立花隆「東大生はバカになったか」に引用されていて、その考えの源の一つだということを知り読んでみた。 すると、本書の主張は、教養教育こそが大学の中心的な柱であるべきだということで、立花隆もこれに大きく影響されていることがわかる。 それとともに教養教育と専門教育の間の葛藤は 100 年くらい前からずっと続いていて全然解決していないということもよくわかった。 教養教育こそが柱だというのは、多くの卒業生は研究者になるわけではないので、現代に生きるための知を必要としているということからきている。 したがって、教養といっても、古臭い古典的教養という意味ではなくて、現代に生きるために必要な知識である。 ここ(p.54)で挙げられているのは、物理学、生物学、歴史、社会学、哲学である。この項目には今となっては私は異論があるが、 それは常に時代に合わせて変えてゆけばよいことである。
大学には、ジェネラリスト教育(これは立花用語で、オルテガは「教養(文化)の伝達」と書いている)、専門家教育、科学者教育の 3つの機能があるというまとめ (p.38) は大変に明快である。研究者になる人は全体のごく一部なので、このうち第一のものが大学の主たる使命だというわけだ。 ただし、研究もそばにある必要があるという書き方をしている。
もし教養と専門が、絶え間なく発酵している科学、つまり探究と接触せずして、大学内で孤立するならば、両者は間もなく麻痺状態に陥り 硬直したスコラ学になり終わるであろう (p.87)。
本書には、『大学の使命』のほかに『「人文学研究所」趣意書』と訳者による長めの解説が収められている。 解説を読むと、オルテガの大学論の位置づけがだいぶんわかってくる。 対照的な議論として解説されているのは、ヤスパースとロスマンの大学論で、こちらでは伝統的な研究中心の大学が良いとされる。 オルテガと全く違うことになっている原因は、ヤスパースが考えている大学は少数のエリートを教育する機関であるのに対し、 オルテガが考えている大学は大衆のためのものとされていることによる。 教養の概念も、ヤスパースとオルテガでは違う。 ヤスパースにおいては、教養は科学的な態度の涵養、すなわち自然に照らして自分の考えが間違っていることが分かったら すぐに改める態度を指す。一方で、オルテガにおいては、教養は生きるために必要な知識や思想の体系を身に付けることである。
今の日本の大学は全体的には大衆のための教育機関である。そうなると、やはりオルテガの議論に耳を傾けなければならない ということになる。
最後にオルテガによる「大学の使命」が書かれている一節を引用しておく。
人間を啓発すること、時代の全文化を伝達すること、生が真正であるためにそこへ生がはまり込まねばならぬところの巨大な現代の世界を、 明瞭かつ正確に露呈すること―この中心課題を大学は取り戻さねばならない (p.75)。