朝日新聞は、『こころ』の再連載が好評だったのか、続けて『三四郎』を再連載しはじめたので、新聞に合わせて読んでみた。 『三四郎』を始めて読んだのは、大学生の時だったと思う。私も田舎から東京の大学に出てきたから、 その意味では同じような境遇の三四郎に自分を重ね合わせるように読んだようにも思う。 今は九州にいるから、三四郎の故郷(福岡県京都(みやこ)郡)も近いし、さらに身近な存在に感じられるようになった。 私が前に住んでいた名古屋も一の上京の途中に登場する。明治の風景を想像しつつ、土地柄を楽しむのも一興である。
新聞連載の後でまとめて本を読み直してみると、この小説は新聞連載に向いていないように思った。なぜかというと、けっこういろいろな伏線を張ってあるので、前に戻って読み返して初めてこういうことだったのだとわかることが多いからである。新聞でたらたら読んでいると、前に書いてあったことは忘れるし見返さないので、話の構成がよくわからなくなる。たとえば、重要人物である美禰子と広田先生は、最初は名前が明かされず、しばらくしてから名前が出てくるので、後で名前が出たとき最初どうやって登場したのか忘れているというようなことが起こる。逆に言えば、漱石は連載の前からかなり筋書きを練っていて、連載前にすでにだいぶん書いていたのではないかという気がする。
下に自分なりの細かいメモを書いてみた。これはやってみると面白い。こうやって細かくメモを取りながら読むのがこの本の楽しみ方じゃないだろうかと思う。上で書いたようにいろいろな伏線があるので、メモをしておくと前の部分との関連が分かるという意味もある。 実際、メモを取りながら読み返してみると、新聞でたらたら読んでいた時には気づかなかったいろいろなことに気付く。 また、明治時代のものだから、現在との比較をメモしておきたくなるということもある。 同時代の人だったら、もう少しすらすら読めたのかもしれない。
『三四郎』は、入り組んコラージュのような小説である。新聞で読んでしまうと、クライマックスのないままだらだら終わるつまらない小説だという印象を受けてしまう。平凡と言えば平凡な日常を描いているだけだからである。 三四郎の失恋物語でもあるのだが、恋心の描写が激しくないし理屈っぽい感じなので、それほど恋物語という感じでもない。 しかし、そういう読み方ではなくて、当時のエリートではあるが純朴な田舎の若者の眼から見た東京の風景と人々の群像の数々のエピソードやら理屈っぽい描写やらを個別に楽しんで読むべきものだということに気付いた。後からまとめて読み直すと、コラージュの一つ一つの模様が見えてくるとともに、それらの貼り合わせがつながってきて楽しく読めた。つながりがよくわからない謎のコラージュ(エピソードやら引用やら)もたくさん出てくる。そういう謎の多いところを詮索するのも楽しみになり、多くの研究もあるようである。
これを学園ものの青春小説だと思うと、奇妙な点がある。一つは、学友が佐々木与次郎しか出てこないということである。普通の学園ものだったら、もっと友達が出てきて良さそうなものだが出てこない。 四において、三四郎は自らの周りに三つの世界があると述べている。一つ目は田舎ののんびりした世界、二つ目は俗世間から離れたアカデミックな世界、三つ目は華やかな女性のいる世界である。アカデミックな世界は、野々宮と広田先生に代表されている。女性は、里見美禰子と野々宮よし子である。しかし、ほかの学生はというと、与次郎の他にはほとんど誰も出てこない。つまり、ここに描かれている世界は、漱石の周りのサロンから見た世界なので、あまり学生っぽさが無い。 もう一つは、美禰子がやたらと賢いということである。三四郎を最後まで悩ますストレイシープなどという単語を口にする女性は、明治時代にはそうそういたとは思えない。でも、美禰子のこの謎めいた賢さが『三四郎』の魅力となっている。
上の事にも関連して気づいたこと3つ:
- この小説では、理系のアカデミズムは野々宮に代表されて大学にあるのだが、文系のアカデミズムは広田先生に代表されて 高等学校にある。大学の文科の講義は、退屈でわからないものと描かれている。漱石は、大学の文系のアカデミズムに失望していたのだろうか?
- 三四郎の外見がどうであったかがあまり描かれていない。この小説は、三四郎から見た外の世界を描いているということと、三四郎自身はできるだけ目立たない普通の学生として描きたいという感覚があったのだろう。ただし、三四郎の身長は五尺四寸五分 (165cm くらい) だったと十二に書いてある。
- 三四郎は、帝大生だからエリートのはずなのだが、プライドもそう高くなく、生意気でもなく、かといって気負いもそんなにないところが良い。素直な良い子である。
なお、岩波文庫版と朝日新聞再連載版は基本的に同じものである。文字の使い方から注に至るまで一緒である。