方丈記 全訳注

著者鴨 長明
訳注安良岡 康作
シリーズ講談社学術文庫 459
発行所講談社
刊行1980/02/10、刷:1996/05/20(第23刷)
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読了2016/12/30

方丈記 現代語訳付き

著者鴨 長明
訳注簗瀬 一雄
シリーズ角川ソフィア文庫
発行所角川学芸出版
電子書籍
刊行2013/08/15
電子書籍の元になった文庫1967/06/15、改版:2010/11/25、版:2012/12/25(改版7版)
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読了2016/12/29

鴨長明と方丈記 波乱の生涯を追う

著者浅見 和彦
シリーズNHK カルチャーラジオ 文学の世界 2016 年 10~12 月
発行所NHK 出版
刊行2016/10/01(発売:2016/09/25)
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読了2016/12/29

鴨長明没後 800 年ということで、『方丈記』と鴨長明の生涯の解説放送があった。 4年前には、NHK「100 分で名著」でも解説があった。今回また別の人の解説ということで復習である。 放送は、テキスト棒読みではなかったので聞きやすかった。

今回は、これを機にさらに原文(注釈・現代語訳付きの安良岡本と簗瀬本)も一緒に通しで読んでみた。もともとそんなに長いものではないので、放送の進行と共にゆるゆる読んで行くことができた。 訳注本の安良岡と簗瀬では、全体的には安良岡本のほうがわかりやすく丁寧で、意味も通りやすい。 簗瀬本は一見新しいけど、元の本が古いので不親切である。すぐ後で見るように、『方丈記』は技巧的な作品なので、かなり詳しい注がないと読みとりがうまくできない。

『方丈記』は、随筆の代表の一つであるようによく言われる。しかし、丁寧な注釈付きで原文を読んでみると、あんまり随筆らしくなく、むしろ散文詩と言いたい。 随筆といえば、思索の跡を思いついた順番で書き連ねて行く感じだが、『方丈記』では思索よりも対句などを多用した和漢混淆文の美文調が心に残る。 注釈などと引き比べると、内容そのものは、本歌取りよろしく、昔の文学作品を下敷きにして書かれた部分も多い。だから、本当のことを書いているのかどうかも怪しい。たとえば、方丈の庵の周囲の様子を描いた以下の部分を見てみる。

春は、藤波を見る。紫雲の如くして、西方ににほふ。夏は、郭公(ほとどぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、日ぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は、雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障に喩へつべし。
これは一見すると周囲の景色を描いているようではあるが、藤もほとどきすもひぐらしも雪も季語だし(当時は季語という概念はまだ確立していなかったかもしれないが、季節に合わせた題材で歌を詠むことは昔から行われていた)、藤→紫雲→西方、ほととぎす→死、ひぐらし→うつせみ→世、雪→積もる→罪といった連想はいかにも和歌の縁語であると同時に、季節から仏教的観念へと導かれるように工夫されている。さらに、この部分の少し前に方丈の庵には阿弥陀と普賢の絵像があると書かれているが、紫雲と西方は阿弥陀仏と結びつくし(阿弥陀仏は西方の極楽浄土にいるので)、罪障は普賢菩薩と結びつく(普賢の十願のひとつに「懺悔業障」があるので)。このように連想が緊密に結びついて立体化されている。

和歌と漢文と仏教をポリフォニックに響かせるこのような技巧は謡曲も思わせる。世阿弥はこれから2世紀後の人だが、能を導く文化的な素地はすでにこのころからあったのであろう。文のリズムも、謡曲っぽさを感じるものである。謡曲風に読むと調子が良さそうである。

というわけで『方丈記』は、歌人長明が和歌の技巧と漢文の力強さを散文に流し込んだものと見るべきだろう。 このような技巧的な作品は随筆とは呼び難い。むしろ散文詩と見た方が良いように思う。 つまり、思ったことをただ書き付けたというよりも、全体として仏教的諦念を柱としつつ文学的感興を呼び起こすことを狙って、新しい文体を開発した作品というべきではなかろうか。

全体の構成も随筆というよりは、きわめて計画的である。冒頭は、有名な美文調で無常観を巧みに歌い上げた後で、いろいろな災害を無常の実例として挙げている。最後の結びも実に文学的にうまく終えられている。執着を無くすということで、方丈の庵が住み良いといった後で、方丈の庵を愛することもまた執着であるかもしれぬとして、念仏を唱えて終わるというのもまた絶妙である。最後の「不請の阿弥陀仏」は解釈がいろいろあるということで解説本にはこと細かく様々な説が書かれているが、このあたりも長明が意図的に文学的な含みをいろいろ持たせて終えたのだと思う。

