太宰治で読んだことがあると思うのは『人間失格』と『走れメロス』くらいだった。といっても、何が書いてあったのかほとんど覚えていない。
今回『100分de名著』で取り上げられているのは『斜陽』ということで、ついでに原作も読んでみる。『斜陽』は名家の没落話だということは知っていたので、わびしい感じの小説かと思っていたのに、全然違っていたことに驚く。生と死が交錯しながら、最後は生への力強い希望で終わるのだ。
『100分de名著』の「はじめに」によれば、太宰治の小説の主人公は、純情で馬鹿で生きるのが下手な連中ばかりだとのこと。そういう中で、『斜陽』は、とくに人間らしく生きていたいと願う人のために書かれた本だ、とする。
小説も読んでみてわかることは、高橋源一郎の『100分de名著』の解説は実に的確だということである。解説を放送で聞いてテキストを読んでいるだけで感動できてしまう。さらに原作も読めば、二度感動できる。下の箇条書きサマリを書いてみると、それ以上に付け加えてここに書くことは何もない気がする。ポイントが、「母娘関係」「革命論」「だめんず」に分けて明快に切り取られている。
内田樹が『街場の教育論』第10章において、日本文学では、女言葉で男性的な虚構を打ち壊すということが行われてきた、ということを書いていた。高橋も第 4 回で同じことを書いている。太宰は、しばしば小説を女性に語らせた。そして、これは『土佐日記』以来の伝統だと。
『斜陽』もまさにその伝統に従っている。これは、かず子のことばで書かれ、直治と上原が男性的な虚構のなかで苦しんでいるのを尻目に、ばさっと大胆な行動に打って出るのはかず子である。そういう構図がやっぱり私(たち?)の心にも刺さるのだ。
最後の方に直治の弱々しい遺書があり、その後で対照的にかず子の力強い手紙が配置されて終わる。遺書で涙を流した後は、手紙でしっかり生きようと思う。それらから一箇所ずつ引用しておく。
[直治の遺書]
それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。ママのかたみの麻の着物。あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直してくださったでしょう。
あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。
夜が明けて来ました。永いこと苦労をおかけしました。
さようなら。
ゆうべのお酒の酔いはすっかり醒めています。僕は、素面で死ぬんです。
[かず子の手紙]
けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生れる子とともに、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。
こいしいひとの子を生み、育てることが、私の道徳革命の完成なのでございます。
あなたが私をお忘れになっても、また、あなたがお酒でいのちをお無くしになっても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行けそうです。
むろん、冷静に言うならば、シングルマザーが良いのかどうかは疑問だし、直治ももう少し自然に生きられたはずなのにということにはなる。しかし、直治の若いがゆえの悩み方は、私としてはよくわかる。シングルマザーの方は、旧来の道徳からの解放を過激に表現したものと理解すれば良い。何と言っても「革命」なのだから。
もうひとつ特筆すべきことに、『100分de名著』の「はじめに」のおかげで漱石の『それから』の読み方がだいぶんわかった気がしたということがある。「はじめに」は、アメリカで今まで売れた本は『聖書』と『ハックルベリー・フィンの冒険』なのに、日本で今まで売れた本は『こころ』と『人間失格』なのはどういうわけだろう、という問いかけから始まっている。高橋の分析では、『こころ』と『人間失格』の主人公は過度に倫理的であるということだ。日本人は彼らと自分を照らし合わせて身悶えするために繰り返し読んでみたくなる。そして、この過度に倫理的ということを頭に置いて読むと『それから』も読めるようになる。
小田嶋隆によれば、
高橋源一郎は、書評でよく褒める人だそうである。「映画評論家の故・淀川長治さんじゃないけど、必ずいいところを見つけて書評する人なんですよ。」とのこと。
でもこれは小説の書評では大事なことなんじゃないかと思う。小説には、個性があるから、その世界の気持ちになって入り込まないとなかなか読めないことがある。
で、その世界の気持ちをすぐに的確に読み取れてしまう能力が、とくに文学の書評家としては大事だと思う。
辛口の書評も面白いけど、せっかくこれから小説を読もうというときは、これはこういう気持ちで読めば面白く読めるという案内をしてもらった方がハッピーになれる。
「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー
第1回 「母」という名の呪縛
- 太宰治
- 明治 42 (1909) 年に津軽の名家に生まれる。本名は津島修治。高校あたりからだんだん不良になって、心中や自殺未遂を繰り返し、女遊びをし、政治活動をする。24 歳で小説を書き始め、戦争の時代に多くの小説を書く。終戦の2年後の 1947 年に『斜陽』を書き、その翌年に『人間失格』完成させた後、39 歳で心中で入水。
- 『斜陽』はベストセラーになった。
- もともとは、チェーホフの『桜の園』の日本版を書こうとしていた。実家の津島家がモデルになるはずであった。
しかし、愛人の太田静子の日記を読んで大きく内容が変わった。静子の日記を引用してある箇所もけっこう多い。
