新 江戸東京たてもの園物語
江戸東京たてもの園・スタジオジブリ 企画・編集
江戸東京博物館
刊行:2014/07/25、刷:2014/07/25(第1刷)
江戸東京たてもの園で購入
読了:2014/07/31
「江戸東京たてもの園」に行った記念に読んだ。2013 年が開園 20 周年で、
それを機にこの本が書かれ、ちょうど公式発行日の数日後にたまたま園を訪れこの本を手にすることになった。
本のメインは、藤森照信氏によるひとつひとつの建物の解説である。
行ったばかりで読むと、建物の一つ一つが思い返されて興味深く、一気に読むことができた。
行ったばかりだからというだけでなく、スタジオジブリが編集に関わっているせいか、楽しく読める工夫がいろいろなされている。
単なる展示物の解説ではなく、建物は、そこにどのように人が住んでいたかということも大事だということを
博物館の人も藤森氏もおそらくかなり意識しており、そこにも重点があるので、展示を補完する役割もある。
おそらくそのような意識の下、建物の解説には建物ゆかりの人(住んでいた人など)へのインタビューが付けられている。
藤森氏の解説と相俟って、そこでの生活もうかがえるものになっている。
なので、「江戸東京たてもの園」に行ったことがなくても楽しめるのではないだろうか。
スタジオジブリとの協力関係はいろいろあるようで、私が行った時には「ジブリの立体建造物展」が行われていた。
ジブリ映画に出てきたいろいろな建造物に藤森照信が解説を加えるという趣向である。
ジブリは、アニメといえど、建物の構造にも気を配っているので、建築専門家の解説にも耐えるものが描かれているということのようだ。
本書の最初の部分にも、藤森照信による高畑勲と宮崎駿へのインタビューが配されている。
このたてもの園にある建物は以下のように分類できる 30 棟である。
- 銭湯 [子宝湯 1 軒]
- 旅館 [万徳旅館 1 軒]
- 下町の商家 [震災前は「出桁造り」、震災後は「看板建築」で特徴づけられる 10 棟]
- 交番 [1 棟]
- 洋館とモダニズム建築 [5 軒]
- 農家、高倉 [5 軒]
- 高級和風邸宅(書院造りなど)と茶室 [4 軒]
- その他 [光華殿, 自証院霊屋, 伊達家の門 の 3 軒]
「東京たてもの伝説」にもあったように下町にけっこう重点があることが分かる。
ただ、実際にたてもの園に行ってみると、下町の建物は商店など表の部分までしか入れず生活空間の部分には
入ってみることができないのが残念であった。狭いので保存上の問題があるのかもしれない。
その部分は、この本や「東京たてもの伝説」で補って想像するしかない。
洋館や高級邸宅は生活空間が見られる。
日本の住居の歴史が藤森氏によってだいたい以下のようにまとめられている。
- 日本の住居には縄文系と弥生系の2系統がある。
- 縄文系は、竪穴式住居に始まり、茅葺の農家として受けつがれていく。茅葺と土間と火が大きな要素である。[pp.296-297]
- 弥生系は、華南から入ってきた高床式住居に始まる。これが奈良・平安時代に寝殿造りになる。
寝殿造りは蔀戸(しとみど)で囲まれているのが特徴で、冬は寒い。屋根は檜皮葺だった。
これに畳・障子・襖・天井・床の間が加わり、柱が四角になり、屋根が瓦になって、書院造りとなる。
書院造りは、室町時代から安土桃山時代にかけて完成する。[pp.338-339]
書院造りは、長押が特徴で、江戸時代には格式のある武家以外では作ることが禁じられていた。[p.322 など]
書院造りでは格式の高い部屋に、床の間、違い棚、付書院のセットを置く。床の間には、掛け軸や書画(もともとは三幅対の仏画)の下に床板があり、
床板には香炉、花瓶(けびょう)、燭台の三具足(あるいは、燭台ではなくて三宝)を置く。違い棚には巻物や筆や硯などを置く。
付書院はもともとお坊さんの勉強机である。[pp.208-211,345-346]
- 茶室は、書院造りへの反発から生まれた。粗末な材料で作ったり、土壁や茅葺屋根を使うなどした。
数寄屋造りは、書院造りが茶室の影響を受けて変化したもので、質素ながら洗練された空間である。
茶室や数寄屋造りには長押が無い。[pp.378-382]
最後の部分に江戸東京博物館館長で東京下町育ちの竹内誠の藤森照信によるインタビューがあり、
そこで語られている昔の下町のようすがけっこう面白い。
そこに書いてあったことからいくつか:
- 江戸時代の下町は、北は筋違御門(神田須田町あたり)、南は新橋、東は隅田川、西は外堀で囲まれた地域
[注:今の中央区のほぼ全部と千代田区の一部、15区時代の日本橋区、京橋区の全体と神田区の一部] で、日本橋や銀座が中心。
これが、幕末から明治にかけて、南北に延び、北は下谷、浅草、南は芝 [注:これらは15区時代の区名] になる。
山の手は、本郷、小石川、四谷、牛込 [注:これらも15区時代の区名]。その外側は場末。
- 下町は、震災後、隅田川を越えて深川、本所まで広がる。さらに、戦後、荒川区、葛飾区、江東区まで入ってくる。
したがって、寅さんの葛飾柴又が下町になったのは新しい。
一方で、かつて下町の中心であった日本橋や銀座は、人が住まなくなって下町ではなくなる。
- 寄席は、竹内氏の子ども時代 [注:昭和十年代だろう] は、講談、落語、浪曲が中心で、このうちで講談が格上だった。
ほかには、漫才、紙切り、手妻(手品)など。寄席は、テレビ時代になって次々に潰れた。
- 下町の人は基本的には大学には行かない。行くとしたら、商売のために、慶応大学経済学部か明治大学商学部。
- 東京の風景が大きく変わったのは、東京オリンピックであった。そこで川筋が埋め立てられた。
昭和 30 年代前半頃までは、まだ江戸の感じが残っていた。
さらに、80 年代バブルで古い家が一掃され、江戸が完全に消えてしまった。
- 下町の子どもは、堀で橋を利用してトンボ捕りをした。
- 江戸の金持ちは、遊びや文化活動で散財した。なので、あまり豪商にはならなかった。
些細なことで気付いたことが一つ。震災以前の東京の商家の造りで「出桁造り」というのがあるのだが、
これを「東京たてもの伝説」(p.192) では「だしげたづくり」と読ませていて、
本書 (p.295) では「でげたづくり」と読ませている。どちらでもよさそうだが、ググったときの多数決では
「だしげた」の方が多そうである。