国家と神とマルクス 「自由主義的保守主義者」かく語りき

著者佐藤 優
シリーズ角川 e 文庫
発行所角川書店
電子書籍
刊行2013/02/25
電子書籍の元になった文庫2008/11/25(初版)
文庫の元になった単行本2007/04 太陽企画出版刊
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読了2016/10/09

佐藤優が広範な読書を生かして、思想や国家論を雑誌で語ったり書いたりしたものを集めたもの。いろいろ勉強になることも多いし、知って驚くこともいろいろある。面白いのは、いわゆる左寄りの雑誌と右寄りの雑誌の両方に書いていることである。もちろん、現代では左と右が混乱していてそんなに一元的に分類できる時代ではないのだが、著者は一応保守的だけどマルクスもよく勉強しているようなので、左右両方から重宝がられているのだろう。

初出雑誌をを見てゆくと以下のような感じで、『月刊日本』と『情況』の両方が入っているのが注目点である。最も読み応えがあるのは、V の『情況』のインタビュー記事で、いろいろな側面から国家を論じているところである。

それから、世間からは否定的に見られがちな人を高く評価していることもポイントである。ここで注目すべきなのは、オウム真理教の麻原彰晃の弁護などの難しい弁護を数多く手がけている安田好弘弁護士と戦前の保守思想家の大川周明である。安田氏に関しては「やさしいまなざし」に注目している。大川周明に関しては、以下のメモの IV 参照。

気になる点があるとすると、思想渉猟を生かそうとするあまり、やや何でも過去の思想に結び付けすぎているような傾向を感じるところである。

以下、メモしておきたくなった箇所のメモ:

I それでも私は闘う--小泉首相得意の同語反復命題話法
小泉氏のイラク自衛隊派遣に関する「自衛隊は非戦闘地域に展開しているが、非戦闘地域は自衛隊が展開している地域だ」を批判するのに、佐藤氏は、わざわざウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を持ち出して、これはトートロジーゆえに何も言っていないとしている。もちろんこの小泉氏の言明は何も言っていないのではあるが、ウィトゲンシュタインを持ち出すまでもないことなので、上記のように昔の思想との結び付けすぎが気になる点の例である。
I それでも私は闘う--思考する活字メディアの重要性
著者によれば、ナショナリズムを理解するためには、動物行動学(エソロジー)の知識が必要である。人間の特徴は、思想的操作によって、自分の命を自分以外のもののために投げ出すことができることにあるとしている。これが、ナショナリズムを考えるための基盤となる。
II 国家の意思とは何か--新自由主義に歯止めをかけたホリエモン逮捕 [一] 国家の生存本能
著者は、ホリエモン逮捕を見えざる国家意思によるものとする。その考え方はヘーゲルに見出されるとして、「理性の狡知」という考え方を引用する。歴史の背後には理性(この場合、国会意思に対応する)なるものがあって、情熱的に取り組む個人を動かして、そういった個人を犠牲にしながら(ホリエモンとか村上正邦とか鈴木宗男とか)歴史を進める、と考える。著者自身が国策捜査の被害にあっているということもあって、国家意思のようなものを措定したくなる気分はわかる気がするし、こういうことは昔からあることなのだと獄中で心を落ち着かせるのには大いに役に立ったのだろうと思う。しかし、一方で、今さらヘーゲルを出すのもやはり昔の思想と結び付けすぎな感じはして、国家意思なるものをもう少し現代的に(例えばシステム論的に)分析して理解した方が良いのではないかとも思う。もっとも、著者はおそらく新しい考えよりは時代の試練を経た考えの方が信頼できると思っているのだろう(保守主義者を自認しているから)。とはいえ、私は、ヘーゲルは時代の試練ですでに潰れていると思う(ヘーゲルを読んだことは無いけど)。
II 国家の意思とは何か--「やさしさ」は「国家権力」に対抗できるか--3・国策捜査と国体の弱体化--「法律の罠」
上記のこととも関連して、著者が国策捜査を当たり前のこととして受け入れているという以下のくだりは強く印象に残る。国家意思があるということを受け入れることから、このような達観が生まれるのであろう。
私は法律はしょせん支配者のイデオロギーに過ぎないのだから、司法権の独立など最初から信じていないし、国家が生き残り本能で国策捜査を行うことも当たり前で、今回はそれに「大当たり」になったのは運が悪かったと考え、(以下略)。
IV 日本の歴史を取り戻せ--戦後アメリカが作った軍閥神話
アメリカによる歴史の歪曲について書かれている。これは初めて知って驚いた。GHQ は日本の全国紙に「太平洋戦史」を無理矢理書かせた。それによって、大日本帝国が悪かったということを国民に印象付けた。たとえば、風船爆弾は日本のバカな失敗のように書かれたが、実際はむしろ成功と見るべきで、アメリカは恐れをなしていた。さらに、ありもしない軍閥神話を作った。
IV 日本の歴史を取り戻せ--権威と権力の関係
北畠親房は、中国は革命が頻発する乱脈きわまりない国であると考えた。革命が起こると、中国人は過去に対して責任を取らない。北畠親房が分析した中国のこのような風土は、現代中国にもあてはまりそうなので、私には印象深かった。
北畠親房は、中国やインドの国家原理を分析した結果、大日本は神国なりと結論付けた。これは、権威と権力が分離されているということである。神国という意味がそのようなものであるとすれば、これは確かに現代の天皇制にまでつながる考え方である。
IV 日本の歴史を取り戻せ--北畠親房の論理
日本人は北畠親房の時代から寛容である。
日本人は寛容の精神の中で、多元的世界を考え、これを大東亜共栄圏と名づけました。アジアという場所(トポス)においては、アジア人である我々が、アジア人にとって住みやすい世界をつくることにする。日本人と他のアジアの諸民族は兄弟であり、同胞である。その間に優劣や上下関係は基本的にありません。だから、ヨーロッパやアメリカという別の場所(トポス)で生きている欧米人はアジアについて放っておいてくれ、というのが日本の最大限の要求でした。
V 国家という名の妖怪--無神論研究のため同志社大神学部へ
戦前の国家神道は、プロイセンの国教会をモデルにしていたということを初めて知った。
国民に「神道は宗教にあらず習慣である」というドクトリンを押しつけることで国家神道を超越的な宗教(国教)にしてしまった。 「これは宗教ではなく、慣習なんだから言うことを聞け」という「宗教ではない」という形態が一番強い宗教ですよね。 このモデルは明らかにプロイセンの国教会です。そのシステムというのを伊藤博文たちは上手く利用したというのがあると思います。
V 国家という名の妖怪--大学院を経て外務省に入省
官僚のもつアイロニカルな性質について:
モラルが高く、仕事に意義を見出している官僚は一般論として遵法意識が低くなっていく。それはどういうことかというと、法律は自分たちが作り出す、または解釈するものだという意識が強いからです。ですから一番の破壊的要素は、国家の内側、官僚にあると思います。
V 国家という名の妖怪--国民国家とナショナリズムの関係
ナショナリズムを煽るのは簡単だけどコントロールするのは難しいという文脈から、北方領土問題が語られている。大筋は以下のようなものである。1945 年当時は、政府は国後択捉を放棄しているという認識であった。1956 年の日ソ国交回復前には、二島返還で手を打つことが政府内ではほぼ了承されていたが、日本とソ連を引き離したいアメリカのダレスの恫喝によって、しかたなく四島返還に転換した。ソ連崩壊後、日露の提携が模索された。しかし、いったん四島返還ということが国民に定着してしまうと、政府も二島返還とは言い出せなくなって、密室外交で二島返還ということにしようとした。ところが、小泉政権の田中眞紀子外相の下で外務省内部の確執が表面化し、鈴木宗男や佐藤優が「国賊」ということにされてしまった。
V 国家という名の妖怪--排外主義のシンボル「ゴーマニズム宣言」
著者は、日の丸君が代の法制化には反対している。それは、法律で決めるものは法律で変えられるからだと言う。伝統や文化を法制化するのはカテゴリー違いであるとしている。この考え方はなるほど参考になる。
V 国家という名の妖怪--国体護持のための護憲
現憲法における天皇制の伝統性に関して、たいへん示唆に富む部分がある。
私は国体の護持という観点から護憲なんです。一条から八条を絶対擁護しなければいけないから。なぜなら、日本では権威と権力を分けておいた方がいいからです。
内容からしても護憲というのはとても右派的運動だと思う。大日本帝国憲法よりも日本国憲法の第一条から第八条のほうが『神皇正統記』で展開されているような日本の伝統的国体に一致していると思う。(中略)権威と権力を分けるのが日本国家のあり方だというのが南北朝動乱の結果なんだけど、その国体の伝統に近いのは日本国憲法だと私は考えます。大日本帝国憲法はむしろ近代の国民国家、高文化による操作がなされた公定(オフィシャル)ナショナリズムに日本の伝統的な国体が引きずられすぎたように思います。
V 国家という名の妖怪--国家は戦争し、徴兵し、徴税する
暴力国家論と憲法の意味に関して実に的確にまとめてある一節:
国家というものは悪である、暴力装置である、この大前提を崩した国家論はロクなものにはならないと思います。国家の暴力性を規制しなくてはならないのです。近代憲法は国家の暴力性を規制するというベクトルで生まれ、日本国憲法もそれを継承しているのです。だからこの点でも国家の暴力性を規制するという現行憲法の基本線を変更する必要はないと私は考えます。
V 国家という名の妖怪--『靖国問題』は寛容の幅が狭い
高橋哲哉『靖国問題』への批判がはっとさせられる。
私はあの本に対して、もっとも違和感をもつ部分は、高橋さんが「靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としないことになる。一言でいえば、悲しいのに嬉しいといわないこと、それだけで十分なのだ」と実践的な提言をしているところです。これは倫理基準として高すぎる。悲しみを無理をしても喜びに変えるところから信仰も文学も生まれるのです。結局のところ、悲しみをいつまでも持ち続け、それに耐えることができるのは、一握りの強者だけになってしまう。
V 国家という名の妖怪--社民主義の天才的政治家
アメリカの自由主義(リベラリズム)が論じられていて勉強になる。ただし、ここでのリベラリズムは旧来のリベラリズムで、今ではリバタリアニズムと呼ぶことが多いもののことである。著者は以下のように論じている。自由主義は伝統を除去するという特殊な思想であり、保守主義とは本来は相容れないはずである。しかし、アメリカの場合は、建国の時に先住民族の排除したことを自由という神話で包み込んだので、自由主義と保守主義を重ねあわせることができるようになった珍しい国である。自由主義の構えは、人間が自然と闘って自由を獲得するということだから、自然に対して非常に戦闘的である。