逆立ち日本論

養老孟司・内田樹 著
新潮選書、新潮社
刊行:2007/05/25、刷:2011/05/20(第10刷)
福岡天神の古本屋 BOOK OFF SUPER BAZAAR ノース天神店で購入
読了:2014/10/09

論客二人の楽しい対談である。読み始めるとなかなか止まらなくなって、他にやらなきゃいけないこともあるのに3日で読了。 何か特定のテーマがあるわけではなくて、話はいろいろと跳ぶからまとめるのは難しい。よくこんなにいろいろ話ができるものだと驚く。 そのへん、第 1 章が「われわれはおばさんである」で説明してある。「おばさん」の会話というのは、話がだらだら横に広がる。 それにお二人とも慣れているとのことである。ま、そんなわけでいろんな話が出てくる。 以下、そのうちで気になったことをメモしておく。

第 2 章「新・日本人とユダヤ人」ではユダヤ人が論じられる。これは、内田氏が『私家版・ユダヤ文化論』という文章を書いているから話題にしたそうである。 ユダヤ人とは何かは定義ができない。内田氏によれば、反ユダヤ主義者から、あるいは神から名指しされて、ユダヤ人はユダヤ人になったそうである。 この「名指しに対する遅れ」がユダヤ人の本質だと言う。人は、神が去った後にこの世に出てくる。神は人知によってはわからないありがたいものである。 ユダヤ人問題に関連して、養老氏は、『夜と霧』のフランクルの話をしている。そして、彼が生き残ったのは、誰か彼を生かそうとした人がいるんじゃないかという推測をしている。

第 3 章「日本の裏側」では、日本人っていうのも定義できないという話から始まる。ここで面白い考察は、 養老氏による小泉純一郎は変人ではなくて当たり前の政治家だという説だ。小泉純一郎の地盤が横須賀だというのがポイントである。 まず、首都圏だから国税があまり還元されない上、米軍基地があるから自民党型の利益誘導政治ができない。 というわけで、「自民党をぶっ壊す」になったのは、当然だという見方である。それを受けて、内田氏は 小泉の靖国参拝は反米シグナルだという説を開陳する。A級戦犯を指定したアメリカをコケにしているというわけである。そう言われればそういう気もするのは、小泉首相と安倍首相の違いである。小泉首相は反米シグナルという自覚があったから、アメリカと仲良くできたのに対し、安倍首相にはその自覚がないからうまくいかないのではないか。

同じ 3 章で、全共闘は日本の戦時中と同じだという話を養老氏がしているのも面白い。全共闘は、竹やりを持って集まっていたとか、「この非常時に研究室でのんびり研究しているのはけしからん」という戦時中と同じ論理を使っていたとかいうことを言っている。日本の左翼は右翼なんだということがよくわかる。反米というのも本来の右翼のあるべき姿だし。 左翼と右翼が同じだという話は第 8 章にも出てくる。戦前の天皇主義と戦後のマルクス主義は反米という点で同じという意味である。

それでまた、ユダヤ人の話に戻って、ユダヤ人がいるのは、ユダヤ教から生まれたキリスト教とイスラム教の地域だけだということが語られている。歴史的には、ユダヤ人はインドや中国にもかなり行ったのだが、ユダヤ人共同体はやがて解体してしまう。それはあまりにも周囲と異質だったからで、民族文化は中途半端に違うところでないと生き残れない、と内田氏は結論している。

第 4 章「溶けていく世界」もいろいろなことが書いてあるけど、最後の話題はイギリス人はたくましいという話。 養老氏が、イギリスでテレビの自然番組を作るのに、カメラマンが家族を引き連れて2年間ケニアに移住した、という話をする。 内田氏は、ある文化人類学者がアフリカに出かけているときに第二次世界大戦が起こって、現地でゲリラ組織を作った、という話をする。 どっちもたいしたもんだ、というか帝国主義的だ、ということである。

第 5 章「蒟蒻問答主義」で、「蒟蒻問答」が出てくるのは最後の部分である。落語の『蒟蒻問答』は、単に面白いだけではなく、 世界の深さは読む人自身の深さに依存するということを語っているのだということになる。

第 6 章「間違いだらけの日本語論」では、樋口一葉は音で分かる小説だという話が出てきて、それに関連して、 第 7 章「全共闘の言い分」には、内田氏が、小説家を料理屋に喩えて評する場面がある。

第 8 章「随所に主となる」のところは、内田氏の発言を引用しておく。

システム破綻の原因を「未熟」ではなく「老化」として理解する。このチープでシンプルな物語がいまの若手の政治家のほとんどに 浸透しているんじゃないでしょうか。(中略)どうしてシステムが不全であるのは、管理者が「老人」であるからではなく、 あまりに「幼児」だからではないかという可能性は吟味されないんでしょう。