第三 FAQ
- [Q1] 能の初めに劇場の雰囲気を探るというのはどういうことですか?
- [A1] これは大切。劇場の雰囲気を探って、人々が静まって役者を今か今かと待つようになったタイミングを見計らって出てくるべきだ。
どうしても人々が静まりきらないうちに出るときは、声や振りを少し大きめして、人々を静めないといけない。
夜に演ずるときには、最初に明るい作品を演じること。昼は静かに、夜は明るく、陰陽のバランスを取るべし。
- [Q2] 序破急とは何ですか?
- [A2] 最初の作品は、由緒正しくゆったりとしたお祝いの意味のこもったものにする。最後の作品は、テンポも速く激しいものにする。
また次の日に演じるものは最初の日とは趣を変える。
- [Q3] 立合の勝負のコツは何ですか?
- [A3] 敵とは対照的な趣のものをやれば、なかなか負けない。自作のレパートリーを多く持っていると融通が利く。
良い作品を上手に演じるのが第一、まあまあの作品を上手に演じるのが第二、作品はダメでも何とか演技でカバーするのが第三。
- [Q4] ベテランの名人に若手が勝つことがあります。これはどういうことですか?
- [A4] これが時分の花というものだ。名人でも歳を取れば、花が無くなる。
名人でも工夫が必要。工夫をしていれば、花が無くなることはない。
- [Q5] あまり上手でない役者でも、ある部分では上手に勝つこともあります。上手はその下手な役者の真似をして良いのでしょうか?
- [A5] 誰でも得意な部分がある。下手な役者でも上手い部分はあるし、上手な役者でも下手な部分もある。
上手な役者でも、下手な役者の上手い部分は学ぶと良い。プライドに縛られると、自分の悪いところが分からなくなる。
他人の良いところはお手本にして、悪いところは反面教師にして、常に工夫と稽古をしないと腕が上がらない。
- [Q6] 芸の上手下手はどうすればわかりますか?
- [A6] 目が肥えていればすぐにわかる。生まれつき品があるのを「長(たけ)」と言う。
「位」は、生まれつき、もしくは稽古の結果自然と出てくる芸の品格のことである。
勢いがあって芸の幅が広いことを「かさ」と言う。
- [Q7] 「文字に当たる風情」とは、どういうことですか?
- [A7] セリフと身体の動きがよく対応していることだ。音楽と動作とが調和するのが上手というものである。
- [Q8] 「萎(しお)れる」という批評は、どういうことですか?
- [A8] 花があって初めて出てくる風情の事である。花があって、その上にそれとコントラストをなす萎れるということが出てくる。
- [Q9] 花が一番重要なようですが、どう考えたらよいですか?
- [A9] まさに最重要。容姿から来る花はいずれ散る。本当の花は失せない。稽古と工夫をして初めて本当の花が得られる。
- [感想] 奢らずに日々精進すべしというのは、永遠の真理なのだろう。
- 第四 能の歴史
- 申楽のおこりは天の岩戸の前の踊りである。
- 仏教には、釈迦如来と弟子たちが、提婆と外道を音楽と演劇で鎮めたという話がある。
- 秦河勝伝説。聖徳太子の命により、河勝は内裏で演芸を行った。
聖徳太子は、神楽の示偏(しめすへん)を除いて、申楽と名付けた。
河勝は、のちに大荒(おおさけ)大明神となり、赤穂市坂越にある大酒神社に祀られた。
本地は毘沙門天である。
- 村上天皇のとき、秦氏安が祈祷として申楽を行った。その後、式三番として、
翁、三番叟、父助(ちちのじょう、現在では行われない)を定めた。
氏安の子孫が金春流となる。
- 当時の寺社における興行について。大和四座、近江三座、咒師二座、法勝寺三座。
- 第五 奥義
- 近江申楽は、姿かたちが第一、物まねが第二。大和猿楽は、物まねが第一、姿かたちは第二。
しかし、本当の名手は、いずれも区別なく上手にできるものである。
変にプライドが高い人は、ひとつの流儀にこだわって他の流儀ができなくなる。
- 人気にはいろいろな場合がある。見る目がある人は上手下手を的確に見極めるが、
見る目がない人にはよくわからない。工夫を極めた演者ならば、見る目がない人にも
受けるような演技をする。このような名手のことを花を極めたというのである。
- 自分の座の芸風をしっかり身に付けたうえで、他の芸風も学ぶべきである。
