人間失格

著者太宰治
電子書籍青空文庫
作成1999/01/01、修正:2004/02/23
底本新潮文庫 1952/10/30 発行、1985/01/30 第 100 刷改版
元の単行本1948/07/25 筑摩書房刊(「グッド・バイ」も併せて収録)
初出雑誌「展望」1948 年 6 月号 -- 8 月号
読了2015/12/30
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高校のころたぶん一度読んでいると思うが、きれいに忘れていた。先日、テレビでドラマ仕立ての「人間失格」のあらすじを見た(BS 朝日「今だから、知りたい世界文学の名作」)のをきっかけに、そういえば最近「斜陽」も読んだし、芥川賞の又吉直樹も好きだと言っていたしということで、改めて読む気になった。読み始めると、冬休みのおかげで一気に読み終わった。

又吉直樹は、中学校のとき読んで自分のことだと思って衝撃を受けたらしいが、私はきれいさっぱり内容を忘れていたところから見て、自分と重なるとはあまり感じなかったらしい。 今読んでみても、自分と重なるとはあまり思わないけど、にもかかわらず、社会生活を営むにおいて必要な欺瞞やしんどさに対する感受性を年をとるにつれて失っていたことに気付かされ、やはりいろいろ考えさせられる。社会生活をしていくなかで、何か合わないと感じることは誰にでもあると思う。そのときに、自分以外の他人が悪いと思う人と、自分が悪いんじゃないかと思う人がいる。もちろん、そんなにきっぱり分かれるわけではないけれど、前者が強い人はこの小説を気持ち悪いと思うだろうし、後者が強い人はこの小説に共感するところを見出すと思う。私はといえば、若いころはけっこう後者の感じが強かったと思うが、だんだん年をとると冷静になるので前者の要素も増えてきて安定してきたと思う。それでも若いころに共感しなかったというのは、私は自分の家族を嫌だと思うことがあまりなかったからということだと思う。しかし、一方で今読んでみると、感受性が年とともに衰えているのではないかという反省が沸いている。

そう思うのも、今の職業にいると、悩める若者に出会うことが時々あるからである。大学生の引きこもりがよく問題になることで象徴される通り、若者というのはいろいろな悩みを抱えていることが多い。不登校と言っても、大庭葉蔵のように悩んでいる者もいれば、堀木正雄のように単に如才なく世渡りをしながら遊んでいる者もいるだろう。だからまあ、必ずしも同情に値するかどうかはわからないが、ともかく一定の割合で救助が必要な若者がいることは確かである。私の本来の職務は、悩みを聞くことではなくて学問を教えることではあるけれども、悩みがわからないと学問も伝わらない。「人間失格」がこれだけ長い間日本人に読まれているということは、やはりこれに幾ばくかの共感を覚える人がかなりの割合でいることを示していると思う。

これに関連して思い出されるのは、日本や韓国の自殺率の高さである。自殺には社会的な要因も多いけれど、悲観しやすい民族性があるのではないかとも思う。つまり、先ほど書いたように、社会生活が上手くいかないときに、他人が悪いのではなく自分が悪いと思ってしまう人が多いのではないかということである。といっても、同じ図録によると、メンタルヘルス障害に関しては、日本はむしろ少ないらしいので、その関係がどうなっているのかが知りたいところである。

小説から話が離れてきたので小説に戻ると、太宰はいろんな人になりきるのが上手な作家である。「斜陽」では女性になりきっていたし、ここでは感受性が高くて社会生活がうまく営めないあまり転落してゆくダメ人間になりきっている。「人間失格」の場合は、太宰自身の自伝とされることもあり、太宰自身にそのような要素が多かったのだと思うけど、その要素を誇張して作り上げている部分も多いだろう。これを太宰の境界性人格障害 という観点で分析する向きもある(その1その2)。

主人公の大庭葉蔵と関係を持つ女性たちも魅力的に描かれている。彼女たちは、それぞれある種の善を体現していて、どういうわけかダメ男の葉蔵を助ける。葉蔵が美男子だったということもあるだろうけれど、母性本能がくすぐられるのか、あるいは、小説の最後で京橋のバアのマダムが「葉ちゃんは(中略)神様みたいないい子でした」と言うように、葉蔵の本性の純真さと傷つきやすさを見抜いたためか。