解説では、鴨長明の人となりも書かれているから、それと併せて考えると、このような文学が生まれた背景も分かってくる。長明は、歌人であり、琵琶もよくしたけれども、本職であるはずの神職の方はおろそかだったようだから、基本的には趣味人であった。 和歌所の一員としては勤勉だったので、後鳥羽院からの覚えはめでたかったようだ。それで、後鳥羽院に河合社(かわいしゃ or ただすのやしろ)の神官にしてもらえそうだったのだが、鴨一族からの横槍が入り、それが叶わなくなった。後鳥羽院は善後策を提示したのだが、長明はそれを蹴って出家してしまい、以来、遁世者となった。『源家長日記』には、長明のことを「こはごはしき心なれば」(強情だったので)と書いてあるところから見て、長明は頑固でプライドが高かったのだと考えられる。それで横槍でプライドを傷付けられたとき、遁世しようと思ったのだろう。なお、安良岡本の解説によれば、この時代遁世はそれほど珍しいことではなかったようである。ただ、頑固でプライドが高い人であれば、もちろん自己の行動は論理的にも正当化されなければならない。それが『方丈記』につながっているように思える。『方丈記』では、世は無常なので方丈の庵での生活が良いのだということが美しく力強く語られる。最後にはその論理がさらに行き過ぎて、方丈の庵への愛もまた執着だからそれもまた捨てねばならぬというところまでいく潔癖さがある。その実、そこまで達観できていたかというと、『源家長日記』によれば、家長が大原で長明に会った時、後鳥羽院のことを思って「苔の袂(たもと)もよよと萎(しほ)れ侍りし」という具合に泣き崩れたそうで、やはり俗世への未練もあったのようだ。であればこそ、『方丈記』を書いて、執着を捨て去ろうとしたのではないかと思える。それを表現するには、和歌では弱すぎるし、漢文は冷たすぎる。したがって、和漢混淆文でなければならなかったし、理論的支柱はもちろん仏教でなければならなかった。そして、歌人としてのプライドによって、それを技巧的に飾ることも忘れなかった。

放送は、必ずしも『方丈記』の解説という訳でもなく、鴨長明の生涯をたどるということに重点があった。他の文献も参考にしながら鴨長明の足取りをたどっている。安良岡本、簗瀬本にも鴨長明の生涯の解説があり、とくに安良岡本の解説は詳しい。それらを参考にすると、上記のようにこのような文学が生まれねばならなかった必然性も想像できるのである。

最近では、最も古い写本である大福光寺本を基にするのが一般的らしく、参照した3つの本はすべてそれに基づいている。

原文に関して気付いた点、メモ

以下、番号は、安良岡本に従った区切り。

(一)行く河の流れは絶えずして―人と栖(すみか)との無常―

また知らず、仮の宿り、誰(た)がためにか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。
ここの解釈は少し難しい。安良岡の「無常の世における仮の住まいというのものは、だれのために、心を労して作り、何にもとづいて、目に快楽を与えるように飾り立てるのか。」が一番分かりやすい。浅見は「家もはかなく滅んでゆく。そんなものに心を悩まし、また喜ぶという。」とあっさり訳している。元の文章が曖昧なので簡単に訳したのだと思うが、原文との対比ができない。簗瀬では、「この世を仮の宿りといった。」という紛らわしい注釈が付いているのが困る。後ろの朝顔と露の比喩から言って、「仮の住まい」は文字通り家を指すと見るべきだろう。実際現代語訳では「家」としているのだが、この現代語訳はその後とのつながりがわかりづらい。
以上の考察を元に私が訳し直すと、「家もそのうちはかなく壊れるものなのに、わざわざ頭をひねって作るのはいったい誰のためなのだろうか、わざわざ飾り立てるのはいったい何のためなのだろうか。」となる。

(二)予、ものの心を知れしより―安元の大火―

安元の大火
安元の大火の詳しい考察(片平博文 (2007) 12~13世紀における京都の大火災, 歴史都市防災論文集 Vol.1)がネット上にあった。それによると、平安~鎌倉期の京都では、暖房を使う 1 月~ 2 月と、湿度が低くなる 3 月~ 6 月上旬に火災が多かった。安元の大火も新暦で 6 月上旬である。さらに、その日の気象条件の推定もなされている。
焔にまぐれて、忽(たちま)ちに死ぬ
「まぐる」は、安良岡本の解説が詳しい。「まぐる」は、「目暗る」で、目がくらむ、めまいがする、さらに転じて、気を失う。 ここでは、「焔に目がくらんで、あっという間に死んでしまう」ということ。
男女死ぬる者、数十人
安良岡は、これは数百人の誤りだろうと推測している。