- 芸能は壽福増長である。都会でも田舎でも誰からも愛されるのが壽福の達人である。
このような達人は、流行で一時的に人気が落ちることはあっても、いずれ復活する。
- 第六 花を学ぶ
- 台本を書くこと。最初の能はおおらかに、二番目、三番目と進むにつれて細かく書く。
山場に有名な詩歌を持ってくる。わかりやすく響きのよい言葉を使うのが基本だが、
時にはごつごつした言葉を使うのも良い。ただし、下品になってはいけない。
- 最上の能は、由緒正しく、様子が珍しく、山場があって、美しいもの。
第二は、様子が珍しくはないけれども、すっと素直なもの。
しかし、悪い能でも工夫すればそれなりに面白く演じることができる。
- ものごとは、何でもバランスである。ときには良い能を上手が演じても
うまくいかないこともある。そこは何とも難しい。
- 音楽と所作がマッチしているのが良い。
上手な演者は、音楽から自然に所作が出てくる。
逆に、台本を書くときは、所作を念頭に置いて、それに音楽がマッチするように考える。
このようにして、音楽と所作が一体のものになる。
- 強いのは良いが、荒いのは良くない。幽玄なのは良いが、弱いのは良くない。
これらを取り違えてはいけない。基本は、物まねをしっかりすることである。
物まねをしっかりすれば、自然と強さと幽玄が出る。
台本の言葉も役と場面にふさわしいものでなくてはならない。
- おおらかな能と細かい能とがある。おおらかで由緒正しい能は難しい。
細かくて幽玄な能は比較的易しい。
- 技術的に上手でも、場面をわきまえない演者もいる。技術的にそれほどでなくても、
場面をよくわきまえて評判が良い演者は、能をよく知っているというべきである。
両方できるに越したことはないが、棟梁にふさわしいのは、どちらかといえば後者のタイプの人である。
能をよく知っている演者は、自分の欠点もわかっているから、うまく工夫して
欠点を隠し、美点を見せるようにできる。能を知っていて工夫があれば、花が長く残る。
- 第七 口述の秘伝
- 花とは、珍しいこと、面白いことである。常に変化を持たせることが必要になる。といって、世の中に存在しない者の姿をしてはいけない。
レパートリーを広げておいて、その中からその時に合ったものを取り出すということである。
たとえば、幽玄な作品が得意な演者が、たまに鬼を演ずると、珍しく、花があるということになる。
- 振りだとか声だとかに工夫を加えると、同じ作品でも、風情が出てきて面白くできる。
- 物まねは、自然に似せるのが良い。たとえば、老人でも花があるというのは、テンポを少し遅らせるというのが基本で、
あとは花やかに演じるのが良い。老人というのは、若く振る舞いたいけれども、どうしてもテンポが遅れる。
その様子が見えるのがよい。
- 物まねのレパートリーを広げておけば、工夫や組み合わせの幅が広がる。いろいろな年齢の役を演じることができるようになるのも良い。
ただし、実際にはそれができる人はほとんどいない。
- バランスが大切。怒った演技をするときでも柔らかな心を持つように。幽玄な演技をするときも強い心を忘れないように。
体を強く動かすときは足運びは控えめに。足運びを強くするときは体の動きは控えめに。
- 秘すれば花、隠し玉をいつも持っておくと良い。
- 空気が、自分たちにとって良い時もあれば、悪い時もある。
悪い時にはあっさり済ませるようにして、ここぞというときに、得意な能を持ってくること。
- 絶対的な良し悪しというものは無い。時に依るのである。その時、その雰囲気に合わせて、珍しいと思われるものを演じること。
この岩波文庫版は、索引が付いているのが良い。前にこんな言葉があったけど、どこだったっけなということがしばしばある。
そのときに索引が重宝する。
放送と照らしてみて、注に変ではないかと思われるところを発見した。
- p.16 「立合勝負」
- 注では、青年役者が元名人と言われたような人と競演すること、と書いてある。
しかし、放送(テキスト p.85)によれば、世阿弥の当時の能は、複数の劇団や役者による競技形式で演じられており、
これを「立合」と言ったとのことである。必ずしも青年役者と元名人でなくても良いようである。
