それから

著者夏目漱石
シリーズ角川 e 文庫
発行所角川書店
電子書籍
刊行2000/09/15
電子書籍の元になった文庫1953/10/05(初版発行)
元の単行本1910/01 春陽堂刊
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読了2015/10/24

それから

著者夏目漱石
元となる朝日新聞連載1909/06/27--1909/10/04
朝日新聞再連載2015/04/01--2015/09/07
読了2015/09/07
参考朝日新聞『それから』特集ページ

朝日新聞は、『こころ』『三四郎』に続けて『それから』の再連載をした。『それから』はずいぶん奇妙な小説である。 父親と兄の脛をかじったまま働かずに高等遊民を続けている代助が主人公である。

連載中は、この小説の世界がよくわからなかった。どうにもピンと来ない、心理描写が何か硬い、ということで面白みがつかめなかった。ところが、たまたまNHK「100 分 de 名著」において太宰治の『斜陽』が取り上げられて、それが革命論(道徳革命)だということを知り、この『それから』もやはり倫理に関する革命論なのだと思って読むと、小説がよく理解できるようになった。これは小説による倫理論なのであって、男女間の愛情の方は二の次なのである。登場人物の描写の方は、何かちょっと頭だけで考えられたような不自然さがある。

革命とは、社会通念に対する反逆のことである。自分に正直に生きると、社会通念に反することになる。大きく2つの問題がある。第一は、浮世から離れて、精神的に高い世界に生きることが真に人間らしい生き方だ、というテーゼである。たとえば、代助は平岡に向かって「僕はいわゆる処世上の経験ほど愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか。」と言っている。このことは勤労を重んずる社会通念に反する。第二に、愛し合っているならば、親友の妻を奪っても愛し合っている同士で一緒に生きるのが人間らしい生き方だ、というテーゼである。そこで、代助と三千代は決然とその気持ちに従う。しかしこのことは家を中心とする社会秩序を破壊する。で、この人間らしい生き方と社会秩序との葛藤が『それから』の中心課題であると漱石がとらえたことが、この物語が理屈っぽくなって、心の情熱の方は関係なくなってしまった理由なのであろう。

もうひとつ、『それから』では、自分に正直に生きることが社会秩序に反すると同時に、上の二つのテーゼが互いに矛盾することになるという現実も描いている。すなわち、心から愛する人と一緒に暮らすことは、代助の場合は、友人平岡の妻三千代を奪うことであり、そんなことをすれば親からの仕送りが途絶えるから仕事をしないわけにはいかなくなる。すると、仕事をせずに世間にまみれず高い精神世界に生きることはできなくなる。で、結局最後には代助は 愛を選んで、高い精神世界の方をあきらめて仕事を捜すことにする。

漱石の倫理に対するこだわりは、半端ではない。NHK 100 分 de 名著「太宰治 斜陽」の「はじめに」で、高橋源一郎はこう述べている。「夏目漱石の小説を読んでいると、ぼくは、ほんとうに、厳しい「先生」に叱られているような気がしてくるときがある。そして、ぼくには、漱石の小説の登場人物たちのように、自分を厳しく律することなんかできない、と弱音をはきたくなる。」漱石のそういったこだわりを理解することが、『それから』を読むポイントである。

堅苦しいまでの倫理性は、たとえば、代助が三千代を奪う件に関して平岡に謝る場面にも見て取れる。まず、そもそも面と向かって「三千代さんをくれないか」という正面突破をするところが倫理的である。それから、代助の言葉の中でも

矛盾かもしれない。しかしそれは世間の掟と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったという矛盾なのだからしかたがない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君にあやまる。しかし僕の行為そのものに対しては矛盾も何も犯していないつもりだ。[角川, p.439]
とか
僕が君に対して真にすまないと思うのは、今度の事件よりむしろあの時僕がなまじいにやり遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこのとおり自然に復讎(かたき)を取られて、君の前に手を突いてあやまっている。[角川, p.444]
とかと理屈っぽく謝るところが特徴といえるだろう。こんなふうに硬く理屈っぽく倫理を語るので、熱情の方はまったくピンと来ないというのが漱石なんだなあと思った次第。