(三)また、治承四年卯月のころ―治承の辻風―

治承の辻風
安良岡本によると、竜巻が起こったのは 1180 年の太陽暦で 6 月 1 日。
かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる
「かばかりにこそは」を、浅見は「これほどではない」と訳しているのに対し、安良岡や簗瀬は「このくらいであろう」と真逆に訳している。 「かばかりにこそは」の後に何が省略されていると思うかで、「かばかりにこそはあらざらめ」と思えば浅見訳に、「かばかりにこそはあらめ」と思えば安良岡・簗瀬訳になる。私の現代語日本語による直感では「地獄の業風もこれほどぢゃあ」の後には「ないだろう」が省略されていると思えるので、浅見の方が正しいと思う。言い換えると、「こそは」の「は」を重視すると否定が続きそうである。
さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし
「さとし」を、浅見は「前兆」と訳しているのに対し、安良岡の注では、超自然的なものからのお告げ、啓示、宣託であって、前兆という意味は無いとしている。簗瀬も安良岡と同様、「神々の警告」としている。
「さるべき」は、安良岡は「さとし」にかかると見ているのに対し、簗瀬は「もの」にかかるとしている。前者なら「しかるべきお告げ」、後者なら「お告げを与えるに相応しい神仏」ということになる。日本語の流れとして自然なのは後者の気がする。とすれば、「未来を予言するとかいう神様のお告げかしらん、などと疑ってみた」という感じになるだろう。

(四)また、治承四年水無月のころ―福原への遷都―

福原遷都
解説が「神戸市文書館 福原遷都」にあった。平清盛が強引に遷都してみたものの、準備不足やら源氏の挙兵やらで失敗に終わったということのようだ。
その地、ほど狭くて、条理を割るに足らず
地図上でどういう計画だったかは、ネットを検索すると2通り出ていた。一つは朱雀大路を北東-南西に通すもので、 もう一つは朱雀大路を南北に通すものである。 いずれにせよ、現在の神戸市兵庫区から長田区南部の平野が比較的広いところで、良港であった大輪田泊(現在の神戸市兵庫区中之島に面しているあたり)の近くであったと考えられる。しかし、神戸は平地が狭いので、なかなか場所がとれずに困ったようだ(ほど狭くて、条理を割るに足らず)。
内裏は山の中なれば、かの木の丸殿(まろどの、まるどの)もかくやと、なかなかやうかはりて、優なるかたも侍り
「木の丸殿」跡とされる場所が、福岡県朝倉市の筑後川のほとり(うきは市との境界に近いところ)にある。 [参考:「花橘亭~なぎの旅行記」―「恵蘇八幡宮」]
「丸殿」を浅見、簗瀬は「まろどの」と読み、安良岡は「まるどの」と読んでいる。
ここの「なかなかやうかはりて、優なるかたも侍り」=「かえって様子が一風変わっていて趣があるところもございます」を素直に受け取るか、皮肉だと思うべきかはよくわからない。簗瀬は、現代語訳で「皮肉の一つも言いたいくらいだ」と明示的に皮肉だと補っている。

(五)また、養和のころとか、久しくなりて―養和の飢饉―

養和の飢饉
この2年は 1181(治承5・養和元) -- 1182 (養和2・寿永元) 年を指す(安良岡本)。旱魃による飢饉であったようだ。その前年も含めているものもある。これはだいたい源平争乱の前半期に一致する。1180 年に以仁王が挙兵し、石橋山の戦い、富士川の戦いが起こる。1181 年には平清盛が歿する。防災情報新聞 2011.07によると、飢饉は西日本でひどく、西日本を基盤にしていた平家が大打撃を受けて、平家が滅びる一因となったとのこと。伊藤啓介 (2016) 「藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討― 「大飢饉」の時期を中心に ― 」においては、中世の飢饉と気候記録の詳細な対比がなされており、気温の上昇期の旱魃であったことがわかる。
秋刈り、冬収むるそめきはなし
安良岡、浅見は「そめき」、簗瀬は「ぞめき」。広辞苑によれば、古くは清音。意味は、「にぎわい、さわぎ」。
世の人、皆けいしぬれば
「けいす」が何かはよくわかっていないらしい。安良岡本では「やまいだれに圭(げい)」という字(意味は、病気)に当たるとして、 「皆が病気にかかってしまったので」と訳す。簗瀬本では「飢(け)す」が長音化したとみて、「一人残らず栄養失調になったものだから」と訳す。
家ごとに、乞ひ歩(あり)く
「歩く」を、安良岡は「~して回る、動き回って~する」であるとして、「一軒ごとに物乞いして回っている」と訳している。 広辞苑でも「動詞の連用形+ありく」は「~して回る、あちこちで~する」の意味としている。簗瀬は「あるく」の意味に取って、 「一軒一軒ものごいをして歩く」と訳している。安良岡の方がもっともらしそう。

