Solaris
「100分de名著」の放送で『ソラリス』のことを初めて知り(タイトルくらいは知っていたが中身は全然知らなかった)、ちゃんと小説も読んでみようと思った。 そんなに暇なわけでもないのだが、胃腸風邪で寝込んで仕事をする気にもならないときにだいぶん読み進んでしまい、さらに年末で読み終わった。で、実際に名著と呼ぶにふさわしい小説であることがわかった。 沼野氏の翻訳は、以下で少しいちゃもんをつけてはみたものの、全体的には読みやすく正確である(Kindle版英訳を参照してみるとだいたいわかる)。 ポーランド語からの翻訳だそうである。
小説は、重層的ですこぶる厚みのあるものである。だから、いろいろな読み方ができる。 とくに、自分の脳の中で考えたことが実体化されるという状況が作り出されているので、自分への問いがいたるところで投げかけられる。さらに、理解不能な海の存在は、人間の知性や思考の限界に関する問いを生む。 すぐれたSFとかSF的設定の小説は、人間に関する哲学的問いを提示する。 それは、たとえば、安部公房の「他人の顔」などにも見出すことができる。
「100分de名著」の放送では、小説の中の感情的な側面とか主人公ケルヴィンと幽体ハリーの関係に重点をおいている。それは下の「「100分de名著」放送時のメモと放送テキストのサマリー」で見てゆくことにして、以下ではそれとは別の側面を考察していきたい。
惑星ソラリスの運動
ソラリスは連星の周囲を回る惑星である。そのような惑星は軌道が不安定なはずだが、どうやら「ソラリスの海」が能動的に軌道を安定化しているらしいという話が出てくる。 (「ソラリス学者たち」の章)
一方、最近発見された多くの系外惑星の中にも連星の周囲を回っているものもあることが知られている(e.g. 日経サイエンス 2014 年 5 月号「2つの太陽を持つ世界」)。最初に見つかったのが Kepler 16b とよばれる系外惑星である。 連星の周りの惑星の軌道は確かに不安定なことが多いのだが、そうでないものもあるということのようだ。
『小アポクリファ』
『小アポクリファ』はソラリスに関する本の一つで(名前は「客」の章で出てくる)、一つの章の名前にもなっている。 Apocrypha とはギリシャ語の「隠されたもの」に由来し、キリスト教文書では「外典」と訳される。 正典に入らない文書のことだ。
で、ソラリスの『小アポクリファ』は、ソラリスに関する珍説奇説の類を集めたものなのだが、この中のベルトンの報告に 実は重要な真実が含まれていたという話になっている。
ニュートリノ
主人公のケルヴィンは、幽体ハリーの血を調べて、幽体Fはニュートリノでできているのではないかと推測する(「会議」の章、沼野訳 pp.189-190)。なぜ、レムはそんなことを考えたのだろうか?
ニュートリノといえば、ニュートリノの研究で 2002 年と 2015 年に日本人がノーベル物理学賞を受賞したということが記憶に新しい。 ところで、1995 年には Frederick Reines がニュートリノを初めて検出したということでノーベル物理学賞を受賞している。 この研究の論文が出たのが 1956 年であった。 Reines は Clyde Cowan とともに 1953 年から実験を始め、1956 年にニュートリノの検出に成功した。 というわけで、『ソラリス』が書かれた 1961 年には、ニュートリノは発見されたばかりの新素粒子だったのである。 それがレムが幽体の素材として採用した理由だと思える。
普通に考えると、ニュートリノで形のあるものを作るのはかなり無茶苦茶なので、 レムもケルヴィンに「ひょっとしたら、何らかの力場がそれを安定させているのかもしれない。」と言い訳させている。
参考 web pages :
- ニュートリノって何? in スーパーカミオカンデ
- ニュートリノとは何か in 日経テクノロジーオンライン
- Neutrino History by Didier Verkindt
「長物(ながもの)」の描写
『ソラリス』の特徴のひとつは、粘り強く重層的な描写にある。その描写がわかりづらい部分があったので、英訳を元に翻訳をチェックしていく。沼野訳はポーランド語原文からの翻訳なので、その適否は私にはチェックできないが、英訳から私が訳してみたものと比較してみる。 沼野氏の翻訳は全体的にはわかりやすいのだが、科学用語が入っている(と英訳から推定される)部分に関してはやや疑問がある。 ここで見て行くのは、「怪物たち」の章の「長物(ながもの)」(英訳では extensor)の描写である。
ここで参照した英訳は、Bill Johnston 訳の Kindle 版である。
(1) 沼野訳 pp.207-208