もっとも、p.44 では、複数の劇団による競演と書かれている。
放送テキストのメモ
放送テキストの方は、「風姿花伝」だけでなく「花鏡(かきょう)」からも多くを取ってある。
それで、「風姿花伝」とは少しニュアンスが違う部分も含まれている。
第1回 珍しきが花
世阿弥、能、「風姿花伝」の全体像のざっとした説明が書かれている。後半部に、世阿弥が能を革新した点が書かれている。
とくに (1) 「複式夢幻能(二ツ切の能)」という形式を発明したことと (2) 文学作品(「源氏物語」や「平家物語」など)を舞台化したこと
とが重要であるとしている。
世阿弥は「花」という言葉を良く使っている。「珍しきが花」ということで、常に新奇性が無いと観客が飽きると言っている。
第2回 初心忘るべからず
「初心忘るべからず」は「花鏡(かきょう)」に出てくる言葉である。
そこでは、「初心」は、今までに体験したことのない新しい事態に対応する心構え、
あるいは試練、と呼ぶべきような使い方がなされている。
24,5歳ころに最初の初心があり、次に中年の初心、最後に老年の初心が来る。
[吉田注:「風姿花伝」での用法は、むしろ「初心者」の「初心」である。]
「風姿花伝」の「第一 年来稽古条々」では、人生の七つのステージにおける
稽古の仕方が述べられている。人生、34、5歳のころをピークにして上って下る。
とくに老いをめぐる考察が重要で、老いてもその限界の中でできること、
あるいは老いてこそできることがある。
[吉田注:「風姿花伝」では、それほど老いを重要視していないように見える。
これは、「風姿花伝」が世阿弥が若いころに書かれ、ここで引用されている
「花鏡」や「至花道」が老いてから書かれたものであることによるのだろう。
また、解説の講師が熟年であることにもよるのであろう。]
第3回 離見の見
世阿弥の「幽玄」は、具体的で、童形、高貴な公家などの姿を形容する言葉である。
「花鏡」では、あらゆるものを幽玄に演じよ、とか、能で一番大事なのは幽玄な様子だ、などと言っている。
[吉田注:ここでの引用を見ると、「風姿花伝」の幽玄と「花鏡」の幽玄とは少し違うようである。「風姿花伝」の方は、
子供、女性、公家など柔和な美しさのことを言っている。「花鏡」ではもう少し広がって、あらゆるものを幽玄に演じよと言っている。]
以下、キーワード集
- 序破急
- ものごとの流れを三段階で表現する言葉。
- 一調二機三声
- 「花鏡」に出てくる言葉。これは、笛によって調子を整え(一調)、機会をうかがい(二機)、それから声を出す(三声)、という意味である。
- かるがると機を持ちて
- 「花鏡」より。ただし、これに類することは「風姿花伝」でも書かれている。
観客が宴ですでに盛り上がっているときは、「序」の段階でも盛り上がった気分で演じなさい、という意味。
- 時節感当
- 「花鏡」より。ただし、これに類することは「風姿花伝」でも書かれている。
舞台に出てゆくタイミングは、観客が期待を膨らませているその時にせよ、ということ。
- 離見の見(りけんのけん)
- これも「花鏡」。観客席から見る自分の姿を意識せよ、ということ。目を前に見て、心を後に置け。
第4回 秘すれば花
- 男時(おどき)・女時(めどき)
- 立合勝負で、こちらに勢いがあるときが「男時」、相手に勢いがあるときが「女時」。女時には力を入れず、
男時を待って勝ちに行くのが良い。
- 秘すれば花
- 秘伝の芸、秘密の芸を持っていることが大事。といって、生涯秘密にしていたら意味がないので、大事なときに出さないといけない。
ということは、秘密の芸は一つでは足りない。そこで、世阿弥は新作能を作り続けた。
- 住する所なきを、まづ花と知るべし
- 一つの場所に安住してはいけない。常に自己を更新すべし。
放送時のメモ
第1回 珍しきが花
能は、昔は飲食しながら見ていた。
昔は「猿楽」。世阿弥は「大和猿楽」とよばれる流派に属していた。
観阿弥の時代になって、歌や舞を取り入れて、武骨だった大和猿楽を華やかなものに変えた。
それで、将軍のお抱えになった。そのころ、世阿弥は美少年で、将軍や貴族にも気に入られた。
立ち合い=異なる劇団が競演すること。劇団同士が競い合う場。
世阿弥が 22 歳のころ、父の観阿弥が無くなった。世阿弥は、劇団のシステムも革新する。