(六)また、同じころとかよ、おびただしく大地震(おおなゐ)ふる事―元暦の地震―

元暦の地震
1185 (元暦2・文治元) 年 7 月 9 日(太陽暦 8 月 13 日) の地震。理科年表 2015 年版では、京都あたりが震源の M7.4 くらいの地震であるとしている。しかし、津波の発生と見られる記述もあることから、都司嘉宣 (1999) 「『平家物語』および『方丈記』に現れた地震津波の記載」建築雑誌 114, 46-49は、これが南海地震であった可能性を指摘している。
都司の考察では、『方丈記』の記述は『平家物語』の記述にもとづくものとしてある。その一方、安良岡本では、『平家物語』が『方丈記』の記述を取り入れたものとしてある。都司は『平家物語』の原型は 1200 年ころ成立したと見ており、『方丈記』は 1212 年の成立である。
斉衡の地震
このころ地震が頻発したようで、安良岡本だと『文徳実録』を引用して、斉衡 2 年 5 月 10, 11 日, 6 月 21, 25 日に地震があったとしている。 静岡大学の [古代・中世] 地震・噴火史料データベースには、『文徳実録』に基づいてもっとたくさんの地震の日付が載っている。要するに『文徳実録』しか記録がないようである。しかし、どれも簡単な記述しかなく、場所も大きさも分からない。理科年表 2015 年では、856 (斉衡3) 年 3 月ころの地震だけ取り上げており、京都付近で M6~6.5 だったとしている。
『方丈記』では、地震によって奈良の大仏の首が落ちたとしているが、簗瀬本の補注では無関係としている。『文徳実録』では、大仏の首が落ちたのは、斉衡 2 年 5 月 23 日 (太陽暦では 855 年 7 月 10 日)で、地震の日とは異なっている上、地震との因果関係は書かれていないからである。

(七)すべて、この世のありにくく―世の中に生活する悩み―

この世の住みにくさを語った部分

(八)わが身、父方の祖母の家を伝へて―出家、遁世と方丈の庵―

わが身、父方の家を伝へて
最初の「わが身」は、底本では「ワカカミ」となっているもので、安良岡と簗瀬は「わが身」の誤りだと解釈した。一方、浅見は「わかがみ」と読んで、「若い頃」の意としている。
雪降り、風吹くごとに、危(あやふ)からずしもあらず。
「危し」は、浅見と簗瀬は「危険がある」と訳しているが、安良岡は「気がかりだ、心配だ、不安だ」の意味だとしている。
所、河原近ければ、水難もふかく、白波のおそれもさわがし
「水難」は、浅見は素直に「すいなん」と読ませているが、安良岡と簗瀬は「水の難」と「の」を入れた上、安良岡は「みずのうれへ」と読ませている。意味は、いずれにせよ「水害」。「白波」は「しらなみ」もしくは「はくは」もしくは「はくば」で、安良岡と簗瀬は「盗賊」の意味としているのに対し、浅見は「盗賊と白波をかけている」としている。いずれにせよ「水」と「白波」を縁語として使っているのは明らかである。

(九)いま、日野山の奥に跡を隠して後―日野山の草庵生活の種々相―

日野山の方丈の庵
日野山の庵跡とされるところに「長明方丈石」なるものがある。
下鴨神社の摂社の河合神社には方丈の庵が復原されている。
長明を尊敬していた江戸時代の文人である松花堂昭乗が作った方丈の茶室「松花堂」が京都府八幡市の松花堂庭園にある。
やはり長明を敬愛していた江戸時代の久保長闇堂は、方丈の庵を模した方七尺の庵を作った。奈良市の興福院(こんぶいん)に「七尺堂」として復原されている。
その西に、閼伽棚を造り
閼伽棚がどのようなものかの解説が三省堂による『源氏物語絵巻』「鈴虫」の解説の中にある。
名を外山といふ。まさきのかづら、跡を埋(うず)めり
まさきのかづらが具体的に何の植物を指すかは難しいらしい。安良岡注だとテイカカズラということになっているが、リンク先ではサンカクヅルかアマヅルではないかとしている。江戸時代はツルマサキを指していたようで、簗瀬訳ではツルマサキだ。
長明がここで「まさきのかづら」を出してきているのは、安良岡注の通り、神楽歌の「深山(みやま)には霰(あられ)降るらし外山(とやま)なるまさきのかづら色づきにけり」を受けてのことと考えられる。「とやま」と来れば「まさきのかづら」なのである。
春は、藤波を見る
日本の藤にはノダフジ(フジ) wisteria floribunda とヤマフジ wisteria brachybotrys がある。一方が右巻きで他方が左巻きという違いがあるのだが、右左の呼び方は定義がひとによっていろいろあるそうだ。安良岡解説によれば、この藤波の藤はノダフジの方。ノダフジの方が花序が長くて波のように見えるとのこと。ノダフジの「野田」は、大阪市福島区野田にちなむとのこと。
もし、跡の白波にこの身を寄する朝(あした)には、岡の屋に行き交ふ船を眺めて、満沙弥が風情をぬすみ
この前後のあたりは古典に依拠した技巧的な文章が連なっている。
この部分を読み解くためのポイントは安良岡や簗瀬の注にある通り、沙弥満誓(満沙弥)の歌「世の中を何にたとへん朝ぼらけこぎ行く船の跡の白波」である。
「岡の屋」の地名は、現在、宇治市立岡屋小学校(宇治市五ケ庄、黄檗駅近く)に残っている。当時は巨大な小椋池(巨椋池)があったので、船が行き交っていたものと思われる。
岩梨を採り
安良岡本では、素直にイワナシ(ツツジ科イワナシ属)としている。簗瀬本では、注では地梨(クサボケ、バラ科ボケ属)、訳ではコケモモ(ツツジ科スノキ属)としており混乱している。

