街場の教育論

内田樹 著
ミシマ社
刊行:2008/11/28、刷:2009/02/28(第 6 刷)
福岡西新の西新エルモールプラリバで行われた第 17 回西新大古本まつりで購入
読了:2014/12/28
内田氏の教育論の講義録。「下流志向」とも共通する部分も多い。教育に余計な改革などしてくれるなという内容で、私も賛成である。最近は文科省とか経済界が教育に余計な口出しをしすぎる。

とはいえ、内田氏の著作をけっこうたくさん読んでくると、これ本当かなという疑問も芽生えてくる。たとえば、第5講で、教養教育を、礼・楽・射・御に相当するものだとして、何だかわからないものとのコミュニケーションだというのは、飛躍しすぎである。今の時代に、何が教養であるかは難しい話で、人によって違うことを言うに違いない。たとえば、第二外国語が代表例である。私は、個人的には数か国語の素養があるのは良いことだと思って、実際「無駄な」時間を費やして数か国語勉強してきたが、そんなのは時間の無駄だったと言われればそうかもしれないとも思う。著者の内田氏は外国語教育を、射・御(弓馬の道)に通じるとしている。が、そんなことでは説得されない人も多いに違いない。無論正解は無い。

第9講の反キャリア教育論には、最近私がとみに実感することが含まれていた。それは、就職の面接に成功するかどうかの基準は、能力ではなくて、一緒に気持ち良く働けるかどうか、ということだ。私が担当している学生でも、就職がすぐ決まる学生とそうでない学生がいる。で、まさにこの通りなのである。指導していて、学力があっても指導しづらい学生は就職もうまく行かない。逆に指導しやすい学生は就職もうまく行くのである。指導しやすいというのは、教員との共同作業を楽しんでくれるということで、指導しづらいのはそうではないということだからだ。とはいえ、私自身もこういうことに気付くのにはかなり時間がかかったから(学生の時分にはよくわかっていなかったと思う)、学生にとってはおそらくなかなか困難な課題ではある。ところで、少なくとも部外者として見る限りこのようなことの例外に当たるように見える中村修二氏がノーベル賞を受賞した。外から見る限り日亜との関係はいろいろ不可解である。

第11講の宗教教育に至っては、私としては定見が無い。私だったら、宗教に関しては、歴史的事実や人類史的必然性を教えるだろう。霊的な波動を感じたことは無いので、そういう考え方もあるかと思う以上のことはできなかった。

