朝日新聞は、『こころ』『三四郎』に続けて『それから』の再連載をした。『それから』はずいぶん奇妙な小説である。 父親と兄の脛をかじったまま働かずに高等遊民を続けている代助が主人公である。
連載中は、この小説の世界がよくわからなかった。どうにもピンと来ない、心理描写が何か硬い、ということで面白みがつかめなかった。ところが、たまたまNHK「100 分 de 名著」において太宰治の『斜陽』が取り上げられて、それが革命論(道徳革命)だということを知り、この『それから』もやはり倫理に関する革命論なのだと思って読むと、小説がよく理解できるようになった。これは小説による倫理論なのであって、男女間の愛情の方は二の次なのである。登場人物の描写の方は、何かちょっと頭だけで考えられたような不自然さがある。
革命とは、社会通念に対する反逆のことである。自分に正直に生きると、社会通念に反することになる。大きく2つの問題がある。第一は、浮世から離れて、精神的に高い世界に生きることが真に人間らしい生き方だ、というテーゼである。たとえば、代助は平岡に向かって「僕はいわゆる処世上の経験ほど愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか。」と言っている。このことは勤労を重んずる社会通念に反する。第二に、愛し合っているならば、親友の妻を奪っても愛し合っている同士で一緒に生きるのが人間らしい生き方だ、というテーゼである。そこで、代助と三千代は決然とその気持ちに従う。しかしこのことは家を中心とする社会秩序を破壊する。で、この人間らしい生き方と社会秩序との葛藤が『それから』の中心課題であると漱石がとらえたことが、この物語が理屈っぽくなって、心の情熱の方は関係なくなってしまった理由なのであろう。
もうひとつ、『それから』では、自分に正直に生きることが社会秩序に反すると同時に、上の二つのテーゼが互いに矛盾することになるという現実も描いている。すなわち、心から愛する人と一緒に暮らすことは、代助の場合は、友人平岡の妻三千代を奪うことであり、そんなことをすれば親からの仕送りが途絶えるから仕事をしないわけにはいかなくなる。すると、仕事をせずに世間にまみれず高い精神世界に生きることはできなくなる。で、結局最後には代助は 愛を選んで、高い精神世界の方をあきらめて仕事を捜すことにする。
漱石の倫理に対するこだわりは、半端ではない。NHK 100 分 de 名著「太宰治 斜陽」の「はじめに」で、高橋源一郎はこう述べている。「夏目漱石の小説を読んでいると、ぼくは、ほんとうに、厳しい「先生」に叱られているような気がしてくるときがある。そして、ぼくには、漱石の小説の登場人物たちのように、自分を厳しく律することなんかできない、と弱音をはきたくなる。」漱石のそういったこだわりを理解することが、『それから』を読むポイントである。
堅苦しいまでの倫理性は、たとえば、代助が三千代を奪う件に関して平岡に謝る場面にも見て取れる。まず、そもそも面と向かって「三千代さんをくれないか」という正面突破をするところが倫理的である。それから、代助の言葉の中でも
矛盾かもしれない。しかしそれは世間の掟と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったという矛盾なのだからしかたがない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君にあやまる。しかし僕の行為そのものに対しては矛盾も何も犯していないつもりだ。[角川, p.439]とか
僕が君に対して真にすまないと思うのは、今度の事件よりむしろあの時僕がなまじいにやり遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこのとおり自然に復讎(かたき)を取られて、君の前に手を突いてあやまっている。[角川, p.444]とかと理屈っぽく謝るところが特徴といえるだろう。こんなふうに硬く理屈っぽく倫理を語るので、熱情の方はまったくピンと来ないというのが漱石なんだなあと思った次第。
そもそも、代助と三千代の関係は、今の感覚では不倫というわけではない。平岡と三千代は離婚するのだし、平岡と三千代の間には子供もいないのだから、その離婚後に改めて代助と三千代が結婚することは、反社会的というほどのものではない。平岡と三千代の心はすでに離れている。これを重大な問題だと感じるのは、漱石だからなのか、当時の普通の感覚なのかはよくわからないけれど、ともかくこれを重大な倫理違反と感じないと、この小説の切実さがわからない。
だから、情感を大事にする読者にとっては、『それから』は駄作ということになってしまう。三千代の心理がいまひとつ現実的であるように見えないということもあるし、代助と三千代がいつから惹かれあっていたのかということに関しても茫漠としている。たとえば、小谷野敦は「『こころ』は本当に名作か」において、『それから』に関して、「歴然と不自然で、代助は三千代が好きだったのに友人に譲ったとか、それが、美の審判者となってくれと三千代の兄から言われたからだとか、まったく意味不明で (p.158)」とか「母の影が異常に薄い (p.161)」とか、あまりの不自然さに拒否反応を起こしている。たしかに、代助が平岡に対して三千代を「周旋」したという言い方が何箇所かで出てくるが、不自然感じは否めない。友達の妻を奪うという状況を作るために、やや無理をして頭で作り上げた筋書きであるとも見える。しかし、上記のようにこの作品のポイントは倫理論なのだから、現実的情感は二の次で読んでいかないといけない。
とはいえ、何が人間らしい生き方かということについては、本当はいろいろ疑問が残る。世間から離れて高尚な精神世界に浸るのは自然なのだろうか?そういう生活はある意味でうらやましいけど、退屈するのではないか、ヒトの本性として不自然ではないかという気がする。研究者生活は、それに近いとはいえ、それでも世間と接しながら生きる部分はどうしてもあるし、なければ研究が捗るというものでも必ずしもないであろう。
仕事をせず高尚な芸術世界に浸るというような生き方は、ギリシャ文化をはじめとする西洋文化の匂いが色濃くする。漱石はそういう価値観に強く影響されているのだろう。でも、これは、みんながそうなったら困る生き方である。高等遊民などというのは、今の憲法で言えば、勤労の義務(憲法第27条)に違反している。しかしこれからの世の中を考えると、いろいろなものが機械化・デジタル化されて、人々はそれほど働かなくても良くなることも予想され、半分高等遊民的に生きるべしということになるかもしれない。それを思うと、代助のような見方もこれから先重要なのかもしれない。ところで、現憲法のように勤労の義務を定めている憲法は社会主義国に多くて他にはそんなにはないそうで、もちろん明治憲法にもない。戦後の復興へ向けて国家社会主義的な思想を背景に入れられた条文であるようだ。自民党は、まともな自由主義政党なら、改憲案でこういうのを廃止しようとすればよいのに、国民の義務が大好きな隠れ国家社会主義政党だからそんな考えは無いようだ。
ところで、週刊朝日 2015/06/19 号では、姜尚中と山藤章二が漱石について対談しており、代助のような見方を「ズレた上から目線」と称していた。ただ、以上述べたような読み方が正しいとすると、これはちょっと的外れなのではないかという気がする。
[豆知識] p.228(角川)にでてくる「ブランギン」Frank William Brangwyn は、今ではほとんど忘れられているけど、生前は有名な画家だったらしい。上野の国立西洋美術館の核になった松方コレクションに大きく関わっているということが「美の巨人たち」というテレビ番組で紹介されている。