(十)おほかた、この所に住み始めし時は―草庵生活の反省―

ここは、安良岡と簗瀬とで解釈が少しずつずれているところが多い。

これ、事知れるによりてなり
安良岡では「これは、そうすべき理由を知っているからである」。簗瀬では「これは事のある時の危険を知っているからだ」。すなわち、「事」を、安良岡は「わけ、理由、事情」と解しているのに対し、簗瀬は「大事、変事、良からぬ事件」と取っている。このすぐ後でも「事を知り」「事のために」という部分があるが、ここと同様両者で解釈が異なっている。
心、身の苦しみを知れれば/身、心の苦しみを知れれば
安良岡では前者の「心、身の苦しみを知れれば」を取り「私の心は、体の苦労を知っているから」と訳し、簗瀬では「身、心の苦しみを知れれば」を取り「からだには、心の苦しみがよくわかるので」と訳している。底本は後者なのだが、安良岡はそれでは意味が通らないからということで、伝写本の中にある「心、身の」の方を採用している。この違いによって、その後の部分の解釈も違ってくる。
常に歩(あり)き、常に働くは養性なるべし
「養性」の解釈は、安良岡では「養生」と同じで、運動は健康に良いという事になる。これに対し、簗瀬は「養性」は「天性を養う、本来の自己の心を保つ」として、運動は心に良いという解釈になっている。簗瀬は「身、心の」から始まる部分は身と心の関係を述べているので、この文もその文脈で解釈すべきだとしている。
糧(かて)乏しければ、おろそかなる報(むくい)を甘くす
「報い」を、安良岡は前世の因縁による果報としているのに対して、簗瀬は自分の努力に応じて手に入った食べ物の事だとしている。浅見は、単に「食べ物」と訳している。

(十一)それ、三界は、ただ、心一つなり―草庵生活における閑居の気味―

田舎の草庵住まいに満足していると語っている。

(十二)そもそも、一期の月影傾きて―草庵生活の否定―

最後に、草庵を愛するという考えを執着であるとして否定し、念仏で終わる。

不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ
この「不請」の解釈はいろいろあるらしく、とくに安良岡本では事細かに解説してある。安良岡は、「不承不承(ふしょうぶしょう)」と同じで「気が進まない、いやいやながら」の意味だという解釈を取る。長明はこのあたりの文章で、自らの未熟・不徹底を見つめているので、ここも自らの念仏に心がこもっていないと書いているのだろうとのことである。簗瀬は、「不請」は「不奉請」で、「阿弥陀仏をお迎えする儀礼を整える暇(いとま)が無い」という意味だとしている。つまり、長明は最後に、暇を惜しんでも阿弥陀仏への帰依をせざるを得ないという感動を書いているのだという解釈である。