そもそも、代助と三千代の関係は、今の感覚では不倫というわけではない。平岡と三千代は離婚するのだし、平岡と三千代の間には子供もいないのだから、その離婚後に改めて代助と三千代が結婚することは、反社会的というほどのものではない。平岡と三千代の心はすでに離れている。これを重大な問題だと感じるのは、漱石だからなのか、当時の普通の感覚なのかはよくわからないけれど、ともかくこれを重大な倫理違反と感じないと、この小説の切実さがわからない。

だから、情感を大事にする読者にとっては、『それから』は駄作ということになってしまう。三千代の心理がいまひとつ現実的であるように見えないということもあるし、代助と三千代がいつから惹かれあっていたのかということに関しても茫漠としている。たとえば、小谷野敦は「『こころ』は本当に名作か」において、『それから』に関して、「歴然と不自然で、代助は三千代が好きだったのに友人に譲ったとか、それが、美の審判者となってくれと三千代の兄から言われたからだとか、まったく意味不明で (p.158)」とか「母の影が異常に薄い (p.161)」とか、あまりの不自然さに拒否反応を起こしている。たしかに、代助が平岡に対して三千代を「周旋」したという言い方が何箇所かで出てくるが、不自然感じは否めない。友達の妻を奪うという状況を作るために、やや無理をして頭で作り上げた筋書きであるとも見える。しかし、上記のようにこの作品のポイントは倫理論なのだから、現実的情感は二の次で読んでいかないといけない。

とはいえ、何が人間らしい生き方かということについては、本当はいろいろ疑問が残る。世間から離れて高尚な精神世界に浸るのは自然なのだろうか?そういう生活はある意味でうらやましいけど、退屈するのではないか、ヒトの本性として不自然ではないかという気がする。研究者生活は、それに近いとはいえ、それでも世間と接しながら生きる部分はどうしてもあるし、なければ研究が捗るというものでも必ずしもないであろう。

仕事をせず高尚な芸術世界に浸るというような生き方は、ギリシャ文化をはじめとする西洋文化の匂いが色濃くする。漱石はそういう価値観に強く影響されているのだろう。でも、これは、みんながそうなったら困る生き方である。高等遊民などというのは、今の憲法で言えば、勤労の義務(憲法第27条)に違反している。しかしこれからの世の中を考えると、いろいろなものが機械化・デジタル化されて、人々はそれほど働かなくても良くなることも予想され、半分高等遊民的に生きるべしということになるかもしれない。それを思うと、代助のような見方もこれから先重要なのかもしれない。ところで、現憲法のように勤労の義務を定めている憲法は社会主義国に多くて他にはそんなにはないそうで、もちろん明治憲法にもない。戦後の復興へ向けて国家社会主義的な思想を背景に入れられた条文であるようだ。自民党は、まともな自由主義政党なら、改憲案でこういうのを廃止しようとすればよいのに、国民の義務が大好きな隠れ国家社会主義政党だからそんな考えは無いようだ。

ところで、週刊朝日 2015/06/19 号では、姜尚中と山藤章二が漱石について対談しており、代助のような見方を「ズレた上から目線」と称していた。ただ、以上述べたような読み方が正しいとすると、これはちょっと的外れなのではないかという気がする。

[豆知識] p.228(角川)にでてくる「ブランギン」Frank William Brangwyn は、今ではほとんど忘れられているけど、生前は有名な画家だったらしい。上野の国立西洋美術館の核になった松方コレクションに大きく関わっているということが「美の巨人たち」というテレビ番組で紹介されている。

以下では、上で述べたような倫理観が明示的に書かれている部分をいくつか引用しておく。

まずは、高等遊民生活を肯定している部分。

代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんなことを言うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操のうえに、結晶して吹き出しているのが、まったく映らないのである。[角川, p.64]
「働くのもいいが、働くなら、生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんなパンを離れている」[角川, p.158]
「つまり食うための職業は、誠実にゃ出来悪いと云う意味さ」[角川, p.159]
「だからさ。衣食に不自由のない人が、いわば、ものずきにやる働きでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」 「そうすると、君のような身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃますますやる義務がある。なあ三千代」 [角川, pp.160-161]
彼の考えによると、人間はある目的をもって、生まれたものではなかった。これと反対に、生まれた人間に、はじめてある目的ができて来るのであった。最初から客観的にある目的をこしらえて、それを人間に付着するのは、その人間の自由な活動を、すでに生まれる時に奪ったと同じことになる。だから人間の目的は、生まれた本人が、本人自身に作ったものでなければならない。けれども、いかな本人でも、これを随意に作る事はできない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、すでにこれを天下に向かって発表したと同様だからである。
 この根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としていた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考えたいから考える。すると考えるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩いたり、考えたりするのは、歩行と思考の堕落になるごとく、自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。従って自己全体の活動をあげて、これを方便の具に使用するものは、みずから自己存在の目的を破壊したも同然である。[角川, pp.249-250]

次に結婚観なのだが、代助は、最初は否定的だったのが、だんだん自分の中の三千代への愛を確認するにつれて、父の勧める縁談を断った上で三千代を「奪う」のが正しいと考えるようになってゆくと描かれている。しかし、そのことによって食べるために働かなければならなくなるという矛盾も出てくる。

 彼は理論家(セオリスト)として、友人の結婚を(うけが)肯つた。山の中に住んで、樹や谷を相手にしているものは、親の取りきめたとおりの妻を迎えて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。彼は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来すものと断定した。その原因を言へば、都会は人間の展覧会に過ぎないからであった。彼はこの前提からこの結論に達するためにこういう径路をたどった。
 彼は肉体と精神において美の類別を認める男であった。そうして、あらゆる美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考えた。あらゆる美の種類に接触して、そのたびごとに甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。彼はこれを自家の経験に徴して争うべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送るすべての男女は、両性間の引力(アトラクション)において、ことごとく随縁臨機に、測りがたき変化を受けつつあるとの結論に到着した。それを引き延ばすと、既婚の一対は、双方ともに、流俗にいわゆる不義(インフィデリテ)の念に冒されて、過去から生じた不幸を、始終なめなければならないことになった。代助は、感受性のもっとも発達した、又接触点のもっとも自由な、都会人士の代表者として、芸妓(げいしゃ)を選んだ。彼等らあるものは、生涯に情夫を何人取り替えるかわからないではないか。普通の都会人は、より少なき程度において、みんな芸妓ではないか。代助はかわらざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。
 ここまで考えた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮んだ。その時代助はこの論理中に、ある因数(ファクター)を数え込むのを忘れたのではなかろうかと疑ぐった。けれども、その因数はどうしても発見する事ができなかった。すると、自分が三千代に対する情合も、この論理によって、ただ現在的のものにすぎなくなった。彼の頭はまさにこれを承認した。しかし彼の心は、たしかにそうだと感ずる勇気がなかった。[角川, pp.281-283]
もし馬鈴薯(ポテトー)が金剛石(ダイヤモンド)よりたいせつになったら、人間はもうだめであると、代助は平生から考へていた。向後父の怒りに触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼はいやでも金剛石を放り出して、馬鈴薯にかじりつかなければならない。そうしてその償(つぐな)いには自然の愛が残るだけである。その愛の対象は他人の細君であつた。[角川, pp.316]
 彼は三千代と自分の関係を、天意によって、――彼はそれを天意としか考えられなかった。――発酵させる事の社会的危険を承知していた。天意にはかなうが、人の掟にそむく恋は、その恋の主の死によつて、はじめて社会から認められるのが常であった。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然とした。
 彼はまた反対に、三千代と永遠の隔離を想像してみた。その時は天意に従うかわりに、自己の意志に殉ずる人にならなければすまなかつた。彼はその手段として、父や嫂(あによめ)から勧められていた結婚に思ひ至った。そうして、この結婚を肯うことが、すべての関係を新たにするものと考えた。 [角川, pp.344]
いちばんしまいに、結婚は道徳の形式において、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容において、何等の影響を二人の上に及ぼしそうもないといふ考えが、だんだん代助の脳裏に勢力を得てきた。すでに平岡に嫁いだ三千代に対して、こんな関係が起りうるならば、このうえ自分に既婚者の資格を与えたからといって、同様の関係が続かないわけにはいかない。それを続かないとみるのはただ表向きの沙汰で、心を束縛することのできない形式は、いくら重ねても苦痛を増すばかりである。というのが代助の論法であった。代助は縁談を断るよりほかに道はなくなった。[角川, pp.348]