以下、サマリー

第1講 教育論の落とし穴
教育は途中で止めて総取り替えするわけにはいけない。教育改革と言っても、いずれ今いる教員がやらねばならぬのだから、今いる教員のパフォーマンスを上げるしかない。そのためには、教員が自由に創意工夫できるような環境を整える必要がある。
第2講 教育はビジネスではない
教育を担うのは、第一に教員である。保護者でも文科省でもない。教育の機能は、今ここにあるものとは違うものとの繋がりを持つことである。それが提供できるのは、教師を措いて他にはない。
第3講 キャンパスとメンター
大学で大切なのは、どうしてよいかわからないときにどうするかを会得することである。大学は、未知の知識や技術があふれたカオス的空間である。学生は、そこでまずメンターを探す。学びとは、メンターが行っているゲームに巻き込まれるという形で進行する。そのことによって、人は今まで知らなかった高みに到達することができる。
第4講 「学位工場」とアクレディテーション
アメリカには学位工場なるものがあって、学位を金で買える。これは、教育にビジネスモデルを導入すると起こる悪いことの例である。アメリカでは、それでは困るということで、きちんとした大学であることを認証するアクレディテーションというものができた。日本でも大学の規制緩和に伴って、大学の認証評価制度ができたのだが、評価には無駄なコストが膨大にかかる。
第5講 コミュニケーションの教育
教育は、昔風に言えば、六芸(りくげい)である。六芸とは、礼・楽・射・御・書・数である。礼は祖先祭祀儀礼、楽は音楽、射・御は弓馬、書・数は読み書き算盤である。このうち、礼・楽・射・御が教養教育にあたり、一言で言えば、何だか分からないものとのコミュニケーションである。一方で、専門教育では内輪でのコミュニケーションを学ぶ。専門教育だけで教養教育をやらなくなると、学際的なコミュニケーションや協力ができなくなるし、若者がついてこなくなる。これに関連して、教育で競争を奨励すると、協力ができなくなる。
第6講 葛藤させる人
教師は首尾一貫していなくても良い。教師は、競争社会に異を唱えながらも、子供たちの成功を願うものである。さまざまのタイプの教師がいるのも良い。そういった葛藤を通して子供たちは成熟する。子供たちは、一見異なるメッセージの中から共通する部分を探し当てる。
学びの基本は、「知りません。教えてください。」ということである。
第7講 踊れ、踊り続けよ
教師は学びの当事者であることによって教師たりうる。すなわち、「教え」の基本は、いにしえのエラい人はこう言っていたと祖述することである。かつて良い時代があった、かつて偉大な師がいた、というフィクションの下に教育はなされる。メンターが言うべきことは、「なぜかわからないけれど、踊り続けねばならない」だ。
第8講 「いじめ」の構造
1980 年代以降、小中高が荒れてきた。これを管理教育や受験戦争のせいにする言説がまかり通っていた。が、問題はそんなに単純であるはずがない。そもそも原因が一つだと思った時点で誤りである。トップダウンのやり方は、危機的状況では役に立たない。トップダウンがうまく行くのは、トップが全体を掌握しているときに限られ、それは平時である。
現代の教育危機の原因は、人間の砂粒化である。共同の仕事を嫌い、「自分の仕事」をしたがる。学校においては、集団になじみ過ぎる人もなじまなさすぎる人も「いじめ」の対象になる。「自分らしく生きる」ことが是とされる中で家族も解体する。「自分らしく生きる」ことは、消費を盛んにすることにつながるから、経済の要請であった。学校の役割は、このような経済の論理からの防波堤になることである。
第9講 反キャリア教育論
産業界は即戦力を大学に求め、キャリア教育を要請している。キャリア教育とは、働くモチベーションを身に付けることである。勉強することと働くこととは違う。就職の面接の判定は、その人の能力ではなく、一緒に働いて楽しいかどうかで決められる。労働は協働だからだ。離職者・転職者は、しばしば自分の努力の成果が報酬として返されることを要求する。つまり、仕事が自分だけの「ジョブ」に区分けされていることを望む。しかし、組織のミスもチャンスも、ジョブとジョブの間の誰の責任も無いところにある。協働して連帯しないと仕事はうまく行かない。しかし、一方で、経済界はモジュール化を望むメンタリティを作り上げてきた。その責任に頬被りしてキャリア教育を要求されても困る。
第10講 国語教育はどうあるべきか
どの国のことばにも固有の抑揚とリズムがある。日本語には、表音文字と表意文字を混ぜて使うという際立った特色がある。伝統的に、真名=男言葉=外来・借り物、仮名=女言葉=情感、といった使い分けがなされてきた。日本文学では、女言葉で、男性的な虚構を打ち壊すということが行われてきた。正当な外来言語と、批判者としての土語という組み合わせが、日本語のダイナミズムである。日本語のリズムも真名と仮名を巧みに組み合わせることで生まれる。
思いが言葉を作り出すと考える国語教育は誤っているのではないか。言葉が感情を作り出すのである。したがって、古典を丸暗記させるようなことによって、豊かな言葉のストックを涵養することが大切である。
第11講 宗教教育は可能か
霊的ということは聖なるものと汚れたものの葛藤の中にあると考える。葬礼は、生者と自然物の間にある死者を去らしめる儀礼である。葬礼は死者にどうしてほしいのか問い続けることである。
宗教的成熟には、霊的なメンターが必要である。著者の場合は、多田宏とエマニュエル・レヴィナスがそれであった。メンターは、自分が未熟であることを知らせてくれる。
明治の廃仏毀釈は、国家が単一宗教による国民の政治的統一を目指したものである。靖国神社はその延長上にある。廃仏毀釈によって、国家によって権威づけられないすべての神仏が死んだ。
宗教的儀礼、あるいは霊的であるということは、「外」と交信しようと祈る姿である。