語彙メモ

以下、番号は、安良岡本に従った区切り。

あぢきなし
[安良岡注] するかいがない、努力する意味がない、無益・無用に感ぜられる
(二)財(たから)を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。=財産を消費し、心をあれこれと労するのは、非常に無益なことと思われます。(安良岡訳)
(六)人皆、あぢきなき事を陳(の)べて、いささか、心の濁りも薄らぐと見えしかど、=人々はみな、家を造ることの無意味なことを口に出して言って、少しばかり、心の汚れも減少するかと思われたが、(安良岡訳)
たまゆら
[広辞苑] ①ほんのしばらくの間、一瞬 ②草などに露の置くさま
(七)いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしも、この身を宿し、たまゆらも、心を休むべき。=どんな場所をわがものとし、どのような行動をしたなら、しばらくでも、この一身を住まわせ、ちょっとの間でも、心を安定させることができるのか。(安良岡訳)
Cf. たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風(新古今集 哀傷・藤原定家)=玉のような草木の露も私の涙も、ほんのしばらくの間もとどまらないでこぼれ落ちる。亡き人を恋い慕う、この家に吹く秋風のために。(「たまゆら」は、「玉のようだ」ということと、「わずかの間」ということをかけている;学研全訳古語辞典)
なぞらふ
[安良岡注] 比べる、比較する
(四)今の世の有様、昔になぞらへて知りぬべし=「いまの世の様子は、昔にひき比べて、いかに相違しているかをよく知ることができるのである」(安良岡訳)
(十)昔と今とをなぞらふるばかりなり=「昔と現在とを比較してこのように言うだけである」(安良岡訳)
念ず
[安良岡注] 堪え忍ぶ、こらえる、我慢する
(五)念じわびつつ=「我慢ができなくなるにしたがって」
(八)あられぬ世を念じ過(すぐ)しつつ=「この不都合な世間をがまんしながら暮して来て」(安良岡訳)
わぶ
[安良岡注] なしがたいのに苦しむ、なしかねる、困惑する、やりきれない
(五)念じわびつつ=「がまんできかねるにしたがって」(安良岡訳)
(五)かくわびしれたるものどもの=「このように、やりきれなくなって頭がおかしくなった人たちは」(安良岡訳)
Cf. わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ(百人一首 元良親王) =「(不倫がばれて)これほどまでに困ったつらい状態になってしまったのだから、今はもはやどうなっても同じことです。難波の海の澪漂(みおつくし)のように、この身が尽きてもあなたに逢いたいと思います。」

解説に関するメモ

長明の鎌倉下向
浅見は、長明は実朝と気が合ったのではないかという推測している(第11回)。一方、簗瀬の巻末解説によれば、実朝は定家を師としたので、長明とは意見が合うわけがないとしている。

放送時のメモと放送テキストのサマリー

第1回 鴨長明の出発―ゆく河のながれ

鴨長明
鴨長明は 1216 年に亡くなったので、今年は没後 800 年記念の年。
『方丈記』冒頭
冒頭の文章は非常に有名で、秀抜。
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
文章上の工夫としては、「かつ~かつ~」という繰り返しが音楽的で、あぶくの消長が眼前に現れるようである。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)がためにか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。その主(あるじ)と栖(すみか)と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露にことならず。或は露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕(ゆふべ)を待つ事なし。
対句を使った名文である。
方丈記の評判
方丈記は、1212 年成立。40 年後の『十訓抄』という説話集に引用されているから、早くから広く読まれていたのだろう。
鴨長明の誕生
鴨長明は 1155 年頃生まれた。下鴨神社の神職の家に生まれた。父親は鴨長継(かものながつぐ)。南大路亭というところに住んでいたらしい。場所は、今で言えば、百万遍の南東で、京都大学の時計塔かその北側のあたりではないかと思われる。
下鴨神社境内とその周辺には川がいろいろ流れていた。これが冒頭の「ゆく河」につながっているのだろう。

第2回 安元の大火―五大災厄その一

予、ものの心を知れりしより、四十(よそじ)余りの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。
ものの心を知る=分別を知る
不思議=想像もできないこと
四十年前の十八歳の頃、長明の父親の長継が亡くなる。
安元の大火
1177 年旧暦の 4 月 28 日(月末=新月)の夜に大火が起きた。強い南東風に煽られて、都の東南から出火して、北西に広がった。平安京の左京部分の三分の一が焼失。
朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などの重要な建物が焼失。この後、大極殿は再建されることがなかった。
京都の大路は幅 50 m くらいあった。朱雀大路は 80 m くらいもあった。これだけ道幅が広いのは、一つには防火対策。
平安文学では、火事の描写がほとんどない。中世の『方丈記』になってはじめて生々しい描写が現れた。
翌年にも京都南部で大火があった(治承の大火)。安元の大火を「太郎焼亡」、治承の大火を「次郎焼亡」という。
安元の大火に関する結論
人のいとなみ、みな愚かなるなかに、さしも危ふき京中に家をつくるとて、財(たから)を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る

第3回 治承の辻風と福原遷都―五大災厄その二

治承の辻風
1180 年の竜巻。中御門京極から現在の本願寺のあたりまで吹き抜けた。
ありとあらゆるものが飛んでいった。「かの地獄の業(ごふ)の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。」
福原遷都
竜巻から1ヵ月後、突然の遷都。準備不足だった。
1180 年に、以仁王と源頼政によるクーデター計画が平家側にばれて、王と頼政は平家によってあえなく討たれる。
平清盛はこの事件にショックを受けて、防御しやすい福原(神戸)に遷都を行った。
長明は何かのついでに福原に行ってみた。土地が狭く、波の音がうるさい。新しい都もなかなかできない。長明はなかなかの行動派である。
そうこうしているうちに、高倉上皇が病気になったり、息子の宗盛から反対が出たりした。それで半年も経たないうちに京都に戻る。