「風姿花伝」は、後継者のために書かれた秘伝の書。
珍しきが花=新しいこと、珍しいことが大切である。
世阿弥は、大事なことを指すのに「花」という言葉を用いた。
住する所なきを、まず花と知るべし=常に変化し続けないといけない。安住してはいけない。今風に言えば「イノベーション」。
成功体験に安住してはいけない。模倣することなく、自分を常に更新していかないといけない。
今でいうと、人気小説をドラマ化した。源氏物語、伊勢物語、平家物語などを原作とした。
旅をして夢を見るという手法を多用した。たとえば、「頼政」では、旅の僧が宇治の平等院にやって来る。
するとおじいさんが出てくる。実は、このおじいさんは源頼政の亡霊。これを弔う僧の夢の中に、頼政が現れて合戦の様を語る。
これが世阿弥の能でよくあるパターン。
第2回 初心忘るべからず
初心は、最初の時の気持ちではない。
若い時の可愛さは「時分の花」。でも、それは一瞬の事だけ。「まことの花」を目指さなければならない。
年を経るごとにどうやって稽古をしたらよいのか。
- 7歳頃の時は、のびのびと個性を伸ばす。嫌がらせてはいけない。
- 12~13歳頃の時は、自然に幽玄(かわいい)。
- 17~18歳の時は、最初の壁。声変わりもするし、かわいくなくなる。
- 23~24歳頃が、初心(最初の躓きの石)。人々は新人として褒めそやしてくれるけれども、時分の花をまことの花と間違えてはいけない。
- 34~35歳頃が、能楽師の絶頂期。このころにはトップに立って、後継者を育てることを考える。
- 老いても花は残っている。これは、父の観阿弥の晩年の舞を念頭に置いている。
「花鏡」には「3つの初心」が記されている。
- 是非の初心:23~24歳頃の躓き。
- 時時の初心:中年になって、絶頂から下降線をたどるときの躓き。
- 老後の初心:老後には、そのときに合ったことをやる。
却来(きゃくらい)=年を取ったら、大和能楽の原点の鬼能に戻る。老いたからこそ自由にできる境地を演じる。
[吉田注:この「却来」の捉え方は、松岡正剛とは少し異なっている。
松岡正剛によれば、芸を究めた者がすうっと下に降りて、それによって目利かず(見る目のない人)をも惹きつけることだそうである。]
第3回 離見の見
「離見の見」とは、自分を客観的に見るということ。
世阿弥の時代には、観客がざわついていることがよくあった。
そういうときは、登場を遅らせて、観客の期待が楽屋に集まった頃合いを見計らって出てゆくと良い。
「時節感当」とは、観客のタイミングに合わせて当たってゆくこと。
宴会に呼ばれることもあるから、いくら待っても客が静まらないこともある。そのときは「かるがると機を持ちて」と世阿弥は言っている。これは、序破急のバランスを壊しても良いということである。客の気分に乗せて、機転を利かせて演じる。臨機応変にやり方を変える。
「離見(りけん)の見(けん)」とは、観客席から見た自分の姿を意識することで本当の自分の姿を見極めること。
「目前心後」とは、目は前を向いているが、心は自分の後ろにあって自分を客観的に見ているということ。
このように、自分勝手に演じないことで、臨機応変な対応ができる。
第4回 秘すれば花
「秘すれば花」
世阿弥の時代には、劇団が芸を競い合う競技があった(立ち合い)。
そこで、競技の時には、秘密兵器を隠しておけ、というのがこの言葉の意味。
つまり、サプライズが大事だと言っている。
一回出すと「花」ではなくなるので、常に秘密兵器を開発していかないといけない。常にイノベーションが必要。
そうでないと、人気を保つことができない。
「物まね条条」の中で言われていること
写実が重要である一方で、たとえば現実の貧しさをそのまま出しては面白くない。舞台上の写実はリアリズムではない。
フィクションでリアリティを出す。
「幽玄」
美しいこと。たとえば、白鳥が白い花をクチバシに咥えて立っている姿。
世阿弥は幽玄をブランド化して美しいものにした。
「男時(おどき)•女時(めどき)」
男時とは流れに勢いがあるとき、女時は流れが停滞するとき。
この流れを読んで勝負することが重要。
相手に勢いがあるときはじっと待って(女時)、こちらが男時になるのを待つ。
命には終わりあり、能には果てあるべからず