[沼野訳] 彼の著作の初版を苦労して読み進んだ者なら知っているとおり、最初のうち彼は地球中心主義に鼓吹されて、それをまさに「上げ潮」と呼んでいたのである。彼は他になすすべを知らなかったからしかたないが、そうでなければこういった地球中心主義は滑稽なものでしかないだろう。というのも―地球にそれでもあえて似たものを捜すならば―これはコロラドのグランド・キャニオンをはるかに上回る規模の形成物であり、それを形作っている素材は海面上では、泡だったゼリーのような粘稠性を持っていた(しかもこの泡は凝固して、すぐに粉々になる巨大な花綱、巨大な網目のあいたレースのようなものになり、何人かの研究者の目には、「骸骨と化した瘤」のように映った)。
[英訳] Besides, anyone who's immersed himself in the first edition of the work knows that he originally named them precisely "tides" led by a geocentrism that would be amusing if it weren't for his helplesness. For -- if comparisons with Earth really do have to be employed -- these are formations larger in magnitude than Colorado's Grand Canyon, modeled in a substance that on the outside has the consistency of jelly and foam (though the foam hardens into vast, brittle garlands, into tracery with immense holes, while some scientists have seen it as "skeletal excrescences").
[英訳からの私訳] 彼の著作の初版を読みふけったものなら知っている通り、最初のうち彼はそれのことをまさに「潮汐」と呼んでいた。 こんな地球中心主義は、彼にはそれ以外に呼びようがなかったのだと知らなかったら、滑稽なものだろう。 というのも、あえて地球と比べないといけないなら、これはコロラドのグランドキャニオンよりも大きな構造だからだ。 それを形作っている物質の表面は、外から見るとゼリーかムースのように均質でなめらかだった(しかし、このムースは固まって、ゴシック建築の窓飾りのように穴の開いた脆い巨大な花綱となるのだった。研究者の中には「骨組み状の突起物」と呼ぶ者もいた)。
英訳が適切なら、tides は「潮汐」と訳してほしいし、foam は「ムース」などと訳してほしい。「泡」には bubble と foam があるのだが、通常「泡」と言われると bubbles を想定するので、foam には別の訳語を当ててほしいのである。
(2) 沼野訳 p.209
[沼野訳] そこには同心円状の循環があり、その中では黒っぽい流れが交差し、上部の「マント」がときおり空と雲の姿を映し出す鏡のような表面となる。ただし、半液体状の中心がガスと混ざって噴出し、爆発のどよめきを響かせるとき、この「マント」には穴があいてしまう。次第にわかってくるのは、そのすぐ下に様々な力の作用の中心があるということだ。そこに働いている力は、左右に押し開かれ空の下に引き上げられた、ゆっくり結晶化するゼリーの斜面を支えているのだろう。
[英訳] They possess their own concentric rotations, darker streams intersect, and at times the outer mantle becomes a mirrored surface reflecting clouds and sky and shot throught with loud explosive eruptions of its half-fluid, half-gaseous center. It slowly becomes clear that right below you is the central point of the forces holding up the parted sides that soar high into the sky and are composed of sluggishly crystalizing jelly;
[英訳からの私訳] そこには同心円状の循環があり、暗く見える流れの線が交差していた。 ときおり、外側のマントル表面が鏡面のように雲と空の姿を反射したかと思うと、その鏡面を破って中心部の気液混合体が大音響とともに爆発的に吹き出すのだった。 だんだん眼下の景色がはっきりしてくると、中心点から力が働いて、側面の部分が空高く噴き上げられている様子がわかってくる。 噴き上げたものはネバネバしたゼリー状のもので、徐々に固まっていった。