第4回 養和の大飢饉と元暦の大地震―五大災厄その三

福原遷都の後
治承 4 年の暮れ(新暦では 1181 年)、南都焼き討ちが起こる。東大寺の大仏殿が焼け落ち、人々が多く死に、大仏は融けて首が落ちた。
明くる治承 5 年 (1181 年)、高倉上皇が歿し、次いで平清盛が歿す。
養和の飢饉
折からの旱魃と天候不順で、飢饉が生じる。
京都でとくに飢饉がひどかったほかの要因としては (1) 南都奈良の復興のための取立て (2) 源平の争乱による京都への輸送の滞り、が挙げられる。
母親が死んだ乳飲み子の描写「母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、ふせるなどもありけり。」
隆暁法印は、死者の額に阿字を書いていった。その数を数えると左京だけで 42300 余りだった。これは、当時の人口の半分に近い。
平家滅亡と元暦の大地震
1185 年 3 月 24 日、壇ノ浦で平家が滅亡する。4 月には、京都で平家諸将の首や生け捕られた武将たちが引き回される。 6 月 22 日、平家の大将だった宗盛が琵琶湖で打ち首にされる。
同年 7 月 9 日、京都で大地震が起こる。琵琶湖で津波が起こる。さらに、液状化が起こる=「土裂けて、水湧き出で」。

第5回 鴨長明の前半生

鴨長明の幼年〜青年期
1155年頃生まれる。1156年は保元の乱。これから乱世が始まる。
20歳の頃、父長継歿す。しばらく父方の祖母の家にいたが、そこの家を出ざるをえなくなって、30歳頃、庵を作った。庵と言っても、築地があって車庫(牛車の車庫)があるので、それほどみすぼらしいわけでもなさそうだ。
歌人長明
34歳頃、千載和歌集に長明の歌が一首選ばれる。長明は、和歌を俊恵に学んでいた。
正治二(1200)年、百首歌の歌人に選ばれる。

第6回 歌人鴨長明

後鳥羽院の歌会
後鳥羽院は才人で、和歌の活動にも熱心だった。
正治二年 9 月 30 日の院当座歌合では、長明は二勝一持(引き分け)だった。しかし、定家からは批判される。
建仁元(1201)年、和歌所の 13 人の寄人の一人に選ばれた。
「夜もすがら一人深山(みやま)の槙の葉に曇るも澄める有明の月」撰歌合で定家に勝ち、新古今集にも採用された歌。
建仁二(1202)年 3 月 22 日、「三体和歌会(さんたいわかえ)」が催される。
建仁三(1203)年の大内(=内裏)の花見あたりが、長明の絶頂期だった。この後、運命は暗転する。
余談
京都御苑の旧近衛邸の桜は美しい。

第7回 長明の挫折と出家遁世

挫折
後鳥羽院は、長明を下賀茂神社の摂社の神官にしようとした。長明は喜んだ。
しかし、一族の鴨祐兼(すけかね)が、自分の息子の祐頼(すけより)の方が相応しいと横槍を入れた。
後鳥羽院は、しかたなく人事案を撤回し、長明を他の神社の神職にあてようとした。しかし、長明はこれを拒否して、和歌所を飛び出した。 長明五十歳ころのことであった。
長明出奔
「澄みわびぬげにや深山(みやま)の槙の葉にくもるといひし月を見るべき」定家に勝った歌を受けて隠棲を宮中に知らせた歌。
出奔後の足取りはあまりよくわかっていないが、おそらく東山の円山公園の辺りに行って出家したようだ。 その後、北山の大原に行ったらしい。
長明は、手作りの琵琶「手習(てならい)」を持ち込んでいた。後鳥羽院がこれを所望したので、長明は献上した。 これは名器で、後に北条時頼の所有となった。
源家長が所用で大原に行ったとき、たまたま長明に会った。長明は声を上げて泣き、後鳥羽院からもらった琵琶の撥(ばち)を見せた。

第8回 方丈の草庵

日野の方丈の庵
60 歳近くなって、方丈 (3m×3m) の家を作った。高さは 2m くらい。組み立て式で、解体移動が容易。
方丈記には庵の様子が簡潔に描かれている。
この庵の置き場所を日野に定める。
庵は「一身を宿すに不足なし」(方丈記)
草庵と茶室の類似性
『南方録』は利休の秘伝とされる。利休の茶も質素を旨とした。
「茶湯は台子(だいす)を根本とすることなれども、心の至るところは草(そう)の小座敷にしくことなし」(南方録)
江戸時代の茶人の松花堂昭乗や久保長闇堂も方丈の庵に倣って小さな茶室を作った。彼らも鴨長明を敬愛していた。