母と娘の関係にリアリティがあるのは、そのおかげである。
- 『桜の園』も没落する地主一家の物語である。
- 太宰は、戦後すぐの時代に、女性が中心となる小説を描いた。
- 『斜陽』の3つのポイント
- 母娘問題が描かれている
- 革命論〜「かず子」の選択
- 直治と上原のダメ男ぶり
- 登場人物
- 語り手であり主人公のかず子
- かず子の母親
- 弟の直治
- 破滅型の作家の上原;かず子が恋をしているとともに、直治は師として慕っている
- あらすじ
- 没落貴族で父親を失ったかず子とその母は、伊豆の小さな山荘で暮らすことにする。
弟の直治が復員してくるが、アヘン中毒になっていた。作家の上原を師と仰いで荒んだ生活を送る。
母が死んで、残されたかず子は上原の元へ行く。二人が結ばれた翌朝、直治は自殺する。
上原は去り、かず子はシングルマザーとして生きてゆくことを決意する。
- 冒頭
- 天性の優雅さを持つ母の天真爛漫が描かれる。母親はほんものの貴婦人であった。
- 母と娘(かず子)との関係
- 娘に依存し束縛する母
- 娘に対する否定的な言動
- 見捨てられる不安を抱く娘…母と娘の共依存
- 女の中の「蛇」
- 母は蛇を畏れ敬っている。その母に、蛇の卵を焼くのを見られた。
- 「私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか、
食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした」
- 蛇は、欲望や女性性の象徴
第2回 かず子の「革命」
- 概要
- かず子の閉塞感
- 財産もなくなり、希望も無くなったかず子。
- 戦後の空虚感や閉塞感を反映している。戦後は必ずしも希望に満ちた時代というわけではなかった。
- たくましくなるかず子
- ボヤを出したのを機に、畑仕事を始める。
- お人形のようだったかず子が「人間」になってゆく。
- かず子は、上原に恋をし始める。
- 飛躍がないと人間になれない、とかず子は思った。
- かず子は上原に一方的に手紙を書く。「私は、あなたの赤ちゃんを生みたいのです。」
- 太宰の「革命論」
- 「人間は、恋と革命のために生まれてきたのだ。」恋とはこの場合不倫だから、家に反逆することである。
革命とは国家に反逆することである。つまり、これは伝統的な価値観の全否定である。
- 母親が死んで、「戦闘、開始」
- かず子は上原と結ばれる。かず子は、子供を一人で育てる決意をする。
- 女性にこそ革命ができるというのが、たぶん太宰の考え。
- チェーホフの『桜の園』は、ハッピーエンドではなく、未来は書かれていない。
- 太宰の場合は、太田静子と結ばれて、子供ができて、それで結末が変わったのかもしれない。
- 太宰は、チェーホフとは違って、単なる斜陽ではなく、「朝ですわ」という言葉を付け加えた。
- 「こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」
第3回 ぼくたちはみんな「だめんず」だ
- 概要
- かず子の弟直治
- 太宰の中の貴族的な部分を反映している。
- 生活は荒んでいて、様子は虚無的。
- かず子が上原と結ばれた日に自殺。
- 遺書が残された。「僕は下品になりたかった。」
- 直治は繊細で倫理的だった。貴族に生まれたことを恥じ、不良っぽく遊んでみるけれども、全然楽しくない。
- 遺書より「僕は、もっと早く死ぬべきだった。しかし、たった一つ、ママの愛情。それを思うと、死ねなかった。」
- 男は、生きるよりも理窟にとらわれる。自分の理窟に殉じている。そこが、根本的に不器用なところ。
- 太宰も地元の名士の子で、東大に入り贅沢な生活をしている。一方で、左翼運動に入ったりして、実家が金持ちであることを恥じている。自己嫌悪に陥っている。
- 作家上原
- 太宰の中の作家の部分を反映している。
- 破滅的な生活を送っている。
- 「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。」
- かず子
- 上原に対する手紙より「私、不良が好きなの。」
- これも太宰の分身。太宰のメッセージや希望を代弁している。かず子という女性の言葉でなければ、「ほんとうのこと」を肯定的に書けなかった。男はモラルに縛られるので否定的にしか書けない。
- ダメな男たち
- 直治も上原も自分を否定し続けている。それで苦しんでいる。
- かず子も直治も上原も空気を読まない。つまり、革命的。
- かず子だけは、直治や上原らこそが本当の同志だと知っていた。彼らは「ほんとうのこと」を知っているから、うまく生きることができない。
第4回 「太宰治」の中にはすべてが入っている
放送では、又吉直樹をゲストに迎えて太宰文学を語る。
- 直治
- 又吉氏は直治に共感。
- 直治は「中二病」。「中二病」は、伊集院光が作った言葉。
- 女の声で語る文学
- 太宰は、しばしば小説の語り手を女性にした。
- たとえば、『女生徒』『おさん』『恥』。
- 紀貫之は、ひらがなを採用して当時の女性ことばを使うことで『土佐日記』を書いた。それがやがて『源氏物語』や『枕草子』へとつながるのだ。
- 男が女性の声で語ることで、男性を見直すことができて、説得力が増す。女性フィルターを使うというのは、たとえばマツコ・デラックスと同じ。
- パロディの名手太宰
- たとえば、『お伽草紙』『新釈諸国噺』。
- 太宰には古い話をリメイクした作品も多い。太宰は、他人の言葉に耳を傾けられる人。
- ほろびゆくもの
- 太宰はまた、滅びゆくものを敏感に感じ取った。
- 太宰は、世界で起こっていることをしずかに聴くことができる耳を持っていた。