『こころ』は本当に名作か 正直者の名作案内

著者小谷野敦
シリーズ新潮新書 308
発行所新潮社
刊行2009/04/20
入手福岡市西部図書館で借りた
読了2015/06/14

図書館で立てて展示してあったのを手にして面白そうだったので借りてみた。著者は第1章を「文学作品のよしあしに普遍的基準はない」と題して始めている。人によって感動する物語とそうでない物語が違うということで、そりゃそうだ、正直でよろしいと思って読んでみることにした。私は書評を読むのが好きなせいもあって、半日で読み終わってしまった。

読んでみると、著者の判断基準では、女性や男女関係がうまく描けているかどうかがかなり大きな要素であることがわかる。文中に「恋愛研究家の私」(第3章 p.182)という言葉もある。男女関係が現実的にありそうなことなのかとか、現実的にいそうな女性なのかとかいったようなことが重要な判断要素としているようだ。最高峰の名作として、まず「源氏物語」を挙げているのが、そういう趣味を反映している。私は、「源氏物語」は現代語訳を途中まで読んだだけで、やっぱり暇じゃないと付き合いきれないと思ったのだが。日本近代のトップレベルの作家として、谷崎と川端を挙げているところや、日本近代文学の傑作として田山花袋「蒲団」を挙げているところに著者の好みが良く現れている。

それと関連して、著者は話が現実的かどうかというところも重視しているようである。私小説や伝記が好きで、推理小説やSFが肌に合わないとしているのは、そういうことなのだろう。

私は著者と違ってたくさん文学を読んでいるわけではないから、著者に賛同できるのかどうかよくわからないところも多いが、私にわかる範囲で著者と私の嗜好の異同を書いてみたい。

「源氏物語」のほか、シェイクスピア、ギリシャ悲劇、ホメロスが最高峰の名作に挙げられている。私は、シェイクスピアは中高生のころ主に福田恒存訳で結構読んだ。ギリシャ悲劇はつい最近『オイディプス王』を読んだところ。いずれももちろん名作であることは確かであるが、この選び方はちょっと古すぎないかとも思うし、現代人にとってのリアリティが無い部分も多いのに著者が好きな理由が必ずしもわからなかった。とはいっても、長い間生き残る作品などそうちょいちょい生まれるわけではないから、名作案内としてはそんなものかもしれない。

題名にあるとおり、著者は漱石をあまり評価していない(第1章 pp.14--15、第3章 pp.154-165)。これは、けっこうよくわかる気がする。今、朝日新聞で漱石の再連載が行われていて、『こころ』『三四郎』ときて、今は『それから』になっているのだが、同時期に連載されている林真理子『マイ・ストーリー』や沢木耕太郎『春に散る』に比べて格段に読みづらいのである。時代背景も違うということはあるけれど、話がごちゃごちゃしているし、筋書きも変な感じである。しかし、いろいろな人の読み方を見比べたりしながら読むことで『こころ』も『三四郎』もそれなりに読み方がわかったように思う。漱石の小説は奇妙で、筋書きはけっこう破綻している。漱石好きの人は、たとえば広田先生の「亡びるね」という台詞などの少し謎めいた言葉を深読みしながら読んでいくのだ。しかし、本書の著者は筋書き重視の人である。だから、著者から見ると漱石の小説はダメだということになる。たとえば、本書によると、『三四郎』では、三四郎と美禰子が結婚することは、当時そもそも考えられなかったはずだそうだ。中産階級の女が学生と結婚するということはありえなかったからだ。もっとも、そもそも私には『三四郎』が恋愛小説だとは思えないのでその不自然さには気づかなかったけれど。『それから』では、代助が美千代が好きだったのに友人に譲ったなどのところが不自然だとのこと。『こころ』においても、「先生」は長男だから婿に入れるはずがないのに、そのへんの事情が書かれていないのが変だとのこと。総じて、男女関係がうまく描かれていないことが問題であるということのようだ。ただ、私から見ると、そもそも漱石はこういった小説で男女関係を描いていないと思うので、そこには目がいかなかった。漱石好きの人は、漱石の小説の中の男女関係は見ていないと思う。それと、著者は漱石が母親に愛されていなかったことも重要なのではないかと述べている。漱石が好きになる人は、母親に愛されていない人が多いのではないかとの推測である。

三島由紀夫もわからないと書かれている(第3章 pp.205-209)。通俗小説や戯曲は良いが、『金閣寺』などはわからないとし、『豊饒の海』は失敗作としている。これは私にもわかる。三島で私が気に入っているのは『サド侯爵夫人』などの戯曲であって、『金閣寺』はわからなかった。私は、三島の通俗小説も『豊饒の海』も読んだことがない。

ドストエフスキーは、あまりにもキリスト教的だということで著者の評価は低い(第1章 pp.23, 27, 166-180)。私が読んだことがあるのは『罪と罰』だけなのであるが、この小説も著者は気に入らないようだ。 それには、大きく2つ理由があるようである。ひとつは、キリスト教的であること、もうひとつは、やたらとラスコーリニコフに対して好意的な人物が出てきて、とくにソーニャなどは男の幻想の産物であるということである。でも、私は面白く読める小説だった。前者に関しては、私はむしろ大地にキスをするというところにロシア的な土着性を感じて、それが好きである。後者の問題は、冷静に考えるとそうに違いないけれど、そういう幻想に感動するということなので、現実的かどうかはまあどうでもよいことであると思う。これもまたロシア的愚者崇拝の一種ではないかと思うわけで、この物語が好きになる理由のひとつである。こういった素朴な信仰にシンパシーを感じるかどうかが、『罪と罰』が好きになるかどうかの分かれ目ということになりそうだ。大地信仰とソーニャ幻想に感情移入できなければ、そりゃ確かに読んでもどこが面白いのかわからないということになるだろう。しかし、ここでまた冷静になって考えると、ソーニャのような幻想を信じるということが、かつての左翼運動の誤りの一因だったような気もするので、現実的には幻想におぼれない著者のような人間のほうが賢いのかもしれない。

後日、著者 twitter 2015/06/13 に「まあ『罪と罰』は殺人犯を英雄視するけしからん小説だ、というならいいが。なお俺はそう思っている。」というつぶやきを見つけた。たしかに、そういうふうに見ると『罪と罰』が名作とされるのは不思議とも言える。現代の小説家が書いたら袋叩きに遭うかもしれない。これからはそういう目でも見てみることにしよう。

豆情報:谷口陸男と龍口直太郎の翻訳はひどい。