東京たてもの伝説

森まゆみ・藤森照信 著
岩波人文書セレクション、岩波書店
刊行:2012/10/23、刷:2012/10/23(第1刷)
元の本:1996/08 岩波書店刊
九大生協で購入
読了:2014/07/27
藤森氏の本をつい最近読んで、もう一つ読みたくなったのと、 「江戸東京たてもの園」に行く機会がって、その予習をしたいということもあって読んでみた。 本書はもともとは 1996 年の本であり、現在はそれからさらに約 20 年が経過してしまった。 それで、ここで紹介されている建物は、今や無くなっているものが多い。

最初が同潤会アパートの話で、建築当初はけっこう丁寧に造られていたことがわかる。 グレードも場所ごとにいろいろあったということを知った。 しかし、老朽化したり手狭だったりということで、2013 年にすべて無くなった。 この本が書かれたころにはまだいくつか残っていて、それらを著者らが訪問した記録が書かれている。 本書で大きく取り上げられている住利と虎ノ門に関しては、古地図や現在の地図と対比してみると次のような変遷が読み取れる。

再開発というと、このようにどうしても高層ビルが出来てしまう。それは、採算を取ろうとするせいだけど、 もうちょっと政府が本気でやればそんなことしなくても良いのではないかと論じられている。 それに関する藤森氏の弁がなかなかふるっている。曰く
建設省は住宅政策を本気でやる気がない。一番の理由は簡単で、住宅というのは政策は建設省ですが、 それでいて、上がりは建設省には入ってこない。建設省の利権にならない。だって、集合住宅立てると利益は たとえばコンクリート・メーカーにいくけど、コンクリート・メーカーは通産省が押さえてる。電気器具なんか いっぱい入るでしょう。それも全然、建設省には関係ない。
要するに、各省庁は自分の利権があるから一生懸命やるわけです。だから、住宅を利権とする官庁をつくればいい。 利権の構造を住宅に関してつくってやれば絶対大丈夫なんです。
というわけで、利権の構造は根深いものである。もっとさわやかにいかないものかと思うけど、つい昨日、 関西電力のかつての献金のニュースが出ていて、官庁も政治家も利権に弱いことがよくわかる。

次が、平塚千鶴子邸と旧亀井玆明(これあき)伯爵邸。平塚邸は日魯漁業創業者の平塚常次郎の邸宅で、 中村與資平が設計した。昭和初期の建物で、新しい様式と古い様式がごちゃごちゃに混ざっている。 ネット情報では 2005 年に撤去されたというものがあったが、一つのページだけなので本当かどうかわからない。 亀井伯爵は、旧津和野藩主である。旧亀井邸は、おそらく明治 17 年に作られたと考えられ、 そうすると本書の時点では、東京に現存する最古の洋風邸宅ということだった。 明治末から大正初期のどこかで大改修が行われたようだ。震災後誰かの手に渡り、戦後病院になり、 昭和 41 年から本書の時点では洋服を扱う遠藤氏が使っている。しかし、ネット情報ではその後 2003 年に 解体されたそうな。

「江戸東京たてもの園」は、江戸時代から高度成長時代以前の建物を集めた博物館である。 本書が書かれたのは開園して3年目くらいの時なので、今の半分くらいしか建物がなかった頃である。 本書では、下町エリアを中心に紹介してある。 先日「江戸東京たてもの園」に行って全体を大急ぎで見てきたが、最も生活感があふれているのがこの下町エリアである。 狭い店に所狭しと商品が並べてあり、住居部分も狭い。この中に家族と使用人がたくさんいたらしい。 もっとも、現在の展示ではおそらく実際のかつての姿よりもかなりすっきりさせてあるのだろう。

この本のおかげで覚えた言葉が、出桁(だしげた)造りと看板建築である。 出桁(だしげた)造りは、震災以前の東京の商家の形式で、軒を張り出してあるものである。 梁を出してその上に出桁を横に載せ、その上に垂木を乗せるという形式で、横に通った出桁が特徴だそうな。 看板建築は震災以後の商家の形式で、正面が平板で全体が看板のようになっている。 下町エリアの商家は全部このどちらかの形式で、奥の方に出桁造りの建物が、手前の方に看板建築が並べられていた。

最後が安田楠雄邸。安田財閥の分家の邸宅である。しかし、建てたのは豊島園を最初に作った藤田好三郎で、大正時代の建物である。 これは、現在は日本ナショナルトラストに寄付されて公開され、NPO「たてもの応援団」が管理している。