第9回 数奇人長明

数奇(すき)
「数奇」はもともと「好き」で、特定の事柄に打ち込むこと。長明も音楽(琵琶や琴)を楽しんだ数奇者であった。
「もし、余興あれば、しばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる」(方丈記)ここの「秋風楽」は筝の曲、「流泉」は琵琶の曲。
長明は、琵琶の演奏会で興に乗って、弾くことが許されていない秘曲「啄木」を弾いたので、楽所預(朝廷の音楽の総責任者)の藤原孝道から指弾された。
長明の「発心集」には数奇人の話がいくつか載っており、数奇人礼讃の芸術至上主義的な考えが述べられている。
長明は、桜を愛し月を愛する人は、俗世間から遠いところにあり、執着から遠ざかって理想的だと述べている。

第10回 長明の旅、長明の恋

長明の旅行
長明は、十歳くらいの子供と散歩する。
長明は、日野から山歩きをして、琵琶湖畔に行って、京都の近くを回ってまた日野に戻ってくる。
「桜を狩り、紅葉をもとめ、蕨を折り、木の実を拾ひて」(方丈記)春の桜、秋の紅葉、春の蕨、秋の木の実というふうに春と秋を対にしてある。
関の清水という歌枕を尋ねてみる。しかし、当時すでに水は枯れていた。
長明は、紀貫之の家(現在の京都御所の一部)、在原業平の家(現在の御池通り)も訪れる。
長明は仲間と一緒にツアーを組んで、名所旧跡を回ることもあったらしい。
長明の伊勢旅行と恋
長明は36歳ころ伊勢に行ったらしい。
「晴れのぼる霧におくれて立つ雲は焼出の浜の煙なりけり」(伊勢記)伊勢の塩竃から立つ煙を詠んだ歌。
伊勢の夫婦岩の近くの音無山から景色を眺めて富士山も見ている。
伊勢には恋人がいたらしい。「鈴鹿山伊勢路に通ふ三瀬川の見せばや人に深き心を」(伊勢記)

第11回 鴨長明の鎌倉下向

長明の鎌倉下向
1203 年、源実朝が鎌倉幕府の3代将軍になる。
1211 年、鴨長明が飛鳥井雅経と一緒に鎌倉に行って、源実朝に会う。長明は、実朝に何度も会った。2人は気が合ったのだろう。
実朝の「金槐和歌集」に「君が代も我が世も尽きじ石川や瀬見の小川の絶えじと思へば」という歌がある。 これは長明の物議をかもした歌「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてぞすむ」を思わせる。
ところで、長明が鎌倉に行ったのは、実朝に雇ってもらおうと思ったという説がある。後鳥羽院の密命を受けていたという説もある。 著者は、長明には東国の歌枕を見たいという気持ちもあったのではと想像している。
入間川の大洪水
「発心集」に入間川の大洪水の話が出ている。長明はこの洪水の現場にいたとは考えられない。 長明は、この話を実朝から聞いたのかもしれない。

第12回 長明にとっての家族

『発心集』
『発心集』には家族の別れの話がいろいろ載っている。たとえば、(1) 大洪水の時に、家族を置いて濁流に飛び込む男 (2) 観音浄土に行こうとして、家族を置いて渡海する男 (3) 思いつきで家族を捨てて出家する男。
夫婦愛の話もある。たとえば、産後亡くなった妻が枕元に現れる話。
親子愛の話もある。たとえば、樵(きこり)の父が息子に世話をされながら安らかに他界する話。
長明は、家族に関して、いろいろ複雑な思いを抱いていたのだろう。
長明の出家
すなはち、五十(いそぢ)の春をむかへて、家を出(いで)て、世を背けり。 もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執をとどめん。(方丈記)

第13回 長明の執着

執着
仏教においては、愛は否定すべきものである。というのは、愛は執着の元になるから。
『発心集』にも愛に基づく怨念の話がある。能の「鉄輪(かなわ)」もそれに類する話である。
良いものを持つと執着になるからいけないという考えは、中世には広がっていた。『発心集』や『徒然草』にもそのような話がある。
『方丈記』における執着
「一間の庵、みづから、これを愛す。」と書いた後で「仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。 今、草庵を愛するも、閑寂(かんせき)に着(ぢゃく)するも、さばかりなるべし。」と書いている。つまり、 方丈の庵が好きだけれども、やはりそれは執着だからいけないことだ、としている。
最後に「不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。」と書いている。この解釈は古来いろいろある。 著者は、一心に祈ることが大事だという考えを長明は持っていたと見る。
長明の死
長明は、ふるさとである下鴨神社を愛していたのではないか。