英訳が適切なら、mantle は「マントル」と訳してほしいし、「ゼリーの斜面を支え」ではイメージが沸かない。爆発してネバネバしたものがゆっくり飛び散っていくようなイメージを英語からは受ける。
胡蝶の夢
ケルヴィンの夢の中に死んだはずのギバリャンが出てくる。夢なのか幽体なのかもよくわからず、したがって、「胡蝶の夢」の現代版みたいな会話が交わされる。
「あんたはギバリャンじゃない」
「おやまあ。じゃ、誰なんだね?ひょっとしたらきみの夢なのかな?」
「いや、夢の操り人形ですよ。でも自分ではそのことがわかっていない」
「じゃあ、きみには自分が何者なのか、どうしてわかるんだね!」
この言葉に私は考え込まされた。
[「液体酸素」の章、沼野訳 pp.249-250]
荘子の「胡蝶の夢」の方はこうである。
昔者(むかし)、荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。 自ら喩(たのし)みて志(こころ)に適うかな。周なることを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。 知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るかを。 周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此れを之れ物化と謂う。
『ソラリス』の方は、脳の中のイメージが実際に実体と化すという状況設定なので、より深刻に夢と現の境が分からなくなってしまっている。
幽体ハリーの人格
「液体酸素」の章では、幽体ハリーは、はっきり独自の人格を持っていることが表現されている。しかし、元の人間ハリーにそっくりに作られていれば、人格もできてしまうものだろうか?とくに問題になると思うのは、幽体ハリーには過去の記憶があまりないという点である。記憶の蓄積がなくても人格ができるのかどうかは、人格というものの本質に関わるように思える。
幽体ハリーには自由意志もあるようである。自由意志というものが本当にあるかどうかは昔から哲学的にも問題だけど、少なくともそれらしく見えるものが発生する条件は興味深い。どの程度まで人間の脳に似たものができれば、自由意志らしきものが現れるのだろうか?
脳電図照射実験
主人公ケルヴィンの脳電図をソラリスの海に照射するという実験が行われる。それがどんな効果を及ぼすかは全く予想不能である。 その中で、ケルヴィンは否応なく人は自分自身の思考をよくわかっていないという事実に向き合わざるを得なくなる。 そこで、以下の痛ましい独白が出てくる。 人は自分自身に正面から向き合うと、いろいろな思いが交錯してぐちゃぐちゃになることが痛々しく突き刺さる。
もし彼女が消えてしまったら、私がそれを望んでいたということを意味するのだろう。つまり私が殺したということだ。 サルトリウスのところに行くのは止めようか?あの二人だって強制はできまい。でも彼らに何と言おうか?このことは―だめだ。 言えない。そうだ、演技をする必要がある、嘘をつく必要があるんだ。いつも、これから先ずっと。 でもそれは、自分の中にはひょっとしたら、残酷なもの、素晴らしいもの、殺人的なものなど、様々な考えや、意図や、希望があるのに、 自分でもそれについて何も知らないからなのだ。人間は他の世界、他の文明と出会うために出かけて行ったくせに、 自分自身のことも完全には知らないのだ。自分の裏道も、袋小路も、井戸も、封鎖された暗い扉も。 彼らに彼女を引き渡すなんて……恥ずかしさゆえに?自分に勇気が足りなかったばかりに、引き渡すというのか?
[「会話」の章、沼野訳 pp.297]
向き合う決意
物語の最後は、これからも主人公が理解不能な他者であるソラリスの海と向かい合い続けるという期待で終わる。ソラリスの海は、理解できないだけでなく、結果的に自分自身や人間に関する痛ましい考察を投げつけてくることになる。それでもなおなのか、それだからこそなのか、主人公のケルヴィンはソラリスから立ち去らないという決意を述べる。これに対応して、その前の章の最後では、スナウトも立ち去らない決意を述べていた。
「まさかステーションに残るつもりじゃないだろうね……?」
「残るつもりなのさ。そうなんだ」
[「成功」の章、沼野訳 p.367]
しかし、ここから立ち去ることは、未来が秘めている可能性を―たとえその可能性がはかなく、想像の中にしか存在しないものであっても―抹消してしまうことを意味した。
(中略)
私はこの上まだどんな期待の成就、どんな嘲笑、どんな苦しみを待ち受けていたのだろうか?何もわからなかった。それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ。
[「古いミモイド」の章、沼野